第74話 それぞれの事情④
見晴台から眺めるみずほの町は、そのほとんどが田んぼと畑だった。車道を走る車も見当たらない。
人は遺伝と生育環境で人格のほぼ全てが決まると言われるが、霊媒師の家に生まれ、外部からの情報が入りにくい土地で育つと、果たしてどんな人間になるのだろうか。
「温室の周りは電波が届かないと、どうして由美子さんに教えなかったんですか? 『風水の先生』」
そう問いかけると、
「ブッブー。ダメだよ、九我ちゃん。そっからじゃないよ」
短くなったタバコを足で揉み消しながら、雅は新しいタバコに火をつけた。
「最初っから、きいてよ。どうせ私の過去なんて、調べ上げたんでしょ? 国家権力は怖いねえ」
(そうでもないですよ、雅さん)
正語は心の中で否定した。神社で首を吊った飯島早苗の過去を調べるのは決して簡単ではなかった。わかったのは、鷲宮家で働く前の早苗が湯川市の病院で看護師をしていたことだけ。当時の住所から同居人の名前を突き止めるのがやっとだった。
「早苗さんとは、どういったご関係ですか?」
「同僚だよ。知ってんだろ?」
「以前は、ご一緒に住んでいましたね」
「うん、すんごいボロアパート。九我ちゃんみたいに若い人は、あたしぐらいの年寄りはみんな高度成長期を謳歌して、バブルを経験して、金使って遊びまくってたと思ってるんだろうけど、そんなのとは無縁の人間もゴロゴロいたんだよ。あたしと早苗ちゃんは、そっち側の人間さ。まあ、お金がなくても楽しくやってたけどね」
正語は頷き、次の質問を投げかけた。
「早苗さんの親御さんや兄弟関係について、ご存知ですか?」
「施設育ちだって言ってたよ。親も兄弟もいなかった」
「どのような経緯で、早苗さんは鷲宮で働くことになったんですか?」
「ガンちゃんが心臓の手術で私たちの職場に入院してきたんだよ。早苗ちゃんが病室に入ると、ガンちゃんはじっと目で追っかけててさ。気持ち悪いスケベオヤジだって、みんなで笑ってた。退院するとすぐに鷲宮の家から早苗ちゃんにお呼びがかかったんだよ。久仁子さんの看護をお願いしたいって——断るやつはいないだろってくらいの高待遇だったよ」
「岩田さんと早苗さんが、以前から知り合いだった可能性は?」
「そんなんだったら、早苗ちゃんが手紙で書いてくるよ。瑞穂村に行った後も、よく手紙をくれてたんだから」
雅は一息つき、当時を振り返るように言葉を続けた。
「久仁子さんに気に入られて、家族同然に扱ってもらえてるとか、高太郎から気のあるそぶりを見せられてるとか、佐伯正男から付き合ってくれって言われたとか、色々書いてた」
「……久仁子さんについて、どんな方だったか、何か書かれていましたか?」
「身体は不自由だけど、陽気な人だったみたいだよ。肖像画見ただろ? あんな容姿で自虐ネタ言ってくるから、笑っていいのかどうか困ったって書いてたよ。『岸惠子』のフアンで、映画が好きだったんだって——映画館に行ける人じゃないから、家の中に映画を観る部屋があったんだろうね。お金持ちは違うよ」
雅は少し間を置き、続けた。
「久仁子さんは、ダメな弟の世話をやく映画が特にお気に入りだったらしい。私もこういうバカな弟が欲しいって言ってたんだって。自分が世話されるばっかりだから、誰かの面倒を見たくなるのかもしれないって、早苗ちゃんが書いてたよ。
自分が死ぬ時は、お互いの手首をリボンで繋いだまま看取って欲しいって、久仁子さんに言われたんだって……映画のラストが、そんなんらしいけど……題名忘れちゃった。分かったら、観てみたいなあ、その映画……」
正語は黙って聞き入った。雅が語る久仁子や早苗の姿が、静かに正語の中に染み込んでいく。
「早苗さんが亡くなった時、あなたはどうされましたか? みずほにいらしたんですか?」
「……あたしは……知らなかった……」
雅の声は急に低くなった。
「手紙が来ても、読まないで捨ててた、から……」
正語は口を挟まず、次の言葉を待った。
雅は短くなったタバコを地面に落とし、吸い殻を足で力なく踏みつけた。そして、ためらいがちに再び口を開いた。
「……最後に読んだ手紙には、久仁子さんが自分の全財産を早苗ちゃんに譲るって、遺言書を作ったって書いてあった。佐伯正男のプロポーズを受けるつもりだとも……もう、読むのが嫌になっちゃったんだよ。だってさ、そんなおとぎ話みたいなこと、私の人生には起きっこないから……」
