166 vs審判Ⅰ『破綻』
ピューパ本社ビルの上層階には、ユーリィの研究室がある。
彼女はミティスと出会ってから、ここでワールド・デストラクションの制御装置を作り上げていた。
自らの手で、世界を崩壊させる装置を作る――その行為が、ユーリィの破滅的な欲望を満たし、強い快楽を与えたことは想像に難くない。
部屋の壁には、何体かの人体が磔にされている。
手足を杭で打ち付けられ、ぐったりとうなだれているのはユスティアだ。
どれもが絶命しており、手足が折れていたり、裂傷があったり、腐っていたり、一方でキスマークだらけの体もあったりと、状態は様々だった。
おそらく、ユーリィはその時の気分、その時の人格によって、色んな形でユスティアの死体を愛でたのだろう。
ユーリィは今の状況を心から楽しんでいた。
肌を裂くのにナイフは必要ない。
腸をかき混ぜるのにドリルは必要ない。
自らの手で、道具を使わずに愛おしい人に触れ、破壊できるのだから。
なぜなら、今のユーリィは自由に体の形を変えられる。
そう――彼女は人の姿など、とうの昔に捨てていた。
その研究室にいる“ユーリィ・テュルクワーズ”とは、不規則に脈打つ、巨大な肉の塊であった。
メアリーたちがピューパの研究所で遭遇した時点で、すでにそうなっていた。
彼女らの前に姿を現したユーリィは本物ではなく、研究所最深部にいた“本体”から作られた分身である。
そしてメアリーたちが王都でヘンリーを殺すまでの間に、このピューパ本社へと移動したのだ。
ユーリィの表面には血管が浮き出ており、時折、彼女の自傷願望により肉は引き裂かれる。
傷口からはどろりとした血と、半固体の人体――おそらくユーリィの肉体だろう――が吐き出される。
彼女は伸ばした触手に憎悪を込めてそれを叩き潰すと、再び傷口から体内に取り込む。
そんな、無意味で、混沌とした、理解のできない行為は何度も繰り返される。
愛と、殺意と、自己嫌悪と、破滅願望。
それらが絵の具のように混ざりあうと、生まれるのは汚らわしい灰色だ。
彼女はそういうものだった。
正確には違うのかもしれないが、その状態を表すのに最も近い言葉は“死”だ。
彼女は死んでいる。
死んだまま生きて動いている。
だから理解しようとするだけ無駄だし、ミティスも計画こそ共有しているものの、ユーリィを人間だとは思っていなかった。
そんなユーリィの前に、カラリアが立っていた。
メイド服を着た彼女は、無表情に、焦点の合わない目でただ前を見ている。
『
そうなるよう、ユーリィが望んだのだ。
どうせわかりあえないのだから人形でいい、そう思ったらしい。
ユーリィの肉の中から、彼女の頭が現れる。
首から下に体はなく、あるのは細長い触手だけ。
それはカラリアの目の前まで伸びて、唇が触れるほどの距離まで近づいた。
「カラリア……ふふ」
ユーリィは楽しそうに笑うと、頬に口を寄せ、舌を伸ばして舐めた。
「カラリアの味がする」
するとカラリアは自らユーリィに右手を近づけた。
彼女がそう、思考で命令したのだ。
そして同じように長い舌で人差し指を舐めると、ぱくりと口を含む。
さらにそのまま舐め回し、終いには歯を立てて、ガリッと噛みちぎった。
ユーリィは人差し指の第一関節までを飴のように口の中で転がすと、ゴリュッ、グチュッ、と咀嚼し飲み込んだ。
「はあぁ……普通の人間より歯ごたえがあって素敵ぃ……」
恍惚とした吐息が漏れる。
そして彼女はカラリアにこつん、と額を当てて言った。
「血縁者の血や肉の味が似ていることを知ってる人って、この世にどれぐらいいるんだろうね。私は知ってる。私の肉と姉さんの肉は似た味をしてる。けれど私のほうが雑味があって苦いんだ。きっと、魂の穢れが染み付いてるからだと思う」
誰も聞いていない、独り言だ。
だがもとよりユーリィにとっては、他者の存在など価値がない。
重要なのは自らを高めるシチュエーションである。
「カラリアの肉は、その間ぐらい。肌の味もそう。やっぱり私と姉さんの子供なんだって、味が教えてくれるの。人の肉って素敵――」
そのとき、彼女を支える触手がぐわんと脈打った。
「うぷっ……うぐっ……ぐぶっ、ぅええぇっ」
ユーリィはカラリアから顔をそむけると、飲み込んだカラリアの指を、粘液とともに吐き出した。
その後もしばらくえづく。
「ああ、私……どうして、こんなことをしてるんだろう。気持ち悪い。体も、心も、気持ち悪い。消えたい。消えたい。死ね、死ね、死ねよ、ユーリィ・テュルクワーズは死んで――あ、あ、あっ」
ビクビクッ、とユーリィの頭が痙攣し、みるみるうちに肌が紫色へと変色していった。
同時に触手も腐敗し、力を失って、醜い生首が地面に落ちる。
それは次第にゲル状に溶けていき、ぶよぶよとした肉塊へと変わった。
