171 創世神話Ⅵ『空より遠く、君より近い場所へ』
ミティスは、ウェントに殴りかかった罰として、一週間の停学を言い渡された。
セレスはお咎めなし。
犯した罪に比べれば、相当に軽い処分である。
リュノとウェントが二人を庇ったおかげだろう。
なお、ミティスは謹慎の間、寮とは別の施設に入れられ、そこで“指導”を受けることになっている。
◇◇◇
セレスは教師からの聞き取りを終えると、一人で部屋に戻ってきた。
彼女は虚ろな目でミティスのベッドに歩み寄ると、そこに顔からぼふっと飛び込む。
そしてそのまま動かなくなった。
繰り返し聞かされた言葉と、繰り返し発した言葉が、頭から離れない。
『お前は何も知らなかったんだな?』
『知ってる……あたしは知ってたよっ、同罪なの!』
『ミティス・アプリクスに強引に連れてこられた、そうだな?』
『違うっ、あたしも同じことを考えてた!』
『あの女に危険思想を吹き込まれたんだな?』
『ミティスの考えはあたしと一緒――』
最初は拒んだ。
けれど、そう答えなければ出られないと言われたから、拒んだ。
拒んで、それでも拒んで。
だけど――
『黙れッ!』
『ひっ……』
弱りきっていたセレスの心は、耐えられなかったのだ。
『いいかセレス・サンクトゥス。お前は“はい”と言うまでここからは出られないんだ』
『だとしても……』
『それにな、あまり下手なことを言うと、あの女にまで害が及ぶぞ』
『ミティスに?』
『今は一週間の停学処分で済んでいるが、神に害をなす行為は本来、重罪だ。仮にそういった事態が発生した際、我が校の一部の教員は生徒を身体的に拘束することも許可されている』
『暴力を振るうんですか? そもそも、ミティスは怪我してます! 病院に連れて行くのが優先じゃないんですかっ!』
『お前はまだわかっていないようだな。神に殴りかかったんだぞ? 直接、害を成したとあれば、殺害すらも許可されるだろ』
『殺害……そんなの、おかしい。ただの学校の先生がそんなこと!』
男はセレスの髪を掴むと、強引に自分の方を向かせて言った。
般若のように歪むその顔は、とてもまともな人間の表情には見えなかった。
『我々は神に選ばれし使徒だ! ただの教師などではない!』
狂っている。
セレスはそう確信した。
そして彼らなら本当にミティスを殺すと思った。
逆らえない。
だから、従うしかなかったのだ。
『お前は何も知らなかったんだな?』
『はい』
『ミティス・アプリクスに強引に連れられてきた、そうだな?』
『はい』
『あの女に危険思想を吹き込まれたんだな?』
『はい』
『卒業するまでの間、ミティス・アプリクスとの接触を禁じる。従うか?』
『……はい』
けど、本当にそれでよかったんだろうか。
きっとミティスはセレスを責めないだろう。
だけど、セレスはそれで、自分の存在意義を殺してしまった。
死体だ。
このベッドに転がっているのは、もはや、セレス・サンクトゥスですらない何かだ。
「死にたい」
そう言葉にすると、とても楽な気持ちになれた。
本当に死ねば、たぶんもっと楽になれるだろう。
セレスにはもう、自分をつなぎとめる動機がない。
ここで死んだら、リュノもミティスも悲しむだろう――命綱は、そんな他人任せな理由だけ。
リュノが神様になったなら。
ミティスと会えないまま時間が過ぎたなら。
たぶんそんな気持ちも消え失せて、簡単に死ねるようになるのだろう。
「あたしを殺して……死神様……」
息をいっぱい吸い込むと、ミティスの匂いがした。
胸がきゅっと締め付けられた。
リュノでも同じ気持ちになる。
好きだった。
愛していた。
二人みたいに姉妹にはなっていないけど、負けないぐらい、人生をともに歩みたいと――本気で思っていた。
だから同じ夢を追いかけて。
同じ道を進んできたはずなのに。
何が悪かったんだろう。
誰が悪かったんだろう。
探しても探しても、その理由はこの“世界”にしかなくて。
どうしてこんな風な世界にしてしまったのか、どうして神様になることが何よりも優先されるのか。
そんな曖昧で――いや、あまりに大きすぎて、全体を見とおすことすら叶わない相手。
憎い。
殴りたい。
壊したい。
そう思っても、無駄だってわかっているから――憤るほどに、空っぽの中身に、無力感が溜まっていく。
「誰か……助けて……」
そう呟いたセレスの頭に、ある人物の顔が浮かび上がる。
彼女はふらりと立ち上がると、部屋を出て――気づけば、寮に設置された電話の前にいた。
受話器を握り、実家に連絡する。
何度かのコールのあと、優しい声が聞こえてくる。
「あ、お母さん? あたし、セレスだよ」
『セレス!? あなた何をしたのよ!』
「え?」
