10話 俺の原稿見てください

 都筑さんだ。本物の。俺は喜びのあまりポカンと口を開けて、目の前にいる憧れの神編集長を穴が開くほど見つめた。都筑さんはテーブルの上に置いていた両手を、太ももの上で組み直し、俺を上目遣いで見上げる。


「俺、ずっと小説書いてて、いつかイルミネアに送ろうと思ってたんです。でも途中で都筑さんがいなくなってしまって、迷ってました。俺は都筑さんに憧れていたので、都筑さんに見てもらえないならどこでも同じかなと思ってて。……でももしかしたらあなたが都筑さんかもしれないと思ったら、どうしてもあなたに見てほしくて、また新人賞に応募しようと思って、それで――」


 俺は握りしめて皺の寄った原稿を都筑さんに差し出した。


「これ、今度の北斗文学賞のために書いた長編です。ぜひ都筑さんに見てほしくて……」


 俺は祈るような気持ちで原稿の束を差し出した。だが、都筑さんは組んだ両手を解くこともなく、ただその原稿を見つめていた。いつまで待っても受け取ってもらえない。俺は振り絞るようにもう一度声を掛ける。


「あの……」


「僕、もうそういうのやってないんだ。悪いけど、受け取れない」


 想像以上に冷たい声だった。確かに、こんな素人のガキが書いた原稿なんていちいち読んでられないだろう。心のどこかで薄々分かっていた事実だが、それでもこうして実際に突きつけられると冷水を浴びせられるような衝撃だった。俺はしばらくの間、差し出した手を引っ込めることもできずに、ただ都筑さんを見つめたまま動けなかった。




「都筑さん、どうしました?」


 不意に後ろから声がして、振り向く。そこには先日都筑さんと一緒にいたあの男性が俺と都筑さんを交互に見やって不思議そうに立っていた。


「ああ、宮原。ちょうどいいところに来たな」


 都筑さんは俺の持っている原稿をほんの一瞬だけちらりと見て、俺に向かって言った。


「川瀬くん、だっけ? 彼が宮原だよ。今のイルミネアの編集長。君、運がいいね。宮原に見てもらえばいい。――なあ、宮原、この子の原稿見てあげてくれないかな。忙しいところ悪いんだけど、彼の強運に免じて」


 宮原と呼ばれたその人は話が見えないようで、俺と都筑さんの間で戸惑っていたが、都筑さんにそう言われて、俺が差し出している原稿に目を落とす。そして俺に近づいて原稿に手を伸ばした。


「君が書いた原稿? 都筑さんの推薦なら見せてもらうよ。じっくり読めるのはちょっと先になっちゃうと思うけど……」


 宮原さんは、人懐っこい笑顔で俺の原稿を受け取ろうとしている。この人はイルミネアの現編集長だ。こんな人に直接見てもらえる機会なんてもう二度とないだろう。プロの編集者のアドバイスなんて、物書きの卵にしたら喉から手が出るほど欲しいに決まってる。それなのに俺は動けなかった。そして俺の口から出たのは自分でも驚くような言葉だった。


「……すみません。無理を言って。でも俺、都筑さんに見てほしくて、それしか考えてなかったんで。本当にすみません。……あの、お邪魔しました」


 俺は咄嗟に原稿を引っ込めて再び握りしめると、二人に頭を下げて、走ってバックルームに戻る。浮かれて思い上がっていた自分を恥じた。残りの休憩時間、俺はただひたすら自分のおめでたい思考回路を呪い、言いようもない惨めな気持ちでホールに戻った時、そこに二人の姿はなかった。



*****



 いい加減気持ちを切り替えなければ、頭ではそうわかっていても、寝ても覚めても繰り返しあの日のことばかり考えてしまう。俺は何であんな事をしたんだろう。都筑さんドン引きだったな、いきなり見ず知らずの学生が原稿の持ち込みなんて迷惑だよな、いちいちそんなの相手にしてる暇なんかないだろう。次に会ったらどんな顔をすればいいんだ。 


 ――そんなことをぐるぐると考えているとひどい自己嫌悪に陥って、それを忘れようと本を開いては、またため息をついてあの日のことを考える。その無限ループから抜け出せない。


 講義の最中に思い出してしまった時は最悪だった。頭を抱えて、髪の毛をグシャグシャと掻き回したあと、ああああ、と大きな声を出して机に伏せた俺に、周りの連中が怯えているのが分かった。


 伊織ですら憐れむような表情で俺を見ていた。だが幸い、もうすぐ夏休みだ。学生はもちろん、お盆の時期は会社員もほとんど姿を見なくなる。


 夏休み、俺は毎日バイトに明け暮れた。とにかく今はあの小説の事を忘れたかった。そうして週に五日フルタイムで働き、しばらくはPCにも触らなかった。


 そろそろ世間のお盆休みが空けようとする頃、伊織から連絡があった。帰省ラッシュのピークを避けて地元に帰らないか、という話だった。俺たちの地元は都内から車で三時間ほどの、のどかな街だ。それほど遠くないとも言えるが、やはり長期の休みでもないとなかなか腰が重い。


 今年の正月にも帰らなかったことを思い出し、俺は伊織に付き合うことにした。地元に帰る時、俺はいつもバイクだ。特急や夜行バスの予約は面倒だし、金がかかる。バイクなら思い立った時にいつでも出発できるのが楽でいい。俺の人生の中で最も高い買い物であり、今でも俺の全財産に等しい。


 高校の時、反対する親父とお袋を説得し、休みはほとんどバイトに費やした。念願の免許を取って、最終的には親父が足りない分を出してくれてようやく中古のバイクを手に入れ、そこから毎週末にコツコツとパーツを磨いた。伊織はそのバイクを見て羨ましがり、自分も乗りたいと言い出した。


 俺が一緒に走ろうと誘うと、あいつもバイトを始めた。三年の春休み明け、伊織が満面の笑みで俺に見せてきたのは、バイト代で買ったというピカピカのヘルメットだった。免許も取らずにメットを買ったのを不思議に思っていると、伊織は俺の後ろに乗るつもりで買ったと言ってメットを撫でた。俺はその斜め上の発想に吹き出した。


 だが免許取得後一年未満は二人乗りができない事がわかり、結局初めてあいつを乗せたのは大学に入ってからだった。

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