新たな触手が伸びてくる。
触手はその肉を絡め取ると、壁に向かって投げつけた。
ユスティアの体に激突する。
肉は弾けて、ユスティアの肉体もバラバラになって飛び散った。
腐敗した匂いが部屋中に充満する。
カラリアに反応はない。
当然だ、彼女は人形なのだから。
そして再びぬるりとユーリィの顔が本体から伸びると、またしてもカラリアに近づいた。
そして今度は耳元に口を寄せる。
「あはははは。姉さんと私が一つになったよあはははは」
ユーリィの笑い声が部屋に響いた。
彼女は笑いながら、その口の上にもうひとつ別の――鋭い牙が生え揃った口を生み出すと、カラリアの耳をかじった。
ぐちゅっ、かりっ、こりっ、と咀嚼音が鳴る。
「あははははは。あひっ、んふうぅっ、あははははははは」
笑い声は轟く。
咀嚼。笑声。咀嚼。嬌声。咀嚼。狂声。
ここに正気はなかった。
狂気が全てを支配する場においては、ユーリィこそが正常である。
ゆえに誰も止めないし、止められない。
そんな部屋の様子を――ディジーが天井裏から密かに観察していた。
「人のことは言えないけど……イカれてるね」
彼女は転移能力で、メアリーに先立ってピューパ本社に潜入していたのだ。
いつの間にか、失われた手足の代わりに義手と義足まで装着している。
ピューパの本社だけあって、そういう試作品も転がっていたらしく、勝手に拝借したそうだ。
魔力で動く仕組みのため、感覚が無いこと以外は普通の手足と大差ない。
いや、むしろ身体能力に関しては向上したと実感できるほどだ。
もっとも、カラリアに半殺しにされて以降、まともな治療を受けていないディジーは、体が動くだけで満身創痍の状態だ。
体温は低く、なのに体の中が熱い。
手足の傷口からは鈍い痛みを絶え間なく感じていたし、常に肺と腹が内側から痛み、顔色は青ざめていく一方だ。
放っておいても近いうちに死ぬだろう。
それはディジーにとっての救いであったが、それを救いだと感じる自分自身を彼女は許容しない。
もっと苦しまなければ。
もっと痛みを感じなければ。
その一心で、こうして動き続けている。
今も――カラリアを『世界』の支配から解放できないかと、機を伺っている。
「ごめんねぇ、カラリア。せっかくまんまと私に役目を押し付けて逃げられたのに。引き戻してあげるよ、この地獄に」
もはやディジー自身にも、それが悪意なのか善意なのかわからなかった。
この終わった世界では、救済という概念が変わり果てているのだから。
そして彼女は待つだけでよかった。
カラリアかユーリィがこの部屋から出ていけば、
だが、ディジーはこう思っていた。
(……まあ、気づかれてるよね、当然)
少なくともミティスは、侵入者の存在を知っているはずだ。
彼女がいるのはこのビルの最上階。
これだけの近さで、気づかないような相手ではない。
その上で踊らされているのだとしたら――
(どうもあいつは、あたしたちの戦いの顛末なんてどうでもいいと思ってる節がある。メアリーが全ての敵を倒してたどり着くのなら、それでもいい、って考えてるんだ。だから、あたしのこの行動もあえて放置してる……のかもね)
ユーリィにしてもミティスにしても、もう行動原理が理解できる相手なんて残っていない。
だから考えたって無駄だ。
ディジーは、外からド派手に戦う音が聞こえてきても、目の前のやることに集中するだけである。
そして、さんざんカラリアを嬲ったユーリィが、彼女を解放する。
痛みに顔を歪めることもなく、突如として興味を失ったユーリィに「出ていって」と命じられ、部屋を後にする。
ディジーは動いた。
カラリアが廊下に出て、扉が閉じた瞬間に能力を起動。
ディジーの手元に現れた略奪者の杯を傾けると、どろりとした赤い液体が流れる。
これはカラリアに注がれたミティスの血だ。
続けて透明の液体も――こちらは支配の魔力である。
全てが取り除かれ、カラリアは正気に戻ったはずだった。
しかし彼女は、相変わらず人形のような動きでどこかへと歩いていく。
(効いてない? いや、そんなはずないけどな)
ディジーは転移を使いながら、念の為、カラリアに見つからないよう後を追った。
そして数階ほど違うフロアに到着すると、カラリアが天井を見ながら言う。
「ここまで離れれば聞かれないだろう」
ディジーは彼女の前に降り立った。
そして吐き捨てるように言う。
「なんだ、とっくに戻ってたんだ。つまらないの」
「お前も生きていたとはな、つまらん」
「見てのとおり、パワーアップして戻ってきたよ」
メカニカルな義手を左右に振ると、カラリアは鼻で笑った。
「死にかけが無理しているだけだろう」
