172 創世神話Ⅶ『この世界は最初から終わり続けていた』




 セレスは、ミティスとの接触禁止を解かれたわけではない。


 なので翌日からは、会話すらできなくなった。


 窓からよじ登るという手も、そう何度も見逃されるものではないだろう。


 なのであれきりだ。


 もはやセレスが学園に通う理由もないため、ミティスの様子を見るために出る日以外、ほぼ毎日休んでいた。


 教員たちも、もはや期待すらしていないのか、それを咎めることはなかった。




 ミティスは相変わらず、表面上は神を崇拝する信徒を装っている。


 そんな彼女に教員たちも好意を示し、求められればどんなことでも教えているようだ。


 その本心も知らずに。




 そしてリュノの手紙を読んでから一ヶ月後。


 ミティスは、試験で驚くほど優秀な成績を収めた。


 その頭脳は試験以外でも発揮されているようで、素行が改善されたことも含め、教員たちからの評価もうなぎのぼり。


 今年は予備候補だが、来年は本候補に選ばれること間違いなし、と言われるほどだった。




 セレスは違和感を覚えた。


 確かにミティスは、勉強ができないわけではない。


 しかし、そこまで天才的な成績を残すような人間でもなかったはずだ。


 教員曰く、彼女は教えていない専門的な知識まで自発的に習得しているのだという。


 その成長速度は、とても人間とは思えないほどらしい。




 ただでさえ遠いミティスが、さらに遠ざかっていく。


 遠目に見る姿や仕草さえ、もはや別人のように見えていた。




「ひょっとすると、本当にもう別人になってるのかもね……」




 久々に登校した日の帰り道。


 セレスは夕暮れの校庭で、ミティスが自習している図書室を見上げながら、そう呟いた。




 ◇◇◇




 ちょうどその日の夜のこと。


 消灯時間を過ぎ、すっかり静まり返った寮で、就寝していたセレスは、わずかな物音で目を覚ました。


 ゆっくりと体を起こし、まぶたをこすりベッドから降りる。


 そしてカーテンの隙間から外を覗く。


 暗闇の中に、人影が見えた。




「……ミティス?」




 見えたのはシルエットだけ。


 だがセレスは直感的にそう思い、窓から外に出てその姿を追った。




 ◇◇◇




 ミティスは深夜の校庭を歩く。


 すでに監視システムが動いていないルートは構築済・・・だ。


 セキュリティに穴を作るのは、おだてると簡単に口を滑らせる教員のおかげで楽だった。


 誰にも見つかることなく、揺り籠の前まで到着する。




「さあ、始めましょうか。世界の滅亡を」




 ミティスが前に立つと、扉は自動的に開いた。


 それは、彼女が“神”として揺り籠に認識されたことを意味する。




「人間の本能こそが最強のセキュリティだなんて、意志サマも性格悪いわよね」




 ――揺り籠のセキュリティは、はっきり言ってザル・・だった。


 本来、そんなものは必要なかったのだ。


 人類は本能的に、神という存在を信仰していたのだから、聖域を侵そうと考える者は誰もいない。


 つまり当然、世界創造システムの中身を暴こうとする者だって出てこない。


 大いなる意思によって与えられたその技術は、はるか昔からただそこに“在り”、仕組みを調べようとすること自体が冒涜だったのだ。


 だが現代は違う。


 ここ数年のことではあるが、若者の“信仰心”、あるいは“本能”が薄れているのは全世界的な現象であった。


 結果、他国で揺り籠の解析を試みる人間が現れ始めたのだ。


 そしてミティスは、彼らの論文を読み漁り、その知識を得たのである。




「ふーん、中はこうなってるんだ。なかなか広くて、温度も快適じゃない」




 揺り籠内部にはドーム状の空間が広がっている。


 壁際には、人が入れるほどのカプセルが二十個、ずらりと並んでいた。


 リュノたちはその中にいた。


 世界創造の初期は、中央に置かれた広いテーブルを使って作業を進める。


 だが完成が近づくと、カプセルに入り、実際に作った世界に降り立って創造を進めていくのだ。


 その様子が、テーブルの表面や壁面のモニタに映し出されている。


 作業を行う彼らの、神への変質の進み方は、人によってまちまちだった。


 例えば『審判ジャッジメント』のニクスや『魔術師マジシャン』のヘルメスは完全に人ではない姿になっていたし、『運命の輪ホイールオブフォーチチュン』も人間の部分は残り二割程度といった印象。