『学校から連絡があったわよ。処分はされなかったけど、神様に手を出すなんて……あなた何を考えてるのッ!? いくらリュノ様の友達
さっと血の気が引いた。
セレスは反射的に受話器を置いて、通話を止めた。
冷や汗が頬を伝って顎から落ちる。
手のひらもびっしょりと汗で濡れて、「はっ、はっ」と浅く細かい呼吸を繰り返している。
まばたきもせずに瞳は開かれ、口角は引きつり、その場に立ち尽くしたまま動かない。
「う、ぷ……」
かと思えば、セレスは急に口を手で押さえたかと思うと、一番近くのトイレに駆け込んだ。
ひどく気持ちが悪かった。
自分が孤独であることを、どこにも逃げ場がないことを知った瞬間に、全てがおぞましいものに思えたのだ。
自分の体や、胃袋に入った食事でさえも。
◇◇◇
翌日、セレスは体調不良で学校を休んだ。
昨日の夜からずっと母親からの連絡が来ていたようだが、それを理由に応じなかった。
寮長に何を問われても、布団に入ったまま答えない。
そして根比べに勝ったセレスは、寮の中で一人きりになる。
人の気配が無いことを確かめると、密かに窓から抜け出し、バスに乗った。
到着したのは、大きな病院の前。
セレスは入り口の前に立って、上層階を見上げる。
「こんなとこに来て、どうするつもりなんだろ……」
救いを求めて――というのなら、完全にチョイスミスだ。
確かにここは、飛び降りたアウラが運び込まれた病院ではあるが、今のセレスが会ったところで、彼女に悪影響を及ぼすだけだろう。
何より、命に危機にひんしていたアウラと面会できるとは思えない。
セレスは大きくため息をつくと、再びバスに乗って学園に戻ろうとしたが――ふと、病院に入っていく、大きなバッグを持った女性が気になった。
(……顔がアウラちゃんに似てる気がする)
ただそれだけの理由で、セレスはその女性に駆け寄り声をかけた。
「あのぉ、テンペスターズさん、ですか?」
「ん……? そうですが、あなたは?」
女性は疲れた顔をしていた。
長い髪もぼさっと乱れており、化粧もしていないようだ。
「私は……セレス・サンクトゥスと言います。アウラちゃんの友人です」
「アウラの? じゃああなたが、電話をしてきた?」
「あれはあたしじゃありません。ですが、共通の友人ではあります。その、アウラちゃんなんですが……」
「ごめんなさいね、怪我がひどくて、まだ家族以外は会えないのよ」
「そうですか……」
「……あなた、もしかしてアウラが学校から飛び降りた理由を知ってるの?」
破裂しそうなほどに心臓が跳ねた。
答えるまでもなく、アウラの母はその反応で察したようだった。
「よかったら、話を聞かせてもらえないかしら。一応、あの子とは少し話せたんだけど……まだ何も聞けてなくて」
「わかりました……あたしに、話せることなら」
断れる立場でもない。
セレスは胃がキリキリと痛むのを感じながら、彼女と共に病院内にある休憩室へ向かった。
◇◇◇
求められるがままに、セレスは学園で起きた出来事を話す。
アウラの母は、時に相槌をうち、時に辛そうな表情を見せながら、その話に耳を傾けた。
「……そう、受け取ってはもらえたのね」
「はい、うまくいくはず、だったんです。でも――」
「アウラは写真を握ったまま飛び降りたわ。あれが何なのか、見当もつかなかったのだけれど……まさか、ウェントに渡したプレゼントだったなんてね」
「それと同じ写真が、ミティスにも送られてきました。たぶん嫌がらせだと思います」
「誰がやったのかわかっているの?」
「たぶん、ニクスっていう男子生徒です。神様候補の一人で、あたしたちの行動を疎ましく思っていたようですから」
「神様でも……そんなことするのねぇ……」
犯人を知っても、彼女はニクスを憎む様子はなかった。
その悲しみに満ちた表情は、自分を責めているように見える。
「ありがとう、少しすっきりしたわ」
「いえ……申し訳ないです。あたしたちがしっかりしていたら、こんなことには」
「関係ないのよ。アウラが飛び降りたのは、私のせいなんだから」
「そんなことありません!」
「それがあるの。アウラが落ち込んでるようだったから、私は『悩み事でもあるの?』って聞いたのよ。そしたらあの子、『お兄ちゃんに渡したプレゼントを捨てられた』って言うものだから」
そこまでだったら普通の話だ。
しかし、彼女は目を伏せて、声を震わせながら続きを語る。
「……ついかっとなって、怒鳴りつけてしまったの」
それは――アウラにとっても覚えのある話で。
胸が痛くなる。
思わず唇を噛んで、ぎゅっと自らの胸元を握った。
「アウラは……きっと、慰めてもらえると思っていたんでしょうねぇ。だって私は母親なんだもの。あの子は、怒られている間、かわいそうに……顔を真っ青にして、世界が終わったような表情をしてたわ。私、どうして……あんなこと言ってしまったのかしら……」