「痛いとこ突くなぁ。お察しの通り、立ってるだけで精一杯だよ。この痛み、償ってるって感じがしてゾクゾクするね」
「ユーリィの同類だな、反吐がでる」
「同感だね。あたしはこういうあたしが嫌い。こんなことしてもカームは喜ばないって知ってるから」
「ふん、まあユーリィを殺す戦力になるのならどうだっていい」
「偉そうに言ってるけどさあ、さっきまで操られてたんだよね? 耳なんて半分無くなってるし、体もあんなことされてたじゃん」
「ゲロを浴びせられたこともあるぞ」
「うわ、拷問」
「ああ、仕返ししてやらないとな」
そう言って、カラリアは歩きだした。
ディジーは何も言わずに前を歩く彼女の隣に並ぶ。
「どこ行くの?」
「ここだ」
そこにあった扉を蹴飛ばすカラリア。
ディジーは「うわぁ、野蛮」と言って軽蔑の目を彼女に向けた。
そんなことは気にも留めず、カラリアは部屋にあった工具箱を開くと、中からスイッチのようなものを取り出す。
そしてノータイムでボタンを押し込んだ。
けたたましい爆発音と共に足元が揺れ、天井からパラパラと小石が落ちてくる。
「うっわぁ……今の何?」
「爆弾だ。何やら重要らしい装置が置いてある部屋に仕掛けておいた」
「は? 何、操られてるんじゃなかったの?」
「操られていたさ。だが以前と同じだ、どうやら『世界』は私にさほど興味が無いし、私を完全には支配できないらしい」
以前と同じ失敗を『世界』が繰り返すものだろうか――とディジーは疑問を抱く。
まあ、彼女を野放しにしているのと同様に、『ミティスには興味がない』と言ってしまえばそれまでだが。
しかし、以前よりは多少は警戒を強めているはずだ。
仮にそれでも支配しきれない領域が残るのだとしたら、カラリアはあまりに異常だ。
いや、それ以前にどう考えても彼女の存在はおかしい。
魔術を使わずに、兵器だけでアルカナ使いと互角以上にやり合う化物、それがカラリア・テュルクワーズなのだから。
「……何者なんだろうな、私は」
軽くため息交じりにカラリアは言った。
どうやら当人も、さすがに気になってきたらしい。
結局のところ、ユスティアが死んだ今となっては、真相は闇の中なのだろう。
「ユスティアがカラリアを特別扱いして脱走した理由ってさ、案外、ユーリィなんて関係なかったりしてね」
「体質の問題か。だったらあの女も報われないな」
カラリアは部屋から出た。
ユーリィのいた場所まで戻るつもりのようだ。
ディジーも慌てて追いかける。
足の速さは明らかにカラリアのほうが上だ。
彼女が走った場合、出遅れたディジーは転移を使って、ようやく追いつけるほどのスピード差だった。
並走しながらディジーは問う。
「武器は持ってるんだね」
「天使化させてメアリーと戦わせるつもりだったんだろう。今ごろミティスも、つまらない展開だと腹を立てているんじゃないか」
「どうだろうね、面白い展開だって笑ってるかもよ」
「それは勘弁願いたいな」
「だね。何もかも手のひらの上とかやってらんない」
「お前と意見が合うのも気味が悪いものだ」
「それあんたが言う?」
二人は再びユーリィのいるフロアまで戻ってきた。
カラリアは二丁拳銃モードのマキナネウスを握り、ディジーは
「戦う気が感じられないな」
「前衛は任せたよ」
「挟み撃ちの間違いじゃないのか」
「あんたと手を組むのも嫌だけど、それ以上にユーリィが気持ち悪いからさ」
「困ったな、納得できる理屈だ」
「んで、一緒に行く? それとも奇襲する?」
「……ユーリィは私に執着している。奇襲も悪くはないかもしれんな」
「じゃあそゆことで」
「手を借りずに倒せることを祈っているよ」
再び扉を蹴飛ばすカラリア。
その勢いはさながら弾丸のごとく、そこにユーリィがいたのなら先制攻撃として有効に働いていただろう。
だがカラリアが突入すると、そこにあったのはえぐれて焼け焦げ、動かなくなった肉片と、完全に壊れた装置だけだった。
彼女は警戒を解かずに、部屋の中央まで進む。
(ユーリィがアルカナ使いという話は聞いていない。ミティスから過剰に血を与えられただけの、ただの人間である可能性もまだ残っているが――)
ありえるだろうか、そんなことが。
ミティスが重用する人間が、ホムンクルスを生み出した人間が、アルカナ使いではないなどということが。
「どこだユーリィ、出てこい。あの程度の爆発で死ぬような玉でもないだろう!」
大きな声でそう言うと、予想通り、床の隙間から肉がぬるりと染み出してくる。
それはやがて人の形となり、あの白衣を纏った眼鏡の女が目の前に現れた。
カラリアは銃口を向ける。
「裏切ったね」
ユーリィは心からの憎しみを込めて言い放った。
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