第16話 オッドアイ

 公民館の建物に入る秀一しゅういちを見送った後、正語しょうごは車で鷲宮家の白塀を目指した。

 どうも気持ちが晴れない。

 この町に来ることは元々乗り気ではなかったが、今では一刻も早く東京に戻りたくなっていた。

  

(せめて、テニスコートまで、あいつを見送ればよかった……)


 車内に流れるピアノ曲はリストの『慰め』。

 この車は父親の正思しょうじから拝借している。正思がクラシックを聴くとは思えないから、母親の趣味だろう。

 山の斜面を運転しながら物思いに耽っていた正語は、脇道に気づかなかった。

 『西手はこっち』と、手書きで書かれた看板を見逃した。 


(……あいつの様子がおかしいのはわかっていたのに、どうしてもっと話を聞いてやれなかったんだ)


 以前はもっと簡単だった。

 母親を亡くした秀一が正語の家にやってきた時、空き部屋がなかったため、秀一は正語の部屋で寝起きすることになった。

 末っ子の正語にしてみれば可愛い弟ができたようなもので(実際秀一は素直で、この上なく愛らしかった)正語は喜んで世話をやいた。

 東京に来たばかりの秀一は、布団を被り声を殺してよく泣いていた。

 亡くなった母親を思い出すのか、故郷が恋しいのか……正語はそんな秀一を慰めた。腕枕してやりながら寝かしつけた。

 学校であったことや些細な日常の話も親身になって聞いてやった。

 勉強もみた。テニスの相手もした。

 ところが、それが一変する事が起きる。

 父親の酔狂のせいで、正語は自分はゲイだと両親に告白せざるを得なくなった。

 したり顔する父親の横で、母親の光子みつこは無言だった。

 何も言わなかったが光子はすぐ行動を起こした。まず、バイト代が貯まったら家を出ていくと公言していた次男に金を貸して家を出した。そして空いた部屋を秀一の個室にして、正語から引き離したのだ。

 正語は頭に血が上った。

 秀一によこしまな気持ちなど抱いたこともないのに、あんな子供に手を出す男だと母親から思われたのかと。

 ああも母親を憎んだことはなかった。

 ——だが結局、母の危惧は正解だった。

 正語は大学生の時に酒に酔って、秀一を押し倒したことがある。

 兄に殴られて事なきを得たが、あの時、秀一はまだ小学生。

 あのままいけば、自分はとんでもないクズ野郎に成り下がっていた。

 思い出すだけで壁に頭を打ち付けたくなる。

 あれ以、来酒は絶った。


(もう家を出るか)


 そうだ。会わなければいいのだ。

 そうすれば、時間が全てを解決してくれるだろう。

 だが……。

 家を出ることなど何度も考えた。その度に引き留めるものがある。

 今でも空になった助手席が辛くてたまらない。


 前方からピンクの軽自動車がやってきた。

 正思がいたら、『第一町民、発見!』と、はしゃぐところだろうが、今の正語には何の感動もない。対向車をやりすごそうと、車を左に寄せて停めた。

 軽自動車が通れるくらいのスペースを開けたつもりだったが、対向車は停まり、中から運転手が出てきた。

 若い女だった。身長は百六十センチほど、手足が長く均整の取れた体つきをしている。


 正語は窓を開けた。近づいてくる女の目を見た途端、呆然となる。

 女の右目は黒曜石のように黒々としているが、左目は青灰色——秀一の目と全く同じ色をしていた。


 女は正語に笑顔で会釈する。

「すみません。ここ私道なんです。迷われたんですか?」


「……『西手にして』に行きたいのですが、この先でしょうか……」


 言いながら正語は女の左目に釘付けになっていた。


「『西手』は、この坂の途中にある脇道を曲がるんですよ」と、女は正語が元来た道を指差す。


 だが、すぐその手を降ろすと、女は再び正語に顔を向けてきた。女の顔から笑みが消えている。 


「——もしかして、東京の刑事さんですか? 智和ともかずさんから呼ばれて来たんですか?」


 智和から呼ばれて東京から来たのは確かだ。刑事ではないが警察官だ。

 正語は曖昧に笑ってみせた。

 すると女は窓に手をかけてきた。顔つきが変わっている。


「刑事さん! 弟は何もしていないんです! 智和さんの言いがかりなんです! どうか先に私の話を聞いて下さい!」


 この女は何者かと、正語は眉を寄せた。


「失礼ですが、お名前を伺ってもよろしいですか?」

佐伯真理子さえきまりこと申します。鷲宮高太郎わしみやこうたろうの娘です」


(この女が、真理子か!)


 ——霊媒を生業としてきた鷲宮家で、現在生存するただ一人の霊能力者。亡くなった鷲宮一輝の結婚を破綻させた不倫相手——

 

 真理子は泣き出しそうな顔で訴えた。


「智和さんは弟のコータが一輝さんのスマホを盗んで、神社に置いたんだと言ってますが、コータは絶対にそんなことしません! どうか信じてください!」

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