幸いにもアウラは死ななかった。
だが、母の言葉で自殺まで追い込んだ以上、二人だけの力で関係を修復するのは困難だろう。
そして間を取り持ってもらうにも、その役目を果たせるウェントはもういない。
「昔から、私は夜まで働くことが多くて、アウラの世話をウェントに任せてたのよ。だからアウラは本当にお兄ちゃんに懐いてて、いつもべったりくっついて。本当は……学園に入るときも、お兄ちゃんと離れ離れになって、アウラが悲しんでるってわかっていたはずなのに。無理して笑ってるってわかっていたのに。私は、見て見ぬ振りをしたわ。だって、それが正しいと思っていたから。そんな寂しさは一時的な感情で、きっとお兄ちゃんが神様に選ばれたらすぐに消えるはずって思っていたのよ……」
もはやアウラの母の意識の内側に、セレスは存在していなかった。
ただ、“話を聞いてくれる第三者”だけがそこにある。
そして彼女は、誰に求められるでもなく、長い懺悔を唱え続けた。
「消えるはず、ないじゃない。二度とウェントに会えないのなら、もっと辛いのは当たり前じゃない。アウラの性格を考えたらそれぐらいわかるはずなのに、どうして私は正しいと思ったの? 悲しんで苦しんで辛い思いをしたアウラを追い詰めるようなことを言ってしまったの!? どうして私は、私はっ! ウェントがいなくなっても、それは正しいことで、お金はいっぱい入ってくるし、アウラも幸せになれるって……いえ、違うわ。ウェントがいなくなっても、アウラがいるからいいって思ってたのよ。他の人はどうなのかしら。子供が一人しかいなかったら? 代わりにお金がもらえて自分も幸せになれるから良いと思うの? そんなの、子供をお金で売るのと一緒じゃない。間違ってるわ、おかしいわ、どうかしてるのよっ! みんな、みんなどうかしてるっ!」
「落ち着いてください」
「落ち着けるはずないじゃないっ!」
彼女は立ち上がり、大きな声をあげた。
店内の視線が集中する。
だがなおもお構いなしに、彼女はまくしたてる。
「こんなの間違ってるってわかってるのに! 実際に間違ってたからアウラがあんなことになったのにっ! なったのにぃ……それでもまだ、私の中に“正しい”って思う自分がいるのよ! 娘が死にかけたことより、息子が神様になることのほうが大事だって! ああ気持ち悪いっ、気持ち悪いっ!」
「誰もあなたを責めてませんから! 落ち着いて、深呼吸してくださいっ! ね?」
アウラの母に駆け寄り、背中を撫でながら、必死でなだめるセレス。
そのおかげもあってか、少しだけ周囲に気を回す余裕が生まれたようだ。
正気に戻った彼女は、「あぁ……」と弱々しい声を出しながら、片手で顔を覆い腰をおろした。
セレスも他の客に軽く頭を下げながら、自分の席に戻る。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「あたしこそ、デリケートな話題なのに……こんな時期に会いに来てしまって申し訳ないです」
「いいのよ。いずれ必要になったことでしょうし……それに、こんなことを話せる相手なんていないから」
「話して、本当に気が楽になりましたか?」
「ええ。あのままだったら気持ちが破裂して、今度は私が飛び降りることになっていたでしょうね」
「やめてください、そんなこと言うの。アウラちゃん、生きてるんですから」
「でも、恨まれてるわ」
「死んだらもっと恨まれます」
「そうならいいんだけど……私、今でも、あのときアウラを怒ったことが完全に“間違ってた”とは思えないのよ? これって、何なのかしら。娘を自殺に追い込んでおいて、明らかに間違ってるってわかりきっているはずなのに。理性ではそう思っているのに……何かが、認めようとしないのよ……私、どうしようもないクズだわ……」
彼女の感情の吐露に対し、セレスは何も言えなかった。
だが、一つわかったことがある。
この世界を歪ませている原因は、人間に刷り込まれた“神は絶対”という信仰心なのだろう。
◇◇◇
それから二日後。
ミティスは学園内にある牢獄めいた部屋で、外の光すら見れない窮屈な生活を送っていた。
彼女の部屋には、就寝時間とわずかな休憩時間を除いて、常に教員がいる。
そして“指導”を行うのだ。
教員たちに罵倒され、自分で自分の欠点を叫ばされ、その次は鏡を見ながら自分を罵倒する。
それをへとへとになるまで続けたら、今度はありがたい講義の時間だ。
なぜ神は素晴らしいのか。
なぜ人は矮小なのか。
なぜ人は神を目指すべきなのか。
その考えがいかに崇高で素晴らしいものなのか。
講義が終わると、今度は数人の教員が部屋に入ってきてレクリエーションが始まる。
歌に合わせて踊るのだ。
