11話 帰省

 世の中のお盆休みも終わった八月の下旬、暑さを避けて夜の七時に俺はバイクで伊織のアパートの前に迎えに行った。あいつのメットはいつもバイクにぶら下げてある。二人とも荷物はほとんどない。俺のリュックの中に伊織の荷物も突っ込んでそれを伊織が背負う。


 帰省ラッシュも終わった夜の高速道路、夜風が気持ちいい。途中のサービスエリアで遅い夕飯を食べ、俺の家から十分ほど離れた伊織の実家に寄り、俺が実家についたのは十一時近かった。一昨日、突然帰ると言ったにも関わらず、俺の布団は干されていて心地よかった。



 翌朝、起きるとテーブルの上には煮物やら焼き魚やら、たくさんの料理が並んでいた。普段は食パンとコーヒー程度で済ませるが、なぜか実家に帰ると朝から茶碗に二杯は軽く食べてしまうから不思議だ。高校生の妹の芽生めいもお袋と並んで台所に立ち、少し遅れて若干焦げた玉子焼きが出てきた。


「おまえ料理なんかするの」


「最近自分でお弁当作ってるよ」


「――そりゃ驚きだ。彼氏でもできたのか」


「……!! でっ、きてない、し」


 これは、彼氏未満、というところか。お袋の表情からして悪い相手ではないんだろう。昔は伊織にべったりで、さんざんダシに使われたのが懐かしい。妹の作った玉子焼きをひとつ口に放り込むと、それは驚くほど甘かった。


「ねえお兄ちゃん、伊織くんは? 一緒じゃないの?」


「伊織も帰って来てるよ」


「マジで? めっちゃカッコ良くなってそう。いいなあ。遊びに来ないの?」


「おまえの彼氏候補はどうした」


「それはそれ、これはこれ」


「そういうもんか?」


 昨夜は着いてすぐに風呂に入って寝てしまったから、俺は改めて自分の部屋に戻って、高校生だった頃の俺の世界の半分以上を占めていたこの六畳の部屋を眺める。物には執着しない質だが、本だけは捨てられなかったから、本ばかりが増えていった。


 本棚に並ぶ色褪せた背表紙を目で追うと、イルミネアがずらりと並んだところで視線が止まる。残念ながら創刊号とそのあと数冊は持っていないが、それ以降は毎月の数字が気持ちよく揃って並んでいる。


 一番古い号を手に取る。独特の装丁は、今見ても古さを感じない。近所の本屋に置いてなくて、ショッピングモールの大型書店まで買いに行ったのを覚えている。今思えばどうってことない買い物なのに、イルミネアを持ってレジに並ぶのが妙に恥ずかしかったのを思い出して、小さく笑う。


 パラパラと捲ると、粘着力を無くした付箋が、書き下ろしの短編のページから剥がれ落ちた。当時無名の作家だったが、今はベストセラー作家で、確か映画化もされていたはずだ。難しいことは分からなかった高校生当時、それでも面白くて引き込まれて、読み終わるまで止められなかった。こういう小説を、都筑さんは次々に発掘していたんだ。改めて彼の審美眼を思うと、俺の小説が彼の眼鏡に適うとは思えず、ため息をついてイルミネアを閉じた。


 思い出に囲まれて、懐かしい匂いを嗅いでいると、なんだか痛いような苦しいような気持ちが喉の奥に込み上げてきて、俺はベッドの上に倒れ込んでしばらく目を閉じた。


 芽生がドスドスと地響きのような足音を立てて階段を上ってくる。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん! 来た! 来たよ!」


 ドアの前で芽生の叫び声が聞こえる。いまさら必要もないが、当然ノックもせずに勢いよくドアが開いた。


「何が来たんだよ」


 顔を真赤にして興奮気味の芽生は文字通り鼻息を荒くして叫んだ。


「伊織くんだよ! ――っもう何あれカッコいい、ヤバい!」


 階段を下りていくと、玄関に伊織が立っていた。


「どうした、なんかあったか」


「さっきLINE入れたんだけど見てない?」


「ああ悪い、見てねえわ。とりあえず上がれよ」


「うん。おじゃましまーっす」


 伊織が居間に向かって声を掛ける。お袋が奥からいらっしゃーいと言うのを聞きながら俺は一歩階段を上りかけ、伊織をジロジロ見ている芽生に試しに言ってみる。


「芽生、なんか飲みもん持ってきて」


 普段だったら絶対にうんとは言わないはずの芽生が、満面の笑みでうん、わかった! と答えると、伊織が芽生にありがと、と笑いかけた。俺が堪えきれたのはそこまでで、我慢できずに吹き出すと芽生がものすごい形相で俺を睨んだ。俺の部屋に入ると、伊織はぐるりと見回す。


「めっちゃ懐かしい。まんまじゃん」


「ああ、特に何も変わってないな」


「いいなー。俺なんか完全に妹の部屋になってた。居間に布団敷いて寝たけど居心地悪くて、出てきちゃった。もうちょっとこう、なんかウェルカム感あるかと思ったけど」


「ああ、なんか想像できる」


 伊織の家は、伊織が小学生の頃に親が離婚していて、母親と姉と妹と伊織の四人暮らしだった。伊織は父親とも仲は良くて、月に何度か食事をしたり小遣いをもらったりしているらしい。いわゆるシングルマザーだが、その母親がかなりドライな人で、早く家から出ていけ自立しろ、と伊織はしょっちゅう言われていた。


 もちろんきちんとした生活をしていて、伊織を大事にしているのもよく分かった。たぶん金のことで伊織を悩ませたりもしてないと思う。なんていうか、甘やかす事をしないさっぱりした人だった。女手ひとつで育てていて甘ったれにしたくなかったんだろう、と今なら思う。


 俺はお袋が何かと構ってくるのが鬱陶しく思えることが多くて、だから伊織が年の割に母親思いで何かと大事にしているのが微笑ましかった。


「だろ。せっかく帰ってきてやったのに、一言目にいつまで居んのって言われたわ」


 結局伊織は、実家にいるあいだもしょっちゅう俺の部屋に来て過ごしていた。適当にベッドに寝転がっては古いマンガを読み、飽きればコンビニに買い物に行く。


 高校の頃から俺はたいてい本を読んで過ごし、伊織も適当に本や漫画を引っ張り出して読んでいる。初めは何となく申し訳なくてゲームをしたりもしたが、そのうちまた二人で黙って本を読むようになり、以来ずっとそんな感じだ。


 ふだん学校にいる時は友だちに囲まれて、いつもにぎやかにしているが、俺と居る時の伊織はほとんど喋らない。俺にとってはそれが居心地よかった。伊織なりに、俺が落ち込んでるのを察して、今回の帰省に誘ったんだろう。毎日のように俺の部屋に来て、ダラダラ過ごしながら、それでもお袋が夕食に誘っても夜は必ず帰っていくのが伊織らしいなと思う。


 芽生がどうしても、とうるさいので一度だけ三人で映画を見に行き、家の前で子供向けの小さな手持ち花火で遊んだが、それ以外は特別なこともない地味な休みを過ごした。


 最後の日、俺は翌日の午前からバイトを入れていたので夕方には出発することにした。お袋が俺にスイカを持たせようとするのを振り切って家を出る。伊織の家に寄り、伊織の母親に挨拶をして俺達はまた夜の高速を東京に向かって走った。ほんの少しノスタルジックな一週間が終わる。

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