第26話 自首
秀一が物心つく頃、兄は大学生だった。東京で一人暮らしをしていた兄とは、長い休みの時に顔を合わせるくらいだったし、人見知りの激しかった秀一は兄が帰省しても常に母親の後ろに隠れていた。
八歳の時に母親が亡くなり、秀一は母方の親戚に預けられた。
兄とは疎遠のまま、去年兄も亡くなった。
『お前の兄ちゃんは、どんな男だったんだ』と、みずほ町に来る前に
さんざん考えた挙句、答えた。
——正しい事をしようとする人だった。
正語は鼻で笑った。
トラブルが多そうな生き方だと。
兄と本家の真理子が将来結婚することは、大人たちの会話の端々から知った。
真理子にはコータという、秀一と同い年の弟がいる。実際は血が繋がっていないようだが、詳しい話を秀一の耳に入れる大人はいなかった。
秀一とコータは幼い頃から気が合った。
小学校に上がると昼休みはいつも二人一緒に過ごした。二人とも外で遊ぶより、教室で絵本を読んだりマンガを描いたりする方が好きだった。
自分の兄がコータの姉と結婚したら、自分たちは兄弟になるねと話し、同じ部屋を使おうと約束した。
ところが兄は親たちに何も言わずに東京で別の人と入籍し、子供までもうけた。その事を知った大人たちが驚き慌てた時の事は、秀一も覚えている。
秀一が小学校に上がった年、由美子が小さな男の子を連れて秀一の家にやって来た。
家の空気が重いのは感じたが、秀一は二人をただのお客様だと思っていた。
由美子が兄の妻だとわかった時、幼い秀一は思った。
——兄さんはこの人と結婚したけど、いつか真理子さんとも結婚するんだな。
由美子たちは来た時も突然だったが、いなくなる時も突然だった。
大人たちの間では話がついていたのかもしれないが、秀一にとってはあまりに急だった。
一学期最後の日、明日から夏休みが始まり、賢人とたくさん遊べると、ワクワクしながら母親が運転する迎えの車に乗った。
『ケントにこれ、あげるの』
と、図工の時間に作った紙粘土のキリンを見せても、運転席の母親は無言だった。
ランドセルを置いて、キリンを片手に由美子と賢人の部屋に入ったが、中はもぬけのからだった。
父や母に聞いても、なんだかんだとごまかされる。
普段なら一人では行かない本家へ行き、兄を訪ねて初めて二人が東京に帰ったことを知った。
『もう、戻って来ないよ』
そう言い放つ兄の態度が冷たく感じられて、秀一は腹が立った。
だが言葉にすることができない。
人知れず泣きながら自分の家に帰った。
町の大人たちは、東京育ちの由美子に田舎暮らしは合わなかったとか、旧家の嫁は荷が重かったのだと噂しあった。
若気の至りで子供ができてしまったが、やはり一輝さんは真理子さんを選んだのだろうと……。
いつまでも悲しむ秀一に、母は言った。
——一輝は、正しいことをしたの。自分や周りの人を傷つけてしまうかもしれないけど、それはとても大事なことなのよ。
由美子と賢人が町を出ていって九年。
今、秀一は由美子と二人きりで雑木林の中のベンチに座っている。
少し離れた金網の向こうのテニスコートでは、賢人が凛の相手をしていた。コントロールの定まらない凛の打つボールに、賢人が振り回されている。時折凛の笑い声が聞こえてくる。
「秀ちゃん、ごめんなさい」と隣に座る由美子が謝った。
何も言わずに出て行った事だなと、秀一は勝手に想像する。
悲しかったけど、由美子さんにも事情があったのだろう。もう気にしていないよと言う代わりに、笑ってうなずいた。
「一輝さんが亡くなったのは、私のせいなの——これから警察に行ってくる」
いきなり何を言い出すのかと、秀一はポカンとした。
「去年、一輝さんが亡くなった時にすぐ自首すればよかったのに——ホント、バカなことしちゃった——」
何をしたのかと、聞くのが怖い。
だが、秀一はピンときた。
「……本家に、刑事さんが来てるみたいなんだけど、由美子さんを捕まえに来たの?」
由美子が悲鳴を上げる。「今? 本家に? 刑事?」
「兄さんのスマホが神社で見つかった件を調べてるんだって」
秀一は
「私じゃない! 神社になんか置いてない! 私は一輝さんのスマホを持ち出して、近くの畑の中に投げ入れただけよ!」
悔しくってと、由美子は唇を噛んだ。
「一輝さんからやり直そうって言われて、あの日、みずほに来たんだけど——一輝さん、温室の前であの女と抱き合ってたのよ!」
秀一は顔が赤くなった。「……真理子さんと?」
そうよと由美子はうなずく。ひどいと思うでしょと、目で訴えてくる。
「腹が立って、近くにあった一輝さんのスマホを持ち出したの!」
由美子は顔を覆った。
「でもまさか、こんな事になるなんて——あの人が死んじゃうなんて、思わなかった——」
「……大丈夫だよ……」秀一は弱々しい声を出す。「……自首したら、罪って、軽くなるんだよね?……」
「……どうしよう、全部、私のせいにされちゃう……私がいなくなったら、賢人が一人になっちゃう……」
秀一の脳裏に幼かった賢人の姿が浮かぶ。
母親と離れる寂しさを、あの子も味わうのかと思うと胸が痛くなる。
「秀ちゃん! 賢人のことお願い!」と由美子は秀一の両手を掴んだ。「私がいない間、あの子の面倒をみて!」
由美子の勢いに押された。
「わかった!」と秀一は即答する。「賢人は、オレがみるよ!」
由美子は「ありがとう」と、手に力を込めてきた。
「智和さんから電話があった時、嫌な予感があったのよ。スマホは、またなくなったけど、一輝さんのパソコンから私の携帯番号が出てきたんですって。
智和さん、今日はテニスしに秀ちゃんが来るから一緒に会おうとか言ってたのに、罠だったんだわ! 警察まで呼ぶなんて! 賢人と私を引き離そうとしてるのね!」
「……智和って、うちのお父さん?」
「今日は本当は良くない日なの。動かない方がいいって、占いの先生に言われたんだけど、さすがだわ、先生にはこうなることが分かっていたのね!」
秀一の手を放すと、由美子は勢いよく立ち上がった。
「刑事に捕まる前に、自首しなきゃ!」
「……警察に行くの?」
「まずは先生に相談してくる。一緒に働いていた人なんだけどね、すごい人なの。その人から風水とか教えてもらって、私の運勢が良くなったの」
秀一も立ち上がる。
「オレも一緒に公民館に行くよ。メールしなきゃ」
こうなったら午後に東京に戻ることなど出来ない。
待ち合わせに行けなくなったと、すぐ正語に連絡しなければ——。
「私とは離れていて。私たちが来てることは誰にも言わないで」と由美子は再びサングラスとマスクをつけ始めた。
「私って、評判良くないでしょ。一輝さんを置いて、ここから逃げ出したし……町の人と顔を合わせたくないの」
そう言うと由美子は日傘で体を隠すようにして、スマホが使える公民館へ向かった。
秀一も走った。自分のスマホを取りにコートへと。
走りながら、秀一は思う。
(これ、正語に相談した方が、いいんじゃないかな?)
警察官の正語なら、正しい自首のやり方を知っているかもしれない。
(用意する書類とか、色々あるんだろうなあ……揃えるものによって、罪が重くなったり軽くなったりするのかな?)
それにしてもと、秀一は首を傾げる。
——スマホを盗ると、どのくらいの罪になるんだろう?
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