意識がトランスしてしまいそうな音を聞かされながら、魂を同調させて手を繋ぐ。
手のひらを通じて神の素晴らしさが脳に流れ込んでくる。
それで気持ちよくなったら、今度は映像を見よう。
世界でも有名な学者が、高次科学的に神について語る、非常に実践的な内容である。
それらをぐにゃぐにゃに柔らかくなった脳に刷り込む。
そんな指導は深夜の二時まで続いた。
翌朝は四時に起き、また同じような指導が繰り返される。
ミティスは――自ら昼食を口に運ぶことすらままならないほどに、疲弊していた。
折れた腕の痛みなんてどうでもよくなるぐらいに。
たった三日でこの有様だ。
これがまだ四日も続くと思うと、意識を投げ捨てたくなるというもの。
だから教員がスープを彼女の口元まで運んで食べさせる。
薄味の、どろっとした何かが喉を通るたびに、ミティスはこう思った。
(気持ち悪い)
この部屋も、笑顔で“指導”を行う教員たちも、この学園も。
もはや何もかもが、そう見えてきた。
(こんなことをしながら、自分たちの行いが正しいと思えるこいつらが気持ち悪くて仕方ない)
殺すのが世界のためだと思えるほどだ。
しかし体は重く、意識は薄く、逃げ出すことはできそうになかった。
すると、その部屋に新たな教員が入ってくる。
男はミティスに言った。
「立て、別室に移動するぞ」
一週間は絶対に出られないと言っていたはずだが、何のつもりだろうか――ミティスはぼんやりとした瞳で、ゆっくりと彼のほうを見た。
◇◇◇
連れて行かれた部屋は、どうやら応接室のようだった。
明るい色の壁紙や、柔らかなカーペットを見るだけで、こうも気分が明るくなるのは初めての経験だった。
ちょうど、刑務所から出てきた人間なんかが味わう感覚かもしれない。
しかし中に入り、ソファに腰掛ける二人の男女を見て、ミティスはそれどころではなくなった。
「パパとママ!? どうしてここに?」
久しぶりに会った娘を見ても、二人はぴくりとも笑わない。
それを見て、ミティスは察した。
暗い気持ちで椅子に腰掛け、両親と向かい合う。
彼女を連れてきた教員は退室した。
「ミティス、私たちがここに来た理由はわかるな?」
「あなたがリュノの邪魔をしているんじゃないかと心配して来たのよ」
親身に話を聞きにきた、優しい親を装ったその姿に、ミティスは失望を禁じ得なかった。
すでにリュノの兄、ガイオスを神として送り出した後なのだ――彼らがそういう人間だということは、わかっていたはずなのだが。
「邪魔って、何」
「神様になるのを止めようだなんて思っているんじゃないの?」
「リュノが神様になって、パパとママは幸せなの?」
「当たり前じゃないか。神様になれるんだぞ? 人間のままでいるよりもずっと幸せなんだ」
「パパとママは、自分の子供と二度と会えなくなっても辛くないの?」
「ええ辛くないわ。だって私たちは、子供を神様にするために産んだんですもの」
「それになミティス。リュノがいなくても、私たちにはお前がいるじゃないか」
微笑む父。
相槌を打ってうなずく母。
ミティスはテーブルの下で強く拳を握った。
「……何、それ。私を娘にしたのは、そんなことのためだったの?」
「もちろん違うさ。二人とも神様になればいいと思って育ててきたよ」
「そうじゃないっ! パパ、何を言ってるかわかってるの? リュノが死んでも、私が生きてればいいって、そんなこと言って私が喜ぶと思ったのっ!?」
「ミティス、何を言っているのよ。神様になった人は死ぬんじゃないわ、より高次の存在になって、この世では味わえない幸福を――」
「だったらどうしてリュノはあんなに辛そうなのよッ! おかしいじゃない。そんなの、送り出す側が罪悪感から逃げるために生み出した勝手な設定よ!」
「ミティス、そんなことを言うんじゃない」
「それは私のセリフよ!」
「ミティスッ!」
父は怒りを顕にして声を荒らげた。
自分が正しいと思っているから、娘も少しは落ち着くだろう――そう思って怒鳴ったのだろう。
だが、それは火に油を注ぐだけだ。
「怒れば私を黙らせられると思わないでッ!」
「あなた、どうしてそんな風になってしまったの? 前はもっと優しい子だったじゃない」
「私は、リュノと一緒に生きたかったの! それっておかしなこと? パパやママもそう思ってたんじゃないの?」
「ああ、思ってたよ。二番目にね」
「それが一番じゃない時点でおかしいって……そう思わないの……?」
「なぜおかしいと思うんだい」
「そうよミティス、神様になること以上の幸せなんてこの世に存在しないのよ」
まったく、言葉が通じていない。
ミティスの中の失望は膨らむばかり。
まるで違う生き物と話している気分だ。
教員だってそうだ。
この価値観の隔絶は、あまりに大きい。