 一方で、『死神デス』のリュノや『皇帝エンペラー』のマニはほとんど人間のまま。


 一ヶ月前に、初めて揺り籠に侵入したときからほぼ同じ姿である。


 ミティスはリュノが映ったモニターに触れると、優しく微笑んだ。




「あと少しで会えるわ。また三人で遊びましょうね」




 そう一方的に伝えると、ミティスは壁に近づいた。


 そして手をかざすと、どこからともなく粒子が集まって、本来存在しないはずの“二十一番目のカプセル”が生み出される。


 彼女が中に入ると、触手のようにケーブルが伸び、体に接続された。


 目を閉じると、ミティスの意識が沈んでいく――




 ――さて、ミティスは本来、普通の人間である。


 彼女が外国語で書かれた専門性の高い論文を理解できるはずがない。


 要するに今の彼女は、人ではないのだ。


 リュノと同じ、人から神へと変異する途中の状態――天使である。




 ミティスには、時間がなかった。


 リュノは数カ月後には神様になり、もはや助けることはできなくなる。


 タイムリミットはそれだけではない。


 教員に従順な演技だって、続ければいつかはボロが出るだろう。


 一刻も早く、リュノを取り戻すための知識を得る必要があった。


 だが、そんな専門知識を、ほんの一ヶ月程度で詰め込むためには――睡眠すら必要としない肉体と、人間を超越した知能が不可欠だった。


 だからまず、ミティスは人の身のまま、寝る間も惜しんで“ハッキング”に必要な最低限の知識を習得した。


 そして秘密裏に揺り籠に侵入し、カプセルを使って肉体の変質を開始したのである。


 一時的とはいえ、神になることを望んだ彼女の変質は、リュノよりも遥かに早かった。


 そして睡眠すら必要としない超人的肉体を手に入れた彼女は、さらなる知識を手に入れていった。


 その成果こそが――世界創造システム『世界ワールド』とミティス自身を紐付けることによる、乗っ取りハッキングである。




 “二十一番目の神”が空間にアクセスすると、神々は首を傾げた。


 同時に、管理システムが彼らの制御下から離れ、世界創造の作業が強制的に中断される。




「『世界』への接続が遮断された。何が起きている?」




 真っ先にウェント――いや、『運命の輪』が声を上げた。


 それは、彼がちょうど、新たな生命を生み出している最中のことだった。


 “世界”にはすでに巨大な大陸が一つ出来上がっており、生命の配置もかなり進んでいた。


 もっとも、島を囲む海から外に出ると、そこから先は空白。


 まだ“一つ目の星”すら未完成である。


 もしこの半端な世界を強制的に具現化したのなら、生まれるのは天動説の世界だろう。


 神々は、そんな大陸の上空から地上を見下ろし、それぞれ離れた場所で作業をしていた。


 しかし、どこにいようとも同じ世界にいる限り、通常の会話と同様に意思疎通は可能である。


 『運命の輪』の声は、他の神々まで届く。




「『世界』が単独で動いているだと?」




 ウェントの声に、最初に反応したのはニクス――つまり『審判』だった。


 顔こそ彼のままだが、肉体はほとんど神のものへと変質している。


 幽霊のように浮かぶ赤い修道服スカプラリオの中身は空っぽであった。




「どういうことだ、そんなことがありえるのか?」




 焦燥混じりに『審判』が言った。


 六芒星が描かれたローブを纏う『魔術師』が答える。




「何者かが揺り籠に侵入した形跡がある。存在しない二十一人目が登録され、介入してきている」




 ヘルメスがそう言うと、『皇帝』ことマニ・クラウディは体を縮こまらせ怯えた。




「ど、どういうこと……? 神じゃない人間が、介入なんてできるの……?」




 神々の会話を聞いて、リュノの顔は青ざめていく。


 彼女には心当たりがあったからだ。




(まさか……ミティス、本気で私たちを止めるつもりなんですか……?)




