第二章

第12話 みずほバイパス

 何かが髪に触れ、頬に触れた。


「……お母さん……」


 秀一しゅういちは、自分の声で目が覚めた。

 車の中だった。

 隣の運転席では従兄弟の正語しょうごが前を向いている。

 いつの間に眠ったのか、関越自動車道を走っていた車は湯川インターを降りて、一般道で信号待ちをしていた。

 車内には、聞き覚えのあるピアノ曲が小さくかかっている。

 これのせいで母が近くにいる気がしたのかと、秀一は身を起こしながら思った。

 寝起きのせいか、まだ頭がぼんやりしている。


「……この曲なんていうの? 母さんがよく弾いてた」

「ノクターンの十九番。これ書いた時、ショパンは十七歳だぞ、すごいよな」


 信号が青に変わり、車が動き出す。

 ふと視線を感じて、秀一はバックミラーを見上げた。

 髪の長い女がじっとこっちを見ている。


「なあ、次曲がって、この道を通った方が近くないか?」


 正語がナビを指しながらきいてきたが、それどころではない。

 秀一は急いで後部座席を見た。

 後ろには誰もいない。

 再びバックミラーを見たが、女の姿はなかった。


(……気のせいか)


 秀一はシートに身を預けた。

 まだ心臓がドキドキしている。


「どうした?」と、正語が横目でこっちを見てきた。


「その道はやめた方がいいよ。舗装されてないし、狭いから対向車とすれ違うの大変だよ」


 秀一は早口で言った。

 動揺を隠すように多弁になる。


「オレが子供の時はこの道がまだ出来てなくって、駅まで行くのにそっちの旧道を使ってたんだ。途中に母さんとよくアイスクリームを食べに行ったお店があったけど、そのお店もなくなっちゃった。今はハイキングに来た人しか通らないよ」


 車は脇道を曲がらず、そのまま『みずほバイパス』を進んだ。


 電車の通らないみずほ町にとって、幹線道路と直結するこの『みずほバイパス』は町民の悲願だったが、県内では税金の無駄遣いと評判が悪い。

 事実、インター付近にはショッピングモールやロードサイド型の飲食店が並んでいたが、みずほ町が近づくにつれて景色は閑散としていった。

 介護施設付きの老健病院の前を過ぎてからは、セルフのガソリンスタンドと閉店したコンビニがあるだけ。

 通る車も見当たらなかった。


「みずほの人は、地元の店しか使わないから、コンビニが出来ても利用しないんだよ。オレ、隣の湯川市のテニススクールとか、塾とか行かせてもらってたんだけど、母さんはその事で町の人から注意されたんだ。テニス教えてくれる人も勉強教えてくれる人もいるのに、なんで町の外に行くんだって言われたんだよ」


 秀一は再び視線を感じて、自分の足元に目を向けた。

 さっきの女がいた。

 じっとこっちを見ている。


(うわあっ‼︎)


 サッと足をシートにあげて、両腕で抱えた。固く目をつむる。


「具合悪いのか?」と正語。


 秀一は目を閉じたまま首を振った。


「……用が済んだら、早く東京に帰ろうよ……」

「俺だって、このままUターンして東京に戻りたいくらいだ。お前もテニスなんかやめて、にいちゃんのスマホの件、一緒に調べろよ」


(東京にいた時は何も見えないのに、みずほに来た途端、これだもんな……)


 死者が見える能力など厄介なだけだと、秀一は心底思う。

 秀一は去年亡くなった兄のことを考えた。

 町に入れば兄の霊が見えるのだろうか……。

 兄は何か言ってくるのか……。


 突然、肩に手が置かれて、秀一は飛び上がった。


(ひええっ!)


「車に酔ったのか?」


 心配そうにこっちを見てくる正語と目が合った。


「どっかで休んで行くか?」


——この頼もしい従兄弟に全てを相談できたらどんなにいいか。


 だが、秀一は正語から顔を背けた。


「……大丈夫。早く行こうよ」


 路肩に停まっていた車が静かに走り出す。

 足を抱えたまま秀一は、そっと、ため息をついた。

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