「私にとっての幸せは、リュノやセレスと一緒になることよ。そして――あの子だってそれは同じなの」
「それは違うよ、ミティス」
「何でパパが言い切れるのよ!」
「リュノが神様になろうと思ったのは、ミティスがきっかけだからだよ」
「は……私?」
よりにもよって、私のせいにするつもりか――ミティスの中の怒りが爆発しそうになる。
彼女が歯を食いしばって耐える間に、父は語った。
「確かにリュノは、元々この学園に入ることに乗り気ではなかった。ガイオスによく懐いていたからね。兄がいなくなったのを見て、あまり良く思っていなかったんだろう」
「でも、リュノは頑張ってたわ。私たち以上に」
「約束したからね」
彼は、それがまるで美談であるかのように告げた。
「ミティスを家族にする代わりに、必ず神様になると」
――それは、約束なんて生ぬるいものではない。
「私を、助ける、代わり……に……?」
リュノなら、その条件を呑むだろう。
そして事実、彼女はそれを実現させた。
「もちろん、約束を果たせなかったからと言って、ミティスが家族でなくなるわけじゃない。けど、その日からリュノは見違えるように頑張るようになってねえ。なあ、ママ」
「あ……あぁ……」
「ええ、母親としてとても安心したわ。それに引っ張られて、ミティスも無事に学園に入学できて」
「ああ……あああ……」
「だからねミティス。リュノが神様になったのは、ミティスのおかげ――」
「うわあぁぁあああああっ!」
ミティスは叫んで部屋を飛び出した。
そのまま走ってどこかに行きたかった。
ここでないどこかに。
そう、そこで自分を消してしまいたかったのだ。
だが見張りの教員に、彼女はすぐに捕まってしまう。
「あああああっ! 離してっ、離してえぇぇぇえええっ!」
「まさか面会中に脱走とはな。大人しくしろ!」
「嫌あぁっ! 嫌だぁっ! 私のせいだっていうの!? 私が助けを求めなければっ! 私が死んでればよかったっていうのおぉ!?」
取り乱し暴れるミティスの元に、両親がやってくる。
「ミティス、なぜそうなってしまうんだ」
「そうよミティス、私たちはあなたのおかげだと言っているのに」
「黙れえぇぇっ! 私は死ぬべきだった! あのとき、あいつらに殺されるべきだった! そうじゃなくても遺書だけ残して自分で死ぬべきだったんだぁぁあああっ!」
「そんなことはない、私たちはミティスに生きていてほしいんだよ」
「そうよ、私たちのたった一人の娘なんだから」
二人に自覚はない。
その言葉で、ミティスがどれだけ追い詰められるか――本気でわかっていない。
「はぁ、ひっ、うああぁあっ、あぐ、うっ、ふうぅっ、間違ってた。私が、私があぁっ! 最初からずっと、ずっと、ずっと、私が、私のせいで、ああああぁぁぁああああっ!」
まるで憐れむように、彼女を見つめる両親。
獣を捕らえるように、醜い怒りの表情で取り押さえる教員。
誰一人として味方なんていない。
この孤独な場所で、いつまでもミティスの叫び声は響き続けた。
◇◇◇
四日後。
ついにミティスの停学が解かれる日がやってきた。
しかしセレスは彼女との接触を禁じられたため、ミティスが部屋に戻ってくることはない。
ご丁寧に授業を受ける教室すら別になったので、できることは遠くから見ることだけだった。
セレスは授業を受けながら思う。
(何で学校なんかに、友達と会うことを禁止されなくちゃならないんだろう)
きっとこの世界にとっては正しいことだ。
けれどセレスにはわからなかった。
どうしてそれを正しいと信じこめるのかも。
そんな精神状態でまともに授業など頭に入るはずもなく、ぼんやりとしているうちに、今日も一日が過ぎていった。
そして放課後、寮に戻ろうとしたセレスの前に、男性教員が現れる。
「ミティスに会わせてやってもいいぞ」
どうしてそんなに偉そうなのかはわからなかったが、セレスはひとまず首を縦に振った。
教員に案内され連れて行かれた先は、
「あ……ミティスっ!」
ミティスの姿を見つけたセレスは、彼女に駆け寄った。
名前を呼ばれ、ゆっくりと振り向くミティス。
彼女は、見たこともない笑みを浮かべていた。
「あら、セレスじゃない。久しぶりね」
「う、うん……」
その声に違和感を覚えつつも、セレスは彼女の手をぎゅっと握る。
「元気みたいでよかった」
「当たり前じゃない。別にひどいことをされたわけじゃないんだから」
到底その言葉は信じられなかった。
ミティスの目には濃いくまが出来ていたし、明らかに頬もやつれていたからだ。
セレスはそんな彼女の耳に口を近づけ、囁く。
「ねえ、こんな学校、もう辞めようよ。二人で外で生きていこう?」
その懇願に、ミティスは笑顔でこう返した。
