13話 都筑さんの告白

 駅前から一本裏に入った静かな通りで、小さく目立たない看板の出ている店の前で都筑さんが足を止める。喫茶店のような、レストランのようなそのドアを開けると、カウンターとテーブルが四つだけの小さな店で、入るとすぐにカウンターの中の女の人が都筑さんに気づいて声をかける。


「いらっしゃいませ、……あらあ、お久しぶりねぇ。変わりない?」


 親しげに話す二人、都筑さんにも笑顔が戻る。俺たちは奥のテーブル席に通してもらった。清潔なテーブルクロスの上に、小さなろうそくが灯っている。店の中が全体的に暖色の明かりに染まっていて、落ち着いた雰囲気だ。


「今日は岩ガキのいいのあるけど、食べる?」


 都筑さんの椅子を引きながら、その女性は言った。


「ありがとう。もらおうかな」


 慣れた様子で都筑さんはテーブルに着いた。俺はまだ展開について行けなくてテーブルのそばでぼんやりしてしまう。


「どうぞ、座って」


「あ、はい」


 俺は恐る恐る椅子に座った。都筑さんと店の人は顔見知りらしく、メニューも見ずに都筑さんが女性に注文する。俺は椅子の上で一人緊張しながらグラスの水を飲み干していた。


「バイクだと飲めないか、残念」


 都筑さんは目を細めて微かに笑う。ついさっきの怯えた様子からだいぶ落ち着いて来たようで俺はホッとした。その途端に腹が鳴り出して、都筑さんはさっきよりもはっきりと声を出して笑った。


「僕はここの料理が好きでね。川瀬くんの口に合うといいけど」


 やがて適当なタイミングであれこれと皿が運ばれてくる。そのどれもが驚くほど美味くて、俺はつい食べるのに夢中になった。都筑さんはワインを飲みながらそんな俺をしばらく眺めていた。一枚、二枚と皿が片付いた頃、グラスをテーブルに置き、ステムに指を滑らせながら都筑さんはあまりにもさり気なく話し始めた。


「――僕ね、あまり目が良くないんだ」


 俺は都筑さんの指先に気を取られていて、突然の話題になんと返せばいいのか分からず、微妙な答えしか思い浮かばない。


「ああ……眼鏡、掛けてますしね」


「うん、もともと学生の頃から眼鏡をかけてたんだけどね。……三年前、網膜に問題が見つかって。あまりはっきり見えないんだ」


 話が見えなくて、都筑さんの言葉を待つ。わざわざこうして俺に話すくらいだから、ただの近眼ではないんだろうか。俺は嫌な予感に胸がざわついて落ち着かない。グラスに手を伸ばして水を飲んだが、唇が妙に乾く。


「そこに川瀬くんが居るのも分かるし、動いてるのもわかる。ただぼんやりしていて、表情や顔の区別はほとんどつかない。――当然、文字を読むことも難しくなった。だからイルミネアから降りたし、君の原稿も読めない」


 淡々とそう話す都筑さんと、話の内容の重さが結びつかずに俺は馬鹿みたいに口を開けたまま身動きできずにいた。


「全く見えないわけじゃないんだ。大抵のことは一人でできるよ。ただ、咄嗟のことにはなかなか対応できなくて。……それでさっきも、ね。情けないところを見られちゃったってわけ。……バイクも、初めてだからちょっと怖いっていうか。だからごめんね、助けてもらったのに」


 ああ、あの日の夜も、どこか遠くを見ているようなその目は俺が見えてなかったせいなのか。さっきもあんなに怯えていたのは、突然触れたのが誰だか分からなかったからなのか。俺は都筑さんの不安を思うと自分に腹が立った。


「……謝らないでください。都筑さんは悪くないし情けなくもないです。……俺もあいつらと同じです。一方的で、自分勝手で。俺の方こそすみませんでした」


「そんなことはないさ。目のことを知ってたわけじゃないんだし」


 静かにそう言ってグラスを傾ける都筑さん。鶏肉にフォークを刺して口に運ぶのも、籠のパンを手に取るのも、とても自然でどこか優雅で、その目がよく見えていないなんて、とても信じられない。


「あの、都筑さんはもう、いっさい編集の仕事をしてないんですか?」


「……いや、裏方だけど一応関わってるよ」


「本を読む時はどうしてるんですか?」


「読まなきゃいけないものは読み上げソフトを使ってるけど、やっぱりいまいち精度がね。引っかかるところがあれば文字を拡大して確かめるけど、効率が悪くて。どうしても量をこなせないんだ」


「そう、なんですね……」


 俺はただ呆然として、そう呟くのが精一杯だった。


「この前の君の原稿、そんなわけで僕は読めないけど、宮原に見せてみるのはどう?」


「……ありがたいお話です。俺みたいな学生の原稿をイルミネアの編集長に見てもらえるなんて」


「今度お店に行った時、僕が預かるよ。宮原に渡しておこう」


「…………はい」


 この上ない幸運なんだと頭ではわかっているのに、俺はどこか心の中に引っかかるものがあった。店を出て都筑さんを改札まで見送って、俺はひとり生ぬるい夜の風を浴びて走った。

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