06話 あの夜の人

 カフェでのバイトにも慣れてきて、最近は暇な時間帯に簡単なメニューのレシピを習うようになった。コーヒーにはミルクと砂糖しか知らなかった俺は、最初はメニューとその材料に多さに戸惑った。


 呪文のように長い名前のドリンクを何とか覚え、次はひとつひとつ微妙に違うレシピを一日に三つ覚えるのを目標にしている。平日の昼間にそうして少しずつ仕事を覚え、たまには俺が作ったコーヒーをお客さんに出すこともある。今日もエスプレッソマシンの前でコーヒーの出来栄えを美咲さんに見てもらっていた。


「もう少しゆっくり注ぐと、フォームミルクがふわふわになるから、それだけ気をつけてみて。そうしたらお客さんに出せるよ」


「はい、気をつけてやってみます」


 泡が潰れてしまったり艶がなかったりと、フォームミルクひとつを作るのにも苦労したが、ようやく及第点をもらった俺は、次のオーダーを待つ。


 昼の混雑も過ぎた午後、店内は静かに寛ぐ客がちらほらといる程度だ。このあたりは大学やオフィスが多く、商業施設や住宅はほとんどないので、客層はビジネスマンと学生が大半だった。ひとりで訪れ仕事や勉強をする人が多く、静かで落ち着ける空間になっている。


 入り口で数人の客が入ってくるのが見える。俺は少しだけ緊張しながら注文が来るのを待った。三人連れのサラリーマンの注文は、俺にはまだ難しいので美咲さんが作った。その後ろに並んだ男性は一人で、俺は今度こそ、とその人の注文に聞き耳を立てた。その人は慣れた様子でメニューも見ずに静かな口調で注文する。聞き取れなくて、少し近づいてその人の様子を見た俺は、驚いて思わず声を上げそうになった。


 ――あの人だ。あの夜、俺が危うくコーヒーをぶちまけそうになったあの、静かで不思議な黒髪の、男性客。あの時の事を覚えているだろうか、もう一度謝ったほうが良いだろうか、俺は一人で妙にドキドキしながらその人の様子を窺った。


 だがその人はほとんど顔を上げず、俺に気づいた様子もなかった。しばらくその人を見てぼーっとしていたらしく、俺は美咲さんの声にハッとする。


「川瀬くん、ショートラテお願いね。ミルクは丁寧に!」


「は、はい!」


 俺は必要以上に緊張して、カップをごっそり四つも掴んでしまった。美咲さんが目で「落ち着いて」と言っている。深呼吸しながら、マシンのレバーを捻り、最後にゆっくりとフォームミルクを乗せてどうにか仕上がった。先輩がそのカップを確認して頷く。慎重にフタを被せ、俺はカップを両手で持って受け渡し口に運ぶ。


「ショートラテのお客様」


 そう呼びかけながらも、俺はずっとその人しか見ていなかった。


「はい」


 静かに返事をして、その人はこちらに手を伸ばす。俺はカップを差し出して、


「お待たせいたしました」


 と声を掛けた。その時、初めてその人は顔を上げて俺の方を見た。俺は咄嗟に笑って見せたつもりだったが失敗したのだろうか、その人はまた何事もなかったように、ふいと踵を返してテーブル席へと歩いていった。


 テーブル席のソファーに腰を下ろし、PCを開くその人を、俺は視界の隅で追いかけていた。平日のこの時間に来るということは、この辺りの会社に勤めてる人だろうか。この辺は出版社が多いんだよなぁ、などと考えながら、俺は何でこんなにあの人が気になるのか自分でもよく分からなかった。


 俺は我ながら不審人物だなと自嘲しつつも、気が付くとまたその人の席を見てしまうのだった。PCの画面を見つめて伏せた瞼の、陰になった瞳がなんだか艶かしい。少し神経質そうな薄い唇がときどき何かを呟くように動くが、きっとあの人は無意識なんだろう。


 ちらちらと横目に彼を見ていると、入り口の自動ドアが開いて、カツカツとハイヒールの硬い音を響かせながら女性が一人入ってきた。


「いらっしゃいませ」


 フロアのスタッフがそれぞれ声を掛け、レジカウンターの中のひとりが注文を聞こうと笑顔を向けるが、その女性はそちらに見向きもせず、店内を見回すと、まっすぐにこちらへ向かって歩いてきた。何か不満げな、怒ったような表情を浮かべたその人は、間違いなく美人だった。


 明るい色の長い髪はまっすぐに胸の下に伸び、陶器のような艶のある肌に、ほんのり赤く色づいた唇がなにか言いたげにわずかに開いている。長いまつげに縁取られた大きな瞳を見開いて、ソファー席の前で立ち止まった。ふわりと鼻に届いたのは香水だろうか、大輪の花を思わせる、華やかでいて目眩がするような香りだ。


 俺は女性と、彼女の視線の先にいるあの人とを交互に見る。黒髪の男性はゆっくりと顔を上げると、その女性に向かって久しぶりだね、と声を掛けた。彼の向かいのソファーに腰を下ろした彼女は、周りを見回して俺に目を止めると、席に呼んだ。


 俺はまさか盗み見ていたのがバレたかとドキリとしながら席へ近づく。


「あの、どうされましたか」


 恐る恐る尋ねると、その女性は俺には目もくれずに言った。


「ルイ・ロデレールのクリスタルをお願い」


「は……」


 俺はなんと言われたのか理解できずに、言葉に詰まる。するとすぐに彼が女性をたしなめる。


「ここはそういう店じゃないんだ」


「あら……そうなの。じゃあヴーヴ・クリコでいいわ」


「ミカ、そういう意味じゃない。ここにはシャンパンはないよ」


 呆れたようにそう言って、その人は俺に向かって苦笑した。


「申し訳ない、気にしないでくれ」


「あ……はい、すみません」


「カズマ、あなたがいつまでも無視するからこうして私が来たのよ」


 この女性にとって、俺はまるで存在しないも同然のようだ。俺は立ち去るタイミングを窺いながら、なるべく静かに一歩下がる。カズマと呼ばれた黒髪の男性は困ったような表情でため息をつく。


「はっきりと断ったはずだよ。もともと僕たちの間には個人的な感情はなかっただろう?」


「ずいぶん酷いことを言うのね。私だって傷つくこともあるのよ」


 雲行きの怪しい二人の会話に、俺は後ずさりながら距離を取り、どうにかカウンターまで逃げ帰ることが出来た。


 二人はしばらく何かを話していたが、どちらの表情にも終始笑顔は見られない。やがて女性は怒りをあらわにして勢いよく席を立ち、入ってきたときよりも更に大きく靴音を響かせて出ていった。ソファーではカズマと呼ばれた黒髪の男性が、消耗しきった様子でため息をつき、背もたれに体を預けて目を閉じていた。

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