「何を言ってるのセレス。私たちにはまだ神になれる可能性が残ってるじゃない。今年だけじゃない、来年もまた目指せばいいのよ」
「ミティス……?」
「二人で頑張りましょう。だって私たち、神様になるために生まれてきたんだもの。それだけが使命で、それ以外の低次元での行為には何の意味もないのだから」
「何を言ってるの、ミティス」
「セレスこそ何を驚いているの? 神様になることが何よりも重要なことだって、あなただって教わってきたでしょう?」
「そんなこと……ミティスはっ、そんなこと言わないよおっ!」
セレスは首を振りながら彼女から距離を取った。
背中が揺り籠の壁にぶつかる。
視界に、教員の姿が入った。
男は――醜悪に笑っていた。
「先生が……やったの……?」
「ミティスは真理に目覚めたんだよ」
「そうやって、人の気持ちを踏みにじるのが、神様のやることなの?」
「我々は正しいことをしている。間違っているのはお前だ、セレス・サンクトゥス」
「本気でそんなことをぉっ!」
今にもセレスは教員に掴みかかりそうだった。
しかし、ミティスの鋭い声がそれを止める。
「セレス、黙ってッ!」
「ミティス……何で……」
「神様たちが出てくるわ。早くそこから退きなさい、邪魔なのよ!」
「何でぇ……」
目に涙を浮かべながら、崩れ落ちるセレス。
すると教員が彼女に近づき、引きずるように移動させた。
直後、揺り籠の扉が開く。
中から神たちが出てきた。
まず最初にリュノの姿を見つけると、ミティスは彼女の前に膝をつく。
そして地面に額を押し付けた。
「申し訳ありませんでしたっ! 『
リュノは驚愕し、見開いた瞳で土下座するミティスを見下ろす。
「私のような矮小な人間が神に楯突いたことは、どんなに謝罪しても償えない罪だと理解しております! 本当、本当に申し訳ありません!」
額に血が滲むほど、ミティスは強く額を地面にこすりつけている。
彼女は次にウェントの姿を見つけると、はっとした表情で再び謝罪の言葉を発した。
「『
「……そうか」
彼はわずかに目を細めた。
だがすぐに興味を失ったのか、目をそらし、ミティスの横を通って去っていく。
次に出てきたのはニクスだった。
彼はニヤニヤと笑いながらミティスに近づく。
「この娘、指導されたんだっけ?」
「はい、一週間に及ぶ指導で心を入れ替えております!」
教員は自慢げに胸を張った。
「ふぅん、なら僕にも謝るべきことがあるはずだよね?」
「もちろんでございます『
「いいよ、許可する」
「申し訳ございませんでした! そして私のような愚かな人間を生かしていただきありがとうございます!」
「ふ……ふふ……あはははっ! あぁ、まだ僕にもこういうのを“気持ちいい”と感じられる感情ってやつが残ってるんだね。じきに消えるだろうから……今のうちに楽しんでおかないとねっ!」
ニクスはミティスの頭を踏みつけた。
それを見ていたセレスは、ぐしゃぐしゃに泣き濡らした顔を怒りに歪ませる。
「やめろぉおおおっ!」
ニクスに突進するセレスだったが、すぐさま教員が押さえつけた。
「やめなさい! 一度のみならず二度までも。死にたいのか!?」
「うああぁぁあ! こんなのっ、こんなの止められないなら、死んだのと同じだあぁぁあっ!」
「無力だねえ、人間。無様だねえ、人間! ま、せいぜい残りの人生、ガキでも作って少しでも有意義に過ごすんだね」
ニクスは最後にミティスの頭を軽く蹴ると、笑いながら立ち去っていく。
その様子を無言で見ていたリュノは、いたたまれない気持ちになり、逃げるように別の方向へと走り去っていった。
マニやヘルメスなど、他の神々が全て揺り籠を出ると、セレスを拘束していた教員が立ち上がる。
「まあ、これでわかっただろう。神に逆らおうなど、二度と馬鹿なことは考えるな。行くぞ、ミティス」
「はい、先生」
すっかり従順になったミティスは、セレスを置いてどこかに行ってしまった。
残されたセレスは、流した涙で地面を濡らし続ける――
◇◇◇
その日から、セレスは学園に行かなくなった。
寮の部屋に閉じこもり、外に出ようとはしない。
あまり休みすぎると退学になるとも言われたが、別にそれでいいと思った。
親からの連絡にも応じていないので、もしかしたら帰る場所もないのかもしれない。
別にそれでいいと思った。
終わりだ。
私の人生はもう終わっている。
あとは死ぬだけだ。
ベッドに座って膝を抱えて、何もしない一日を延々と過ごして――そんなことばかり考えていた。
ただ――“期待”が無いかと言われれば、それはノーだ。
ひょっとしたら、ミティスはわざとああいう演技をしたのかもしれない。
思い返してみれば、彼女の言葉には微妙に棘があったように思える。
特にウェントに対する言葉だ。
従順になったフリをして、反撃の隙を伺っている――?
