第25話 兄嫁と甥っ子

「真理子先生が、うちに刺身の大量注文してきたんだ! 刑事が来てるって言ったんだぞ!」


 興奮して喋るりんは、膝の抜けたジーンズにTシャツ姿だった。


「テニスやらないの?」と秀一しゅういちがきくと、凛は得意顔で瞳を輝かせる。


「刑事が来てんだぞ! アタシは重要参考人なんだ、テニスなんかやってられっかよ!」


 機嫌をそこねた武尊たける涼音すずねがなだめながら連れ出して、コートに残ったのは秀一と凛、東京からやって来た中学生、そしてコートの隅のベンチで日傘をさす中学生の母親だけになった。


「なあ、秀一も一緒に本家、行こうよ!」と凛は秀一に腕を絡めてきた。

 

「あまり時間がないんだ。ガンちゃんに呼ばれて来ただけだから、昼には帰るんだよ」


 秀一が言うと凛は怒った顔で、秀一の腕を乱暴に放した。


「ラケット貸すからテニスしようよ」と秀一は自分のバックを開ける。


 凛は秀一の背中に甘えるように寄りかかってきた。


「アタシ、今日、テニス、出来ない」


 開会式で座り込んで、岩田に注意を受けた凛は、もう帰れと怒られた。

 更衣室で着替えて、父親に電話で迎えを頼んだら『本家に刑事が来て、刺身の大量注文が入ったから遅れる』と言われたそうだ。


「ガンちゃんには、オレから言っておくよ」と秀一は凛にラケットを手渡す。「オレが前に使っていたヤツだけど、重いかな?」


「タイガースっぽいな」と、凛は黒と黄色のラケットを見て笑顔になった。


「阪神フアンなの?」と、いつの間に立っていたのか、秀一の後ろから中学生が凛にきいた。


 変声期をとっくに過ぎた大人の声だった。

 男子校での貴重なソプラノパートだと、音楽教師から喜ばれる自分とは大違いだと秀一は羨む。


(……バリトンか、な……)


 ラケットを抱えた凛が大きくうなずいた。「お前も、おんなじやつだな!」と少年のラケットを指差す。

 少年は、百六十五センチの秀一より頭半分背が高い。耳に銀のピアスをつけていた。

 東京の男の子はオシャレだなと、秀一は再び感心した。


「叔父さんは、今、何使ってるんですか?」


 と、少年が言い出した。

 どこにオジサンがいるのかと、秀一は辺りを見回したが、少年は真っ直ぐ自分を見ている。


(オジサンって、オレのことか!)

 かなりショックだ。

(……中学生にとって、高校生はもうオジサンなのか⁈)


「秀一! サーブ教えて!」と凛はラケットを振り回しながらコートに向かって行った。


 オジサンという言葉に動揺しながら、秀一は自分のラケットをバックから取り出す。


「……オレ、今は、Vコア使ってる……」


「アエロ、やめちゃったんですか」と言いながら、少年が手を差し出してきた。


 貸してという意味なのだろう。

 秀一は自分のラケットを渡した。

 真っ白な自分が恥ずかしくなるくらい、少年の腕はきれいに日焼けしている。太さも倍近くありそうだ。


 少年は秀一のラケットで素振りを始めた。「こっちに変えようかな」と呟き、秀一を見る。「叔父さん、後で試合してくれませんか?」


(うわああ! また言ったよ!)


 そして気づく。

 そうか、自己紹介していなかった自分が悪いのだと。

 

「……オレ、鷲宮秀一わしみやしゅういちっていうんだ」


 少年は不思議そうな顔をした。「知ってますよ」


(えーっ! 名前知ってても、オジサンっていうの⁈)


 秀一は腹に決めた。ここは一つちゃんと注意しないといけない。高校に入って上級生をオジサン呼ばわりして、厄介なことになるのはこの子なのだから。


「……じゃあ、名前で呼んでくれる? オレ、オジサンじゃないし……」

「ラッキーだな。叔母さんだったんですか」


 と少年はニヤつきながら、右目の目尻を人差し指でかいた。うっすらと泣きぼくろがある。


「おい! 秀一! 早く来い!」と凛がベースラインから怒鳴ってきた。


 秀一が凛に向かい歩き出した途端、少年が顔を近づけてきた。「母さんが——」と耳元で囁く。


(体、屈めんなよ!、そんなに身長差ないだろ!)


「話があるみたいなんで、お時間取っていただけませんか」


(ん? 母さん?)


 秀一はベンチに座る少年の母親に顔を向けた。

 母親は日傘を置いて立ち上がると、深く頭を下げる。

 ボーっと見ている秀一の前で、サングラスを取り、マスクを取る。そしてまた頭を下げる。


「秀一! 何やってんだよ!」と凛がまた怒鳴ったが、秀一の耳には入らなかった。


 秀一はふらふらとベンチに近づいた。

 女の顔に見覚えはあるが、まさかという気持ちの方が強かった。

 秀一が近くまで来ると、女は両手で口を押さえた。泣き顔になっている。


「——秀ちゃん、大きくなったね。すごい美人さんになったね」


 秀一は驚いて、言葉も出なかった。

 女は両手を伸ばして、秀一の両頬を包む。


「かわいい男の子が、そのまんま、こんなに綺麗になって——お姉さんは、嬉しいぞ」


(……由美子さんだ……)


 女は亡くなった兄、一輝の元嫁だった。


賢人けんとも大きくなったでしょ。賢人ね、秀ちゃんの試合観てからテニス始めたのよ。すごい上手でしょ」


 由美子は泣き笑いの顔で、涙を拭いた。


(……そうか……あの子、ケントだったんだ……)


 秀一は振り返ってコートを見た。

 背の高い少年と目があう。

 そこには、膝に乗せて絵本を呼んであげたり、トイレに失敗した時にパンツを替えてあげた、あの小さかった男の子の面影は全く無かった。

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