和真:01話 夜のカフェで

 その日も遅い時間まで打ち合わせが長引いた。疲れて退社したものの、どうしても気になる点を思い出して、僕は駅前のカフェに入った。平日の遅い時間帯、その店はそれほど混んでいなくて、僕がくつろげる数少ない店だった。


 ようやく具体的になり始めた新しい企画のスケジュール調整は思った以上に難航した。心当たりに片っ端から声をかけ、そのほとんどが興味を持って好意的に検討してくれている。だが今をときめく売れっ子作家だけあって、時間を割いてもらうのはそう簡単ではない。


 いくつかの書類に目を通し、次のすり合わせまでに訂正する箇所をチェックする。やはり書類に目を通すのは疲れる作業だ。以前の自分の三分の一にも満たない進捗に、いまだにがっかりする僕は未練がましいのだろうか。


 自分の置かれた境遇にいつまでも不満を抱いていては前に進めない。頭ではそうわかっていても、恨まずにはいられない。――なぜ、僕が。なぜよりによって、と。仕事が一番波に乗っている時だった。ようやく業界での認知度も上がり、メディアで取り上げられる機会も増えた。苦しい下積み時代を一緒に乗り越えた若手も何人か賞を取るまでになり、これから、という時だった。


 あれから三年が経ち、ようやく自分の運命を受け入れられるようになった、そう思っていたが、やはりこうして行き詰まると恨みがましく考えずにはいられない。そしてそんな自分に嫌気が差す。悪循環だ。


 僕は癖になってしまった溜息をつき、眼鏡を外して目頭を押さえる。疲れが目の奥に溜まって、それがじんわりと涙になって滲むような感触があった。目頭とこめかみを軽く揉みほぐしてもう一度眼鏡をかける。


 ぼんやりと滲むような視界の先、テーブルの上のグラスにはほとんど溶けてなくなった氷と、僅かなコーヒーが入っている。グラスを手に取り、残りのコーヒーを飲み干す。ノートPCを閉じてソファの背もたれに体を預け、一瞬目を閉じた。すると突然、背後であっという低い声と、大きな人の気配を感じて僕は咄嗟に身を縮めた。


 気がつくと僕に覆いかぶさるようにして誰かがテーブルに手をついていた。それは僕にぶつからないように精一杯避けた結果であるらしかった。はずみでPC横のグラスが倒れたが、中身はさっき飲み干したのでほとんど空のはずだ。


 僕の頭のすぐ上にあるその大きな気配は、慌てて謝った。テーブルの上で倒れたグラスを直し、こぼれた氷を片付けて僕の心配をしていた。僕は声の主を見返し、PCを開いて確認してみる。そもそも濡れていないようだし、当然動作にも問題はない。


 大丈夫ですと答えたあとも彼はしばらくそこにいて、こちらを見ているようだった。真っ直ぐにこちらを見ているような視線に、どこか落ち着かない気分になる。ここ何日か寝不足が続いているけど、僕はそんなに酷い顔をしているだろうか。


 すぐにもうひとり女性スタッフがやってきて、僕に謝り、新しい飲み物をと申し出たけれど、もう飲み終わっていたし僕はそれを断った。


 僕の目がこうなってからは、さっきのような突然の物音や大きな動きに過敏に反応するようになった。常に神経を張り詰めているような生活に、慣れたとはいえやはり消耗する。


 そういえば、さっきの彼はあまり恐怖を感じなかったな。かなり大柄な人物だろうけど、その声がどこか心地よく、僕を気遣ってくれる声色はおすおずとしながらも優しかった。彼はバイトの新人なのだろうか、気の毒なほど恐縮していたようだけど、あまり怒られなければいいな、なんて柄にもなく考えて、僕は自分が微かに笑っていることに気づく。


 大きく深呼吸をして、僕は残りの書類に目を通す。三十分ほどかけてようやくキリのいいところまで済ませると、僕は店を後にした。


 

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