第27話 『我が命運も尽きたり』

 昼に正語しょうごと待ち合わせていたが、キャンセルしなければならない。

 早く、連絡しないと……。

 由美子の話を聞いた秀一しゅういちは、スマホを取りにテニスコートまで走った。


 コートに入った途端、ベースラインにいるりんが怒鳴ってきた。

「何やってたんだよ! 早く来い! サーブするぞ!」


 秀一がテニスバックからスマホを取り出していると賢人けんとが近づいてきた。「母さんと何を話したんですか?」と身を屈めて、声を顰める。


 あの小さな男の子が、今は自分より大きくなっている。

 秀一は感動していた。


「俺たち、叔父さんに隠していることがあるんです。母さんからは口止めされていますが、どうしても話しておきたいんです」

「何?」

「どこかで二人っきりになれませんか?」

「……公民館に行って、メールしたら、すぐ戻ってくるよ」


 賢人は待ってますと言い、身を起こした。


「……あのさあ、やっぱ、オジサンっていうの、やめてくれる?」

 叔父さんの意味なのはわかったが、あまりいい気はしない。

「賢人は、昔、オレのことなんて呼んでたか覚えてる?」


 賢人は首筋を赤くした。「——チュウタ——ですか」


「そうそう。秀ちゃんって言えなかったから、チュウタンがチュウタになったんだよね。父さんが、ネズミみたいだって、笑ってた」


「チュウタ」と賢人が笑う。「昼飯、一緒に食べましょう」

「もう秀ちゃんって言えるよね。秀一でもいいよ」

「チュウタにしておきます。俺だけの特別な呼び方って……なんかいい……」


 そう賢人が照れたように笑った時、背中に衝撃を受けた。


「いてっ!」


 後ろにファイティングポーズの凛がいた。


「お前は、アタシにサーブ教えないのかよ!」


「ちょっとメールしてくるから待ってて」と秀一が言うと凛が腕を絡めてきた。


「アタシも行く。アイス買って」


 凛に引っ張られながら秀一は、すぐ戻ると賢人に告げて、コートを出た。




「秀一は、あいつと知り合いだったんだな」


 コートから出るとすぐ凛は手をつないだまま秀一を見上げた。


「あいつクラス分けン時、自分から初心者クラスに入ったんだ。アタシはマジでヘタクソだけど、あいつ違うじゃん。担当が秀一だから入ったんだな。

 このクラス、もっといっぱいいたんだけど、アタシが入ったらみんな抜けた」

「どういうこと?」

「アタシ、学校で浮いてる」


 秀一は驚いた。立ち止まって、凛を見る。

 凛は得意そうな顔で笑っていた。


「学校の奴らが変なんだから気にするなって、父さんが言った。根性曲がりの奴らから仲間外れにされるのは、真っ直ぐ生きてる証拠だって!」


 それに、と凛は秀一に身を寄せる。


「アタシは将来、鷲宮家の女主人になって、一発逆転するんだ。この町の支配者になってやる!」


 秀一は吹き出した。

 笑いながら凛の頭を撫でる。

 およそトリートメントやヘアローションとは無縁なのだろう。凛の短い髪はゴワゴワと硬かった。 




 二人は雑木林を抜けて、三面続きのテニスコートの脇を通って、クラブハウスに入った。

 コートからは球出しをしている武尊たけるの大声が聞こえた。


 クラブハウスの中では暑さから避難してきたのか、中学生くらいの女の子たちが固まって、扇風機の周りでタムロしていた。

 秀一の姿を見ると女の子たちが一斉に挨拶をしてくる。

 こんにちはと、返す秀一。

 だが凜は無言だった。秀一の手を握り、ピタッと体を近づける。


「同じ学校じゃないの?」と秀一はこっそり凛にきいた。


 みずほ町には小学校も中学校も一校しかない。

 凛は何も言わなかった。前を向いたまま秀一の手を強く引いて、公民館への近道になる裏口へと向かう。

 凛が裏口のドアノブに手をかけた時、女子更衣室から夏穂かほが出てきた。


「秀ちゃん!」と夏穂は陽気な声を出す。「もうすぐ、うちのお祖父じいちゃん来るよ! 帰る前に会ってあげてね」


 夏穂はウエアから着替えていた。ベージュのカーゴパンツに白のTシャツ姿だ。


「もうテニスやらないの?」と秀一。


「私たちレクリエーション係だから」と夏穂は笑顔で後ろを振り返る。

 夏穂の後ろには涼音すずねがいた。

「今から集会室に行くの。涼しいから秀ちゃんも行く?」


 明るい笑顔の夏穂とは対照的に、涼音の目はうつろだった。

 何か恐ろしいものでも見たかのように青ざめている。

 涼音はふらふらとした足取りで、夏穂や秀一の脇を抜けて、クラブハウスの裏口から外に出た。


「……涼音どうしたの?……元気ないね」


 いや違う。

 元気がないなどという言葉では言い表せない——だが言葉が見つからなかった。


「コータがちょっといたずらしたんだよ」と夏穂。


 秀一は今朝、コータが女子更衣室から出てきたことを思い出した。


「コータが涼音に何をしたの⁈」


 つい大声になってしまった。


「秀ちゃん、シッ!」と夏穂が人差し指を口に立てる。


 扇風機の前の女の子たちがじっとこっちを見ていた。


「鷲宮の人がコータを非難すると、大騒ぎになっちゃうんだから気を付けて!」と夏穂は小さいが強い口調で秀一に注意した。


「コータは病気なんだよ。自分が何やってるかもわかんないし、涼音は……」と夏穂は言葉を探すような顔をする。「……繊細さんなんだよ……何でもないことなのに、気にしちゃうんだよ」


 夏穂の言葉は聞こえていた。

 だが秀一の脳裏には全く別なことが浮かんでいた。


 ——我が命運も尽きたり。


 ある日、画集を見ている光子の横にいた秀一は聞いた。

『どうしてこの人は、こんなにつらそうなの?』

『自分にかけられた呪いを知ったからよ』と、答えた光子は昔読んだ推理小説の話をした。

 ——鏡は横にひび割れて、我が命運も尽きたり——

 ロマンチックよねと、光子はテニスンの詩を口にしたが、秀一はそのウオーターハウスの絵がしばらく忘れられなかった。


 更衣室から出てきた涼音を見た秀一は、久しぶりにあの絵を思い出した。

 ——涼音にあんな顔をさせるなんて、いったいコータは何をしたんだ。


 

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