 ここ一ヶ月、妙に大人しいとは思っていたのだ。


 ミティスが教員に従順になったことも、彼女とセレスが引き離されたことも知っている。


 “指導”を受けたから。


 あの手紙を読んでくれたから。


 理由はいくらでも考えられた。


 そのまま、せめて世界創造が終わるまで大人しくしてくれていたら――そう願っていた。


 だが、今まで抗い続けたミティスが、果たしてたったそれだけで止まるだろうか。


 そんなリュノの不安が、今、この瞬間に的中してしまったのだ。




「私が止める。相手が誰だろうと、世界創造の邪魔は許されない!」




 真っ先に動いたのは、白い鎧のような姿になった『正義ジャスティス』だった。


 彼女はミティスの座標を割り出し、そこへ転移する。


 目の前に現れた『正義』を見ても、ミティスは慌てなかった。


 神の手のひらから光が放たれる。


 人間程度、軽く蒸発して消し飛ぶほどの威力。


 だが――その光は放たれることなく消えた。


 そして次の瞬間、『正義』の腹部にはミティスの腕が突き刺さっていた。




「がっ……神、が……こんな、簡単、に……?」


「なら神様じゃなかったのよ。人間は神様なんかになれないの」




 鎧は投げ捨てられ、ガシャンと音を立てながら、創造空間を転がる。




「『正義』。どうした、『正義』っ!」




 『審判』が声を荒らげる。


 ミティスは笑った。




「復讐は目的ではないけれど、あんたのそういう声を聞いていると気持ちいいわ」


「ミティス、貴様ぁっ!」




 怒りを顕にする『審判』、その目の前にミティスが現れる。


 神であろうとも認識できない速度での移動だった。




「何の権利があってこのようなことをしている」




 敵意をむき出しにして睨む『審判』。


 彼の右腕は修道服の下でボコッと膨張し、巨大化を始めていた。




「奪われたものを取り返すだけよ」


「正当な手段で僕たちが得たものだ! 僕たちは正しい! それは絶対だろう!?」


「神が免罪符になる時間はもう終わったの」


「人間ごときが善悪を決められると思うなッ!」




 『審判』は素早い動きで彼女の頭部に掴みかかった。


 頭を握りつぶし、殺すつもりのようだ。


 対するミティスは笑みすら浮かべる余裕を見せつけながら、ふっ、と軽く息を吹き出した。




「ぐああぁあっ! 腕が……神の腕がぁ!」




 『審判』の腕はそれだけで軽く消し飛んだ。


 彼女は、反撃の術を失った彼の胸ぐらを掴んで持ち上げる。




「無様な顔ねぇ、ニクス」


「僕は正しい……お前は間違っている……」


「本当に正しいと思うんならもっと胸を張ったら? できないってことは、自覚あるんでしょ、自分が下衆だって」


「違う違う違ぁうっ! 僕は正しいッ! 僕は絶対だ!」


「ならビビらずに堂々としてなさいよクズ」




 ミティスは彼の体を軽くふわりと投げた。


 そしてもう一方の拳を握る。


 顔面にパンチを叩き込もうとしたところで、何かがその手に衝突し砕けた。


 ミティスは舌打ちして、その“歯車”を投げた相手を睨む。




「チッ、邪魔しないでよウェント。あんたの妹が飛び降りたのは、こいつのせいでもあるんだから」


「お前は許されないことをしている」


「それはあんたたちのほうでしょうがッ!」




 彼女はその場で腕を振り払った。


 巻き起こった風が『運命の輪』の体を真っ二つに引き裂く。




「ぐ……神が、人に屠られるなどと……!」




 彼はあまりに簡単に破壊された。


 ミティスはすぐに、地面を這いずって逃げる『審判』を目で追う。




「こ、こうなったら……世界はまだ未完成だが、潜行ダイヴを行うッ!」


「させるわけないでしょうがぁッ!」




 『審判』の頭部は、彼女によって踏み潰された。


 だがなおも彼は動き続ける。


 それぐらいでは死なない程度には、彼は人間を辞めていた。




「待ってください、私たちはまだ神として完成もしてないんですよ!?」




 リュノが慌てて止めるが、『審判』は耳を貸さない。




「そんなものは……時間の問題……潜行、をぉ……っ!」




 ミティスの目の前から『審判』が消えた。


 他の神々も、彼に続いて姿を消していく。




「馬鹿な奴ら。まだ“戻れる”可能性だってあったのに」




 彼女は吐き捨てるようにそう言った。


 潜行を行えば、神はもはや元の世界には戻れない。


 本来ならば、完全に世界が完成してから行うべき手順だ。


 だが、まだ目的は果たせる。


 リュノは残っているのだから。




「ミティス……もう、やめましょう……」




 彼女は、目の前に現れたミティスにそう言いうと、悲しげにうなだれた。


 だがミティスは、ようやく邪魔者がいなくなって上機嫌だった。