一週間に及ぶ指導。
噂によると、それはもはや拷問と呼べるような内容なのだという。
受けた生徒は例外なく、
仮にミティスがそれを、正気のまま乗り越えたのだとしたら――
さらに、学園をリュノとミティスの両親が訪れたらしいという話も聞いた。
神になったリュノに面会するとは思えないので、会ったのはミティスのほうだろう。
そんな出来事を経てもなお、リュノを神から人に戻すことを諦めていないのならば――きっとミティスの考えている方法は
場合によっては、命を投げ捨てることも辞さないような。
彼女はそういうことをやる人間だ。
誰よりも近くで見てきたセレスだからわかる。
だから、期待すると同時に、セレスは恐れていた。
洗脳されているにせよ、されていないにせよ、ミティスの向かう先はもうセレスと交わらないのではないか。
全てを壊して終わりにするというのなら、結局、セレスだけが全てを失って終わるのではないか。
リュノがいない今、もうこの世界にはミティスしかないのに――
セレスが、引きこもり生活を二週間ほど続けたある日のこと。
深夜に、ドアの近くからカサッという音がした。
不審に思って外の様子を伺うと、そこには手紙が落ちていた。
『ミティスとセレスへ』
それはリュノから二人にあてた、最後の手紙だった。
◇◇◇
それから数日後の深夜。
専門書を読み込んでいたミティスは、窓がカタカタと震えているのに気づいた。
風が強いのだろうか――訝しみながらカーテンを開く。
「ひゃっ!?」
思わず裏返った声が出た。
そこには、やつれたセレスの顔があったのだ。
しかしここは寮の三階、どうやって外から来たのだろうか――ひとまず慌てて窓を開く。
「なかなか開かないから落ちちゃうかと思った」
「馬鹿なこと言わないの。ほら、早く入りなさい」
ミティスは急いでセレスを引っ張り上げた。
体は土で汚れている。
どうやら持ち前の身体能力を活かして、配管や窓のフレームを伝って三階までよじ登ったらしい。
「いやぁ、思ったより体がなまっちゃっててさあ」
「もしかして一度は落ちたの?」
「低かったから助かった」
「本当に馬鹿なんだから。セレスが大怪我なんてしたら泣くわよ!」
「んふふ」
「何よ」
「いつものミティスだ」
久々に見たセレスの笑顔で、ミティスは自分が素に戻っていることに気づいた。
「やられたわ……」
「えー、あたし別にそんな意図はなかったんだけどー?」
「ナチュラルに破天荒なのよね、セレスって。とりあえずタオル持ってくるから、少し待ってなさい」
「はーい!」
セレスの体が綺麗になると、二人は部屋の真ん中に置かれた小さめのテーブル越しに向かい合う。
セレスはミティスをじっと見て、ニコニコと笑っていた。
「そんなに楽しい?」
「ハッピーだよ。当社比750000%!」
「元の比較対象が低すぎるのよ……ごめんね、傷つけるような真似をして」
「ううん、一番傷ついてるはミティスだから、別にいい。あたしの傷なんて、ミティスのラブリーフェイスを見たら簡単に治っちゃったもんっ」
「単純ね。私なんて、一週間に及ぶ入念な洗脳教育を受けて、逆に憎しみが大きくなるぐらい歪んでるのに」
「やっぱりそうだったんだ。じゃあ、リュノを引き戻す方法が見つかったってこと?」
「それを調べてるところよ。少しずつだけど、光明は見えてきたわ」
机には、見たことのない難しそうな専門書が積み重ねられていた。
ミティスはそれを見ながら、得意げに語る。
「ちょろいもんよ、あいつら。ちょっと信仰心が深そうなことを言うと、何だって教えてくれるんだから」
「本気でやろうとしてるんだ」
「当たり前じゃない。私はリュノのいない未来も、腐った大人たちの価値観も許容しないわ。全部ぶち壊してみせる」
「……ねえ、ミティス」
「ん?」
「やめない?」
「やめない」
「あたしと二人じゃ、駄目なの?」
「じゃあセレスは、リュノなしで幸せだって言える?」
「言えるよ」
「100%の自信をもって?」
「50%で妥協していいじゃん。100%ハッピーな人なんて存在しないよ」
「なら私たちが第一人者になればいい。それにね、今のまま生きてたら、いつかまた理不尽が私たちを襲って、今度はセレスも失うかもしれないじゃない」
「あたしはどこにもいかないよ!」
「リュノだってそう言ってたわ」
「でも……今のままじゃ……あたしの前からミティスがいなくなっちゃうよ」
「ならないわ。それを避けるために戦うんだから」
ミティスの目にはギラギラとした闘志が宿っている。
確かに――彼女は指導による洗脳を受けなかったのかもしれない。
だがセレスには、違う意味で彼女が別人になってしまったように感じられた。
こんなに近くにいるのに、どうしようもなく遠くにいるように思える。
だからセレスは立ち上がると、背中からミティスに抱きついた。
「もう一度言うね。ここを出ようよ、ミティス。あたしたち、こんな場所にいたら壊れちゃうよ。元に戻れなくなっちゃう」
「セレス……」
ミティスは自らを抱きしめる手に自分の手を重ねると、そっと優しく退かそうとする。
だが、それを認めたくなかったセレスは、自分の意志でミティスから離れると、強引に話題を変えた。