「早苗さんが亡くなったことを知ったのは、いつです?」
「三年前、由美子さんと会ってからだよ」
「由美子さんとも同じ職場だったんですね」
「よく力仕事を代わってもらった……聞きかじりの風水の知識を少し喋っただけで、あたしのこと先生とか言い出してさ。面倒くさいよ、そういうの。勝手に慕っておいて、期待外れだとわかったら攻撃してくるんだから」
雅はため息をついた。
「由美子さんから、早苗さんが亡くなった経緯を聞いたんですか?」
「いや、離婚した旦那の故郷が瑞穂村だって聞いただけ。それだけでびっくりしたよ……」
雅はタバコを取り出し、火をつけた。
「……懐かしくなって、たまんなくなっちゃって……早苗ちゃんに手紙を書いたんだよ。どうしてる? 元気? とか、そんな他愛ないことを書いただけなんだけど……その手紙を受け取った高太郎が、すぐ店に来て……そこで初めて、早苗ちゃんが亡くなったって、知ったんだ……」
雅はタバコを握りしめたまま俯き、嗚咽を漏らした。
正語は静かにその様子を見守った。以前、雅が早苗の話をしながら涙を流した場面を思い出す。その時は不幸な女への単なる同情だと思っていたが、今は違う。
雅が派手に鼻をかんだ。
「……あとは、前に話した通りだよ。父親の介護を頼まれて、ここに来た」
「早苗さんが亡くなった経緯を高太郎さんから聞いたんですね?」
「そうだよ。でも町に腰を落ち着けたら、嫌でも色んな人から聞かされたよ。……早苗ちゃんを良く言う人は誰もいなかった……桜の名所だし、みんなあの神社を大事にしてたからね——」
雅は火のついたタバコを口に運びながら、呟くように続けた。
「……もし早苗ちゃんが辛い目にあってるって、久仁子さんが知ってたら、助けてくれたかもしれない。でも、屋敷の奥にいる人に教えてくれる人は誰もいなかったんだろうね……それとも、あの人も知ってて、見殺しにしたのかね……」
雅の目が遠くを見ている。
周囲の空気が更に涼しくなった。
雅が、温室付近に電波が入らないことを、由美子に教えなかったのは、単純な理由だった。
「あの人、一輝さんの不倫相手の真理ちゃんから、慰謝料をふんだくろうとしてたんだよ……真理ちゃんを守りたかった……由美子さんは、自分のせいで一輝さんが亡くなったって、思ってるみたいだったから、思わせておいただけだよ」
自分がスマホを持ち去らなければ、一輝は助けを呼べて、亡くなることはなかったと、思い込んだ由美子は、この一年、いつ警察に捕まるかと怯えて過ごした。
『風水の先生』からは、みずほ町には近づくなと、助言を受けていたそうだ。
「ガンちゃんは、由美子さんの息子が撮った写真を後生大事にしてて、その子を本家の跡継ぎにする気でいたけど、あたしは、真理ちゃんのために、あの親子を町に入れたくなかったんだ……この家の財産は、早苗ちゃんのものになるはずだったんだよ。早苗ちゃんのためにも真理ちゃんに継いでもらいたかったのさ」
口を閉じた雅は、項垂れた。
なんで真理ちゃんが、死ななきゃならないんだろと、呟く。
「あんた、惜しい人を亡くしたね」
「ええ」
「……真理ちゃんは最初、気難しい子だった。あたしは、あんまり好かれてなかったし……でも、急に笑ってくれるようになって……打ち解けてくれてさ……あたしは、すごい嬉しかった……真理ちゃんが笑うと、早苗さんに、そっくりで……」
結界をいつ崩しましたかと、言いかけて、正語は口を閉じた。
そんなことはもう、どうでもいいことだ。
「……早苗ちゃんに、申し訳ないよ……ちゃんと手紙、読んでたら……旦那から家を追い出されて、困ってるって、書いてあったかもしれないのに……」
雅は、途切れ途切れ、絞り出すように声を出した。
「……そしたらさ、すぐ、おいでって……一緒に子ども、育てよって……あたし、早苗ちゃんと、また暮らしたかったよ……一緒に、真理ちゃん、育てたかった……いい暮らしできなくっても……女三人、笑って、暮らせた……あの二人は、もっと生きられたのに……」
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