第3話 芭蕉の苦衷
藤堂良長が下座の芭蕉を無言で手まねきした。
「もそっと近う寄れ」というのであろう。
芭蕉が一揖の上、にじり寄るように膝を進めると、良長が声をひそめる。
「そちの門下に、河合惣五郎、すなわち
「御意にござりまする」
と、頭を下げつつ、芭蕉は曽良のいかにも温厚そうな顔を思い浮かべた。
曽良は諏訪出身で、伊勢長島藩の松平家に仕えた武士であったが、なぜか致仕して江戸に下り、四年前から芭蕉の弟子となっていた。
袂から春は出たり松葉銭
曽良の詠んだ句が、芭蕉の脳裏をよぎった。
悪くはないが、端正すぎて面白みに欠ける。
「その曽良について、何か聞き及んでおるか」
「と、申されますと……」
曽良は控えめかつ几帳面な性格で、自身のことを自ら語るような男ではなかった。ただ神道について幕府の学者吉川
芭蕉の怪訝そうな顔を見て、良長はかすかに唇を歪めた。
「実はその曽良なる人物、権現さまの六男、越後少将さまのご落胤よ」
曽良は徳川家康の六男で、のちに家康の不興を買い、勘当された松平忠輝の子であるというのだ。
おそらく忠輝が諏訪藩お預けの身となったとき、当地で曽良をもうけたのであろう。
「ほう。曽良が……左様でござりましたか」
内心、驚きつつも芭蕉は澄ました顔で応じた。
できれば西行法師のごとく、世間に背を向けて生き、飄々とした脱俗の境地に至りたいというのが芭蕉の理想であり、あまり世俗の塵にまみれたくないというのが本心であった。
しかしながら、代々、御所警備の「
人里離れた地で、隠遁生活を送り、徒然草を書いた吉田兼好も然りである。
それにひきかえ、無足人出身の、この自分はどうだ。
深川の貧しい草庵で、松島の月も見れぬ無念さをかこちながら、おのれの貧を嘆いているのだ。金がないと脱俗の境地にも至れぬのか。
芭蕉は心のうちで自嘲しながら、良長の次の言葉を待った。
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