第18話 源氏名は雅
真理子の悲しげな左目を見ているだけで、胸が痛い。
正語は狼狽えた。つい、謝りそうになった。
その時——。
「真理ちゃん! どうしたの!」
素っ頓狂な声がした。
正語は声の主に顔を向ける。
ひまわり柄のエプロンを着けた大柄な中年女が立っていた。火のついたタバコを片手に、口をポカンと開けている。
「
真理子から雅と呼ばれた女は、携帯灰皿にタバコをしまいながら、真理子と正語を交互に見た。
「真理ちゃん、彼氏連れてきたの⁈ ヤダぁ、いい男じゃない!」
雅は正語と真理子の服装を見て勘違いしたのか、はしゃいだ声を上げた。
「この方は
真理子の説明に、雅は疑わしげな顔をする。
「うっそー! こんないい男が刑事なわけないじゃん! どっかのモデル事務所から智和さんがレンタルしたんじゃないの⁈」
正語は苦笑いを作って見せた。「警察庁におります。
「わあぉ、県警じゃないんだ。智和さん、いよいよ本気出してきたね。真理ちゃん、とにかく上がってもらおうよ。
雅に言われて真理子は「はい」と、屋敷に向かった。
「真理ちゃん、『
真理子は立ち止まり、振り返るとまた「わかりました」と生真面目にうなずく。
「どうぞお構いなく」と、正語は形だけ言った。
「コーヒーがいいや。いい豆あったよね」と雅。「それからさ、水谷さんに電話して、お造りつくってもらってよ。刑事さんがうちに来てるって言って、おマケしてもらおうよ」
「構わないで下さい! すぐに失礼します!」
(コーヒーに刺身とか組み合わせおかしいだろ! 刑事が来たからって、なんでまけてもらえるんだよ!)
正語は焦った。
この家に長居するつもりはない。
本家の話を聞いたらすぐ分家に行き、昼には公民館に戻って、早く秀一と合流したい。
真理子は雅にうなずくと、正語にも会釈して、足早に去っていった。
「本当に結構ですから!」と正語は真理子を追おうとした。が、雅に肘を掴まれた。
「あんた、よく来てくれたね」
低く言うと、雅は手を放した。新たなタバコを取り出す。「いいかい?」と断り、タバコに火をつけた。
「あたしはね、
高太郎にもそう言ったのに、真理ちゃんが畳に頭こすりつけて頼むもんだから、高太郎も何も言えなくなっちまったんだよ」
「どういうことですか?」
「まずは高太郎と真理ちゃんの言い分を聞いとくれ、それから現場を案内するよ」
「何の現場です?」
「何って、一輝さんの遺体が見つかった温室に決まってんだろ。
そこ行ってさ、一輝さんが亡くなった日に、あたしが見たもの聞いたもの、全部あんたに話すよ」
「……一輝さんは熱中症で亡くなったと伺っていますが、違うんですか?」
「それは、あたしの話を聞いた後で、あんたが判断して」
面倒な事になってきた、と正語は眉を寄せた。
この家は一輝の死に関して何か隠していることがあるのか……。
「……失礼ですが貴女は、鷲宮の家とはどういったご関係の方ですか?」
「あたしは住み込みで、
ホラ、この町のあっちこっちに銅像が建ってるだろ? あの鷲宮守親。この家の当主さ。二年前、あたしがここに来た時は、まだしっかりしてたんだよ。でも何だか、どんどん悪くなっちまって……去年、一輝さんが亡くなったのがよほどこたえたのか、今は寝たきりなんだよ。
あっ、それから雅ってのは本名じゃないんだ。あたし、ずっと介護の仕事してたんだけど、腰悪くしてさぁ、スナックで働きだしてね、雅ってのは、そこでの源氏名。本名より気に入ってるから、刑事さんも雅って、呼んでよ。
高太郎とはその店で知り合ったんだ。高太郎は一人でやってきて、暗そうに飲んでたんだけど、あたし達、最初っから気が合っちゃってね、あたしの身の上話したらさ、父親の調子が良くないから、看てくれないかって、高太郎が言ってきたんだよ。
私も酔っ払い相手の仕事は嫌でしょうがなかったから、ここに来れてホントよかったよ」
雅はそう言って笑い、美味そうにタバコの煙を吐いた。「暑くなってきたね」と首に巻いたタオルで汗を拭う。
正語はハッとなった。
いつの間にか夏の暑さが戻っていた。
周囲の竹も風を受けて揺れている。
一体、この庭に入った時に感じた違和感は何だったのか——。
正語は振り返り、ついさっき真理子から禁じられた『結界』を見た。
一メートル程の高さに積まれた石は、まだそこにあった。
「そろそろ中に入ろうか」
雅は汗を拭きながら屋敷に向かって歩き出した。ガニ股で大きく体を揺する歩き方だ。膝も悪いのか、ゆったりしたハーフパンツの裾からサポーターが見えた。
「雅さん」と正語は雅を呼び止めて、竹林の中の積まれた石を指した。
「あれ、結界ですか?」
「そうだよ結界だよ」と、雅は当然のように答える。
「あれに近づくと、どうなるんですか?」
「あんた、霊感あんの?」
「ありません」
「なら大丈夫。なんも起こんないよ。
あたしも何が起きんのか気になって、あの石、何個か転がしたことがあんだけどね、なんともなかったよ。
真理ちゃんにバレないようにすぐ元にもどしたけどね」
雅は、いたずらっ子のようにへへっと笑った。
「悪霊を閉じ込めているらしいよ。灰色の目をした人間に
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