「そう言いながら、リュノは残ってくれたじゃない」


「それは……」


「私は今から、神としてのリュノを殺すわ」


「本気でやるつもりなんですか」


「そして最後に、『愚者フール』を起動させて自分自身も消し去る。それで全てが終わるのよ」




 ◇◇◇




 モニター越しに、セレスはそんなミティスの言葉を聞いていた。


 彼女は、ミティスを追って揺り籠までやってきた。


 そして中に入ってしまったのだ。


 セレスもまた予備候補であるがゆえに、それが可能であった。




「ミティス、今、消えるって言ったの? リュノを殺して、自分も消えるって! 嘘つきっ、嘘つきぃっ! 帰ってきてくれるって言ったじゃんっ!」




 追い詰められた彼女は、モニターに向かって声を荒らげる。


 そして周囲を探りだした。




「置いていかないで、あたしだけ残りたくないよっ。どうせ行くなら二人と一緒がいいっ! 一人は嫌だっ!」




 錯乱したように、手当たり次第に触れるものに触っていく。


 すると、ミティスが入ったカプセルの隣に、新たにカプセルが生まれた。


 セレスが前に立つと、自動的に口が開く。


 まるで彼女をいざなうように。




「ここに入れば、あたしも二人と一緒になれるの……?」




 セレスは縋るように、自らカプセルに入った。


 ケーブルが体に繋がれる。


 何かが体内に注がれ、そして意識は遠ざかっていく――




 ◇◇◇




 全てを終わらせる――そう告げたミティスに対し、リュノは反論した。




「私たちが消えても、元に戻れる保証なんて無いはずです!」


「ええ、どの論文にもそんなこと書いてなかったわ」


「だったら!」


「当然よ、実証は不可能だもの。そう、誰にもわからなかった……今まではね」




 ミティスの表情には自信が満ち満ちていた。


 実際、彼女は圧倒的な力を得て、神々すら手玉に取っている。




「けれど私にはわかるわ。もう潜行した連中は救えないけど、リュノは間違いなく救える。神としての自分を殺せば人に戻れるのよ、私の脳がそう言ってる。帰りましょう、セレスも待ってるわ」




 手を差し伸べるミティス。


 リュノは胸元で手を握りながら、悩ましげに目をそらす。




「でも、そんなことをしたら、私たちは……」




 一瞬、リュノの姿にノイズが走った。


 ミティスから見た彼女が、違う姿に変わったように見えたのだ。


 今、リュノは神と人の狭間にいる――ミティスはそう察した。


 もう、あまり時間は残されていないようだ。


 


「世界を一つ消し飛ばすんだから、罪人扱いでしょうね。身を隠して生きることになるわ」


「……っ」




 捕まれば死刑は免れない。


 そんな危険に晒されてまで三人で生きて、本当に幸せなのだろうか。




「今、何を考えてる? 私たちの歩む未来は、リュノが神様になる未来よりも不幸だと思った?」




 リュノはふるふると首を横に振った。


 そう、幸せなのだ。


 世界がどんなに残酷だったとしても、三人一緒にいられるのなら――




「だよね」




 ミティスは微笑む。




「私だってそう思ってる。たとえ世界の全てを敵に回しても、三人で一緒に生きたほうがいいって」


「ミティス……私は、私は……っ」




 リュノの心が解きほぐされていく。


 彼女はようやく、ミティスの手を取る気になったのだ。


 それは同時に、両親や周囲の期待を裏切ることでもある。


 そんな葛藤を振り切っても、共に歩むと決めてくれた。




(私たちの悪夢は、ようやく終わるんだ――)




 ミティスはそう確信する。


 そして神としてのお互いを殺すために、彼女の手のひらに魔力が渦巻く。


 そのとき――かすかに声が聞こえた。




『あたしを置いていかないで』




 それは、意識していても聞き逃してしまいそうなほど小さな囁き。


 瞬間、ミティスの体から力が抜けていった。




「……あれ? 『世界』が、反応しない?」




 肌が粟立つ。


 そんな馬鹿な――と、彼女の体から血の気が引いた。


 リュノは首を傾げ、不思議そうにミティスを見つめる。




「待って、すぐに修正できるから。ああもう、こんなときにっ!」


「……きっと、強引に介入したから不具合が発生したんですね」


「管理システムをそのまま乗っ取ってるだけよ。これが不具合なら、最初から『世界』に不具合があったってことで――」




 焦るミティスを見ながら、リュノは少し、彼女から距離を取った。


 そして目を伏せ、強く唇を噛む。


 ミティスになら殺されていいと思った。


 本当に人間に戻れるのなら、世界の全てを敵に回しても。


 けど――




「え、どういうこと? 機能が無効化されてる? そんな、誰かが上位の権限で外部から干渉したっていうの!?




