第24話 刑事が本家にやってきた
逃げる。
とにかく逃げる。
秀一はテニスバックを担いで、雑木林の中を走った。
コートが見えてくる。
ボールを打つ音も聞こえた。
秀一の足音を聞きつけたのか、フェンスの向こうでベンチに座っていた人物がこちらを振り返った。笑って手を振ってくる。
「涼音ぇぇっ!」
思わず、情けない声になっていた。
フェンスの出入り口まで走り、
「……秀ちゃん、どうしたの?」と涼音は心配そうな顔。
秀一は息を切らしながら中に入り、ベンチに座った。
涼音はバックからペットボトルを取り出す。「……誰かに追いかけられたの?」と、秀一にそれを手渡しながら辺りを怖々見まわした。
微かにオレンジの味がする紅茶をゴクゴク飲んで、秀一はやっと落ち着けた。
今来た道を振り返る。
『あの女』はいなかった。
「それで足りる? 冷たいの買ってこようか?」と涼音はバックから猫の模様が入った財布を取り出した。
「大丈夫。ありがとう」と、秀一はまたペットボトルに口をつける。
目の前のテニスコートでは
「武尊、押されてるね」
「そうなの」と涼音が声をひそめた。「前のゲームも取られてるの」
コートを挟んだ向こうのベンチには野球帽を被った女がいた。女はサングラスに大きなマスク姿。日傘まで差している。
女がこちらに向かい、深く頭を下げてきた。
秀一も女に向かって会釈する。
「あの人、誰?」と秀一は涼音にきいた。
「
「わざわざこの大会に来たの?」
今日は地元民だけの小さな大会だ。
告知もしていないし、他所から力試しに参加するような大会ではない。
「さあ……最近移住してくる人、増えてきたし、下見かな?」
武尊の対戦相手がサービスエースを決めた。
「やった!
武尊は昔から運動神経はかなり良い。
子供の時は秀一と一緒に岩田のテニス教室に通っていたが、武尊の方が圧倒的に上達が早かった。
マナーにうるさい岩田に嫌気がさして武尊はテニスをやめてしまったが、サッカーでも野球でも、年かさの子よりなんでもよく出来た。
その武尊が中学生相手に振り回されている。
(この子、すごい練習したんだ)
秀一は心底感心した。
グリップを厚く握り、トップスピンをかける打ち方。中学生にしては上出来だ。
みずほ町にいた時の秀一は、フラットとスライスしか打ち方を知らなかった。
東京に行き、初めて正語からスピン回転を教わった。
『テニスはボールに回転をかけて遊ぶスポーツだ』と、
東京のテニススクールではみんなラケットを厚く握っていた。構えもオープンスタンス。
秀一が岩田から習ったのとはだいぶ違った。
武尊の対戦相手は、サイドと後ろを短く刈り、トップを無造作に立たせた髪型をしている。
秀一はそこにも感心した。
(この子も、ハルみたいにマメに美容院に行ってるんだろうなあ)
秀一のダブルスのパートナー、ハルは常に自分の容姿を気にする男だった。
部室の姿見の前でフォームのチェックをしているのかと思えば、真剣な顔で髪を直しているし、厳しい合宿の間でさえ、毎朝髪をセットしてから練習に参加するのだ。
秀一はといえば、服にも髪型にも全く無頓着だった。
母親が生きている間、秀一の髪は母親が切っていた。
母親が亡くなり、秀一を引き取った
それ以来、だいたい伸ばし放題。邪魔な髪は後ろで結び、長くなりすぎたら自分で切ってきた。
『ハーフアップ、可愛いな』
と、ハルは頭を撫でたり、勝手に編み込みしてくるが、自分の髪型に名前がつくのかと、秀一は目が点になった。
「お母さんって、いいよね」と、涼音がぽつりと言った。
秀一はコートの中の中学生に注目していたが、涼音は息子の活躍を喜ぶ母親に注目していたようだ。
涼音は子供の時に両親が離婚している。その後、父親と一緒にみずほ町に引っ越して来た。
「お母さんと会う時あるの?」
「全然ない……どこにいるのかもわからないの」
「お父さんも知らないの?」
涼音は首を振った。
「……なんだか、きくのが悪くって……きいたことない……」
自分もそうだと、秀一は思った。
母親が亡くなってから、父と母の話をしたことがなかった。
父親が亡くなった妻を思い出して悲しむのではないかと考えただけで、涙が出そうになる。
急に、涼音が口に手を当ててクスリと笑った。
「お母さんの話、久しぶりに話した……秀ちゃんって、男の子っぽくないから、話しやすい」
(ん? オレは、ほめられてるんだよな?)
何にせよ、どこか寂しげな顔の涼音が笑ってくれるのは嬉しい。
「私ね、早く働きたいの。一人で生活できるようになりたい……一輝さんから借りたお金も、ちゃんと返すからね」
「……兄さんは、貸したと思ってなかったよ。涼音は頭がいいし、この町にずっといてもらいたいって、よく言ってた。涼音が大学出たら自分の仕事を手伝ってもらいたいって」
涼音は黙った。
うつむき、石のように固まっている。
「兄さんと涼音のお父さんがケンカしたらしいんだけど、なんでだか知ってる?……やっぱ、お金のこと?」
「……私が悪いの」と、涼音は静かに言った。「……県立落ちちゃって……私立に行くことになったから」と、小さくため息をつく。「お父さんに迷惑かけちゃって……申し訳ない……」
最後の言葉はあまりに小さくて、辛そうで。
涼音が泣き出すのではないかと、秀一は焦った。
何か言わなければと、頭がグルグルする。
「涼音、なんか言って!」
「えっ?」
「何か言ってあげたいけど、何も出てこないから、もっと、なんか言って! そのうちいい言葉が浮かぶかも!」
涼音は考え込むような顔をした。
「ええっと……」
その時突然、後ろの金網がガチャガチャなった。
秀一はびくりと、振り返った。また『あの女』かと……。
だがそこにいたのは、
「おい! 秀一! お前んち、大変だぞ!」と、金網を揺すりながら凛が言う。「本家に刑事が来てるぞ!」
秀一は驚いた。「泥棒が入ったの?」と立ち上がる。
「ばーか! 一輝さんのスマホの捜査に決まってんだろ。アタシはスマホの発見者だからな、ぜったい取り調べられるぞ!」
凛は嬉しそうな顔でまた大きく金網を揺すった。
「凛! 静かにしろ! 気が散るだろ!」
サーブを打とうとしていた武尊が、コートから怒鳴った。
「おまえ、負けてんのか! 中学生相手にだらしねえな!」と凛が怒鳴り返す。
「凛ちゃん、しっ!」と、涼音が慌てて口の前で人差し指を立てた。
怒った武尊がラケットを放り出して、凛をめがけて走ってくる。
ケラケラ笑って、猿のようなすばしっこさで逃げる凛。
武尊を止めようとする涼音。
試合放棄ですかと、クールに言う中学生。
秀一は、ボーッと小高い山を見上げた。
本家の白い塀が見える。
(……あそこに刑事さんが来てるのか)
すぐ近くの『西手』には正語がいるはずだ。
正語は警察官。
同業者同士、仲良くなったりするのだろうか。
(本家に来た刑事さん、正語と友達になってくれるかな……)
みずほに来ることを正語は面倒臭がっていた。もし正語に友達が出来たら、今日来てよかったと思ってくれるかもしれない。
秀一は呑気にそんなことを考えていた。
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