07話 その人の名は

 それから十分ほど経った頃、スーツ姿の男性が慌てた様子で入ってきた。走ってきたのか、少し息が上がって額には汗が浮かんでいる。アイスコーヒーを頼み、受け取ると急いで座席を見回す。誰かと待ち合わせなのだろう。すぐに相手を見つけたらしく、真っ直ぐに席へ近づく。


「すみません、ツヅキさん。お待たせしました」


 そう言って、その男性は、あの不思議で物静かな眼鏡の男性の向かい側の椅子を引いて腰を下ろした。


 俺は思わずその場に直立し、その人を見つめる。ツヅキ、その名前が呼ばれるのを、俺は確かに聞いた。さっきの女性は彼をカズマ、と呼んだ。

 

 ツヅキカズマ、どこにでもある名前ではない。俺が憧れている人の名前も「都筑和真」——偶然、なのだろうか。


 俺は、文字だけを何度も何度も見て、ただ憧れ続けたその名前の響きを聞いて妙に気持ちが波立った。二人が何を話しているのか、気になって仕方ない。俺はつい彼らのテーブルに近づいてしまう。そうして会話に耳をそば立てている俺はかなりヤバいのかもしれない。これってまるでストーカーみたいだな、と思いつつも、どうしても足が彼らのテーブルから離れない。


「編集室にミカさん見えましたよ。不在だとお伝えしましたけど、信じてもらえなくて参りました」


「ああ、さっきまでそこにいた」


「やっぱり諦めてないんですね」


「いずれ耳に入るだろうとは思っていたが、予想より早かったな。さすが、と言うべきか」


「ええ、参加する先生がたのことも恐らくもう知ってるんでしょう。話題になるのは確実ですからね。ツヅキさんを引き抜きたくて仕方ないんでしょう」


「あの話はもう過去のことだ。あの時とはもう何もかもが違うんだから。今はそれどころじゃない。進捗は?」


「はい、初稿はすべて揃って、目を通したところです」


 頭を寄せ合って二人が話している。途切れ途切れに聞こえる内容も、どうやら出版関係のようだ。この近くには大手の出版社の本社がいくつかある。あり得ない話ではない。出版関係の人で、名前が「ツヅキ」。俺はもうその先の期待を抑えきれない。


「ツヅキさんのお陰で、先方からはOKもらってます。忙しい先生ですけど、もともと書きたいのはこういうジャンルだから、って喜んでましたよ」


「そうか。それならひとまずイベントの目玉はそれで行こう。他にも何人か返事待ちだから、最終決定は二十九日以降になるな」


「了解です。俺今からめちゃくちゃ楽しみなんですけど」


「お前あの人のファンだもんな」


「それだけじゃないですよ。ツヅキさんが、こうしてまたチーム引っ張ってくれるの待ってたんで」


「甘えるなよ、今はお前が編集長だろう」


「ツヅキさん」が眼鏡の奥の瞳を細めて眩しそうに笑った。その唇がきゅっと引き上げられて、白い歯が覗くのを、俺は呆然と見ていた。


 ――ツヅキさん、笑った。笑うとあんなに若く見えるんだな。俺はツヅキさんが笑いかけたスーツの男を羨ましいと思った。そして「ツヅキさん」は「都筑和真」なんだと、何の証拠もないのに確信した。


 俺は、それからなるべく平日にもシフトを入れてまた会えることを期待したが、あの日以来、「都筑さん」はぱったりと来なくなった。毎回期待しながら店に入り、そろそろ現れるかも知れないと入り口ばかりを気にしていたら、店長に怒られた。


「こら、川瀬くん。冷蔵庫開けっ放し!」


「あっ、すみません!」


「なんか最近心ここにあらずだぞ。シフト増やしてくれるのはありがたいけど、これじゃ仕事任せられないよ」


「……すみません、気をつけます」


 俺はあの人が「都筑さん」なのだと思ってそれだけで浮かれていた。よく考えてみればあの人にとって俺はただのいちファンに過ぎないわけで、もう一度会えたからといって、突然話し掛けたりしたら迷惑になるかも知れない。第一、本人かどうかも不確かなままだ。一日、また一日と時間が過ぎるにつれ、俺の浮かれた興奮状態は少しずつその熱を冷ましていった。


 ――彼があの都筑さんだったとして、俺は一体何をどうしようって言うんだ。ファンです、ずっとイルミネア読んでます、って伝えるのか? それで? そんな事を言うために探してたのか? 違う。じゃあ何が目的だ? 俺は、俺の書いた小説を、あの人に見てもらうのが夢だったんだ。そして彼に認めてもらい、いつかイルミネアに載りたいと思ってた。……彼はもうイルミネアの編集長じゃない。だけど、彼の感性や審美眼は何も変わってないはず。


 俺は浮かれすぎた頭を整理してもう一度考えた。あの人に会うのが目的じゃないだろう。あの人に認めてもらえる小説を書くのが俺の夢なんだ。俺は今、あの人に見せられるものを書いているのか? 俺はそこでようやく冷静になった。会えるかもしれないなんて浮かれてる場合じゃない。小説を書かなければ。あの人に、自信を持って見せられる作品を。


 そう思うと俺はいても立ってもいられなくて、その日からまた元通りバイトのシフトを夜にして、昼は講義の合間に図書館で執筆し、夜も寝るまでの二時間にテレビも付けずにキーボードを叩いた。書けば書くほど、自分の理想との差に愕然として、何千文字もデリートしてはまた打ち込む、その繰り返しだった。


「なあゆーき、最近全然見かけないけど、何してんの? 講義はちゃんと取ってるんだろ?」


 久しぶりに同じ講義を受けた伊織に心配そうに話しかけられる。


「ん?……ああ、暇な時間はだいたい図書館にいるんだ」


「なに、またあれ? なんか小説書いてるとか?」


「ああ、また新人賞に応募しようと思って」


「……ふーん。あ、そうだゆーき。この間の飲み会のあの子、アヤちゃんだっけ? あのあと連絡してる?」


「いや、おつかれって挨拶と、また今度、ってやり取りしたぐらい」


「まじで? それだけ?」


「ああ」


「アヤちゃん結構可愛かったよね。気が利くし、いい子じゃん」


「そうだな」


「ゆーきが興味ないなら、俺が付き合っちゃおうかな」


「いいんじゃないの。真面目に付き合うんなら」


「へえ……ちょうどみんなで遊びに行こうって話になってるんだ」


「お前、あんま適当なことするなよ」


「人聞き悪いなあ。俺はいつでも本気だよ」


「そうかよ」

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