 開いた瞳で焦るミティスを見ながら、リュノは、手の甲から骨の柄を引き抜く。


 それを両手で握ると、柄の形状は変化し、先端付近には巨大な刃も生えてきた。




「リュノ……何してるの?」




 『死神』の鎌を握った親友を、呆然と見つめるミティス。


 リュノは冷静に、温度の感じられない声で答えた。




「私は……神なんです」




 彼女の背中から翼が生える。


 否――それは翼に似せた、巨大な骨の腕だ。


 指先には鋭い爪が並び、まるで悪魔の白骨死体でも体内に宿しているような、禍々しい姿だった。


 服装も変わる。


 学生服から、見たことのない、白と黒のゴシック調のドレスへと。


 まるで、人から神へと羽化するように。




「嘘、でしょう? 本当に、少し待ってくれるだけでいいのよ! そうしたら私たち!」


「すぐに死ねたのなら、許容は可能でした」


「だから少しだけ待ってくれれば!」


「しかし世界創造もまた、私にとっては“正しさ”ですから」




 リュノの変化は遅かったが、しかし確実に、人から神へと変化していたのだ。


 たとえどんなに彼女がミティスを愛していても、神から見ればただの下位存在に過ぎない。


 そう――葛藤は、終わってなどいなかったのだ。


 愛は一時的に天秤を傾けた。


 しかし熱が冷めれば、反動で一方に傾いてしまう。




「本気……なの……?」




 ミティスは後ずさる。


 リュノは何も答えない。




「本気で、私を殺して、神様になるっていうの? 全てを捨ててまで、そんな価値があるっていうの!?」




 しかし、その足元で紅色の魔力が渦巻き、そこから現れた白骨化した手が足首を掴む。


 彼女は転んで尻もちをついた。




「だったらっ、救わないでよぉ! もっと早くに見捨てて、約束もしないでよぉ! 失うために与えるなんて、ただ殺すより残酷じゃないっ!」




 なおも首を振りながら逃げようとしたが、手首までも掴まれ、身動きが取れない。


 罪悪感に訴えかけても、もうリュノが止まることはなかった。




「言ったはずです、すでに私は死んでいると」


「私には遺書を書くなって怒っておいて、自分のは受け入れろっていうの?」


「……あれは、紛れもない事実ですから」




 寂しげにリュノは語る。


 彼女とて殺したくはない。


 しかし殺さなければならない。


 神として。


 人として。


 その狭間で――




「まだ、力は戻りませんか」


「ええ……今からでも戻ったら、私の望みを受け入れてくれる?」


「もう手遅れです」


「……そう」


「私は責務を果たさなければならない」




 リュノは鎌を振り上げる。


 そして感情のない冷めた顔のまま、刃でミティスを引き裂いた。




「『死神』として」




 返り血が顔と、ドレスの白を汚す。


 目の前に転がったミティスは、わずかに唇を動かし何かを呟いたが、すぐに絶命し動かなくなった。


 生命の光が失せた瞳は、恨めしそうにリュノを見つめている。


 その視線に耐えられなかった彼女は、背中から生えた腕を、獣の頭部に変形させた。


 牙が死体を噛み砕き、呑み込む。


 ミティスの亡骸が体内に取り込まれる感覚に、リュノは歯を食いしばりながらうつむいた。


 そして、声を震わせ、先に潜行した神々に報告する。




「『世界』の奪還を完了しました。これより私も潜行します」




 リュノは、取り込んだミティスごと姿を消した。


 自らが生み出した世界に、神として降臨するために。


 『世界』を取り込んだがゆえの代償も、これから数億年続く地獄の存在も知らずに。


 彼女は、もう二度と元の世界に戻れない。


 誰もいなくなり、静まり返った創造空間。


 だが、そこに薄っすらと人の姿が浮かび上がる。




「あたしを……置いていかないで……」




 セレスは弱々しくそう言うと、リュノとミティスの後を追い、世界に潜った。



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