題:8

 周囲の喧騒で目が覚める。まだ気だるくて身体を起こせない僕の上を小さな何かが駆けていく。鳩尾みぞおちを踏まれた僕は苦悶の声を上げて硬い床へと転げ落ちた。


「ああっ、ダメだよケリー!イイさんの上を走っちゃ!」


 ケリー?誰だ?床に手をついてゆっくりと起き上がると、エプロン姿の青年と目が合った。声の主は物腰の低いこの彼らしい。


「ごめんなさい」


 申し訳なさそうに頭を下げた彼の銀髪に手の平に収まるほどの黒毛のネズミが飛び乗った。無防備な僕の身体をコースに爆走していた憎き相手はこいつらしい。


「ほら、ケリーもイイさんに謝って!」


 青年の声に応じてケリーというらしいネズミもペコリと鼻先を青年の銀髪にくっつける。あまり許そうとも思えなかったが、それより彼が僕の名前を知っていることの方が気掛かりだ。最後の記憶を頼りに寂寂とした室内を見回すと、長身の男は変わらず壁に背を付けてこちらを見ていた。刺すような視線から逃げるように目を青年に戻す。


「何故僕の名前を……?」


 答えは背後から癪に障る声で帰ってきた。


「君が惚けた顔で寝ている間に自己紹介を済ませたんだ。知らないのは君と赤髪の白雪姫くらいだぞ。僕は先に進んでくれと言ったんだが、何人かは君が起きるまで待っていてくれたんだ。挨拶代わりに土下座でもどうかな」

「ふざけるな。なんで謝らなきゃいけないんだ」


 振り返りもせずにそう言い放つと僕は床に落ちたコートを拾い、自分の眠っていたソファーに腰を下ろす。布地はじんわりと湿っていて、嫌な汗を吸い取ってくれていたことが分かった。悪夢を見ていたようだが、何も覚えていない。前回のゲームが終わった後から頭痛と共にこういう眠りが続いている。


「エイルさんと仲がいいんだね。仲良しなのはいい事だよ」

「「冗談は勘弁してくれ」」


 僕らが同時に否定し、青年は吹き出した。タイミングが一致さえしていなければまともな否定になったのだろうか。


「ふふっ、僕とケリーみたい。そうだ、僕は青葉梔子あおば くちなし。動物園で飼育員をしているんだ。よろしくね」


 クチナシ青年が求めてきた手を乱暴に握り返すと手の中で違和感に気付く。手を捻ってクチナシの右手を上に向けると、彼の手の甲は僕よりずっと小さかった。指だけは普通の長さなので尚更異常に見える。まるで獣のようだ。


「あっ……、これは先天性の病気なんだ。ごめんね、気に障ったかな」


 クチナシは慌てて手を腕より長い袖の中に引っ込める。この柔和な性格は先天性のものではない。沈痛な表情をした彼の深層に思考が触れる前に考えるのを止めた。僕は過去にも、彼の生涯にも立ち寄りたいとは思わない。


「いや、気にはしない。他人がとやかく言えるものじゃないからな」


 自分に言い聞かせるように言うと、背後から「随分と道徳に沿った答えだ。そういうの嫌いそうになのにね」とわざとらしい拍手が聞こえてきた。そこに、落ち着いた低い声が割り込んでくる。


「否定は出来ないが、肯定にも及ばない。時には他人が気づかせなければいけない場合もあるのだからね」


 壁際に居た帽子の男は影もなくソファーの前まで来ていた。


鶙鵳ていけんさん、何の用?」


 エイルは棘の付いた声で帽子の男を威嚇していた。彼女も僕と同様、テイケンと呼ばれた男の隠し持つ武器を警戒しているのか、はたまたそれ以外の事情か。兎も角僕も彼女に加勢しようと男を睨む。男は僕らの視線を食い殺すように口を開いた。


「なに、目の前で倒れた仲間が目覚めたら声を掛けるのは当然だろう。それともなんだ、私が彼に危害を加えようとしているとでもいうのかな?それは心外だな」


 不精巧な笑顔は却って不気味さを助長していた。自然と立ち上がっていた僕は背の高い彼の前に立った。白髪の下から覗く鋭い眼光はまさしく獲物を狙う鷹だ。後退すればするほど、罠にハマってしまう。ならば、立ち向かうまで。


「失礼した。もう紹介されていると思うが、御霊伊依だ。貴方とは関わりが多くなる気がする。その時は助け合おう」


 僕が手を差し出すと一回り大きな手で返された。どうやらここでの抗争は避けられたらしい。


「こちらこそ申し遅れた。私は玄野鶙鵳くろの ていけんという。呼び辛ければテイで構わないさ。恐怖政治に対抗すべく手を取り合うとしようじゃないか。ハハハ」


 先程よりかは正しく笑っているが、それでもまだ偽物。僕はまだ狩るべき獲物として写っているに違いない。緊張が形となって露見する前に手を離した。この空間にこれ以上居座る意味もないだろう。と、出口の扉へと目を向けた時、ふと僕は部屋の中に居るはずの人物が居ないことに気が付いた。


「あの女はどこに行ったんだ?」


 先程エイルが僕を貶す時に登場した赤髪の白雪姫とはおそらくあのライダースーツの女だろうが、今はこの部屋のどこにも見当たらない。


「寝ていた人なら自己紹介もせずに走っていったよ」

「そうか、ありがとう」


 僕らとテイの鍔迫り合いを固唾を飲んで見守っていたクチナシが割り込んで教えてくれたことで、ようやく先に進むムードになった。


「イイも起きたし、そろそろ僕らも行こうか」

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