「あ、そうだ! 今日ここに来たのはね、実はすっごいものを手に入れたからなんだ!」
立ち上がった彼女が天にかざしているのは、白い封筒だった。
「じゃじゃーん! これはなんと、リュノからあたしたちにあてた手紙なのだーっ!」
「リュノが、私たちに手紙を!? 本当なの!?」
「直接もらったわけじゃないけど、文字は間違いなく本人だと思う」
「……見てみましょう」
「うん、あたしもずっと気になってたんだ」
気になると同時に、中身を見るのが怖くもあった。
だから手紙を受け取ってから、ミティスの元に来るまで数日かかってしまったのだ。
セレスはミティスの隣に、ぴたりとくっつくように座ると、可愛らしいハートのシールで閉じられた封筒を開いた。
中からは、明らかにリュノの文字で記された手紙が何枚か出てくる。
「親愛なるミティスとセレスへ……」
二人は、自らの声でその内容を読み上げていった。
◇◇◇
親愛なるミティスとセレスへ。
まず最初に、ごめんなさいと言わせてください。
私のせいで、二人の人生を壊してしまいました。
私がこの学園に行こうとしなければ、こんなことにはならなかったはずです。
巻き込むべきではなかった。
たとえ親にそれを望まれたとしても、私が自分の意志で拒めばよかった。
今は、本当に後悔しかありません。
毎日そんなことばかり考えているからでしょうか、私は他の人に比べて、神へと変わっていく速度が遅いようです。
それは二人にとっては希望のように思えるかもしれませんが、私にとっては苦痛でしかありません。
できれば、もっと早く変わってしまいたかった。
もっと早く楽になりたかった。
早く消えてしまいたかった。
完全に神になってしまえば、もう悩むこともないでしょうし、二人を惑わすこともなかったでしょうから。
ですが、どんなに速度が違っても、私の未来は決まっています。
一度処置を受けた人間が、人に戻ることは絶対にありません。
遅かれ早かれ、私は人間ではなくなり、二人のことも忘れてしまうでしょう。
仮に世界創造が止まっても、それは変わりません。
完全に神になった人間は、この世界での存在を許されないのです。
なので、いずれカプセルを通して自らが創造した世界に飛び込み、永遠に外に出ることはありません。
揺り籠の外で生命を維持することは、どのような手段を使っても不可能になります。
ミティス、ひょっとするとあなたは、世界創造を止めようとしているのかもしれません。
ですが、無駄なんです。
そんなことをしても、もう私が戻ってくることはありません。
神となり、永遠の命を手にした私は、もはや死んだも同然なのですから。
そう、私は死にました。
二人の前にいるリュノ・アプリクスは、もうただの死体です。
なので、どうかセレスと二人で、穏やかな人生を送ってください。
最後に。
私、二人のことを愛していました。
私が候補に選ばれてからも諦めずにいてくれたこと、本当に嬉しかったです。
ありがとう。
さようなら。
◇◇◇
封筒を閉じるシールを見たとき、セレスとミティスは“ラブレターみたいだ”と思った。
しかしその中身は、真逆の内容である。
「……これは、遺書ね」
ミティスが半笑いで言った。
彼女は一度、リュノに自分の遺書を見つけられたことがある。
そのとき、リュノは言った。
『もう二度と、死にたいなんて言わないでくださいね』
だからミティスは心に決めた。
リュノとセレスがこの世にいる限り、生き続けよう、と。
もし二人に命の危機が迫るのなら、いかなる手段を使ってでも救おう、と。
だが――現実はどうだ。
あれだけ泣いて、死ぬなと言ってきたリュノが、『早く死にたい』と、『私は死んだ』と言ってくる。
「ふふ……んふふっ……リュノって、案外、抜けてるところあるわよね」
彼女の笑い声は妙に穏やかで、セレスはそれが恐ろしかった。
ミティスの瞳に宿る炎は、さらに色濃くなり、熱を帯びる。
セレスは期待していたのだ。
ひょっとすると、この手紙がミティスを
しかし、違った。
期待はずれどころじゃない。
逆効果だったのだ。
「ミティス……駄目、だよ。お願い、行かないで……っ」
思わずセレスはそう言ってすがりついた。
するとミティスは微笑み答える。
「私はどこにも行かないわ」
そして頬に手を当てて、唇を重ねた。
初めて感じる柔らかな感触。
思わずうっとりと目を細めてしまうような、甘くとろけるようなキス――だが脳内アラートは止まらない。
こんなに近くにいるのに、ミティスの心は、限りなく遠い――
甘さに溺れている場合ではない。
そう思っているのに――けれどどんなに考えたって、セレスにはミティスを止める言葉が思い浮かばなくて。
唇を離し、黙って見つめると、ミティスは強い口調で言った。
「私は必ず、セレスの元に戻ってくる。リュノを連れてね」
もう――セレスの願いは届かない。
「……うん。絶対だからね」
遠くに行ってしまったミティスが戻ってくるのを、ただ待つことしかできないのだ。
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