第45話 師匠からの言葉
その後、試合当日、控室にて――。明が鞄から荷物を取り出していると、五十嵐が不意に話し掛けて来た。
「明、お前に渡したい物がある」
「何だよ、渡したい物って」
五十嵐の方を向いて言ったが、その言葉に応えたのは秋奈だった。
「明くん、はい」
「これって、五十嵐さんの――」
見ると秋奈が差し出したのは、五十嵐がいつも試合の時に履いていた金色のトランクスであった。
「ちゃんと洗ったんだろうな」気恥ずかしさを隠すため、態と訝しげな顔で確認する。
「はっはっは。愚問だ。しっかり秋奈に任せてある」五十嵐は自信満々にそう答えた。
「えっ!?渡されたから洗ってあるのかと思った」秋奈の声は少し裏返っていた。
「ってことはあの試合から洗ってねーのかよ。まあいいや。ありがたく貰っとくよ、五十嵐さん」明は五十嵐の方に向き直り、嬉しそうに笑みを浮かべてみせた。
「嘘よ、嘘。私にそんな手抜かりある訳ないじゃない。ちゃんと洗ったよ」
「そうか、そうだよな」
ちょっと得意げにそう言った秋奈に同調しながらも、珍しく苦笑いを浮かべた。汗とワセリンの匂いが浸み込んだトランクスには、秋奈によって名前の刺繍が施されていた。それからグローブを嵌め、テーピングで固めて『グロービング』した。秋奈と五十嵐が控室を出て行き、10分間、精神統一をした後、明は重要な事実に気付いた。
「トイレ、行ってなかった」
ボクシングのグローブはテーピングでガチガチに固めるため、一回グローブを嵌めたらトイレに行く時でも外すことはできない。不用意に動くこともできず、どちらかが戻って来るのを待っていると慎也が入って来た。
「何だよ、いいもん履いてんじゃん」茶化すような言い方だった。
「ありがとよ、今日は締まって行くぜ」
言いながら、タイトルマッチ直前だというのに妙に落ち着いて話せているなと思った。
「応援してるよ。初めて会った時からお前はやる奴だと思ってた」
「入学式のあの喧嘩から3年か。俺たちも大人になったもんだな」
「あれから本当にいろいろあったな。大輝が棟梁になって、俺もあいつんとこで働くようになって、後輩に教えるようにまでなってさ。皆本当に大人になって行くんだよな。お前だってそうだよな?今日は楽しませてくれよな」
こういう言葉は素直に力になる。慎也は昔を思い出し、しみじみとした様子だ。
「そうだな。そこでなんだけどちょっと頼みがあるんだ」
「ん?なんだ、頼みって?」“試合後ではダメなのか?”そう思った。
「緊張してトイレ行くの忘れてた。ちょっとついて来てくれないか」
「ついて来てって、一人で行けるだろ?幼稚園児じゃあるまいし」
子供のような頼みに、慎也は思わず吹き出しそうになった。
「それがその――グローブが外せない状況で――」
「そういうことか、しょうがねぇな。今回だけだぞ」
そういって引き受けてくれるのは偏に慎也の人柄が良いからだと言えるだろう。トイレに行き用を足すと、もう出番が迫っているようだ。秋奈と五十嵐に促され、一つ深呼吸をしてからリングへと向かう。
「皆に自慢させてくれよな。チャンピオンの友達だって」
「おう、今度こそやってやるぜ」
「勝って認められて来い。退学したあの日、お前を笑った奴らを見返してやれ」
強敵に立ち向かう親友を鼓舞する慎也の表情は、先程までとは打って変わって真剣そのものといった様子だ。がっしりと腕を酌み交わした後、明たちはリングに向かって歩き始めた。
これから激闘が繰り広げられる檜舞台に、一筋の光が差し込もうととしている。我が身を擲ってまで明を守ろうとした五十嵐。それに応えようと今日まで血の滲むような努力を続けてきた明。その決戦の火蓋が、ほんの数分経てば切って落とされるのだ。
ロビンソンの完全無欠の全勝伝説にピリオドを打つことができるのか?明も五十嵐もこの日を心待ちにして来た。ゆっくりとした足取りで明と共にリングサイドへと入場した五十嵐が、少々緊張した面持ちで明を鼓舞する。
「チャンピオンは一人。その陰で歴史に埋もれて行った不遇の才覚があったことだろう。だが、お前は違う。今までやって来たこと、乗り越えて来た相手、支えとなる者を思い出せ。お前は一人ではない、俺たちを信じろ。ロビンソンを倒し――この俺を超えてみせろ!!」明はこの言葉に身震いした。
「ありがとう五十嵐さん。こんな俺だけど、今まで面倒見てもらったお陰で今があるんだ。こんな大舞台に立ててること自体が凄いことだよな。敵、討って来るよ」
戦へと向かう明の後ろ姿には、出会った頃のあどけなさは微塵も感じられなかった。
赤居 明が今、名伯楽と共にマイク・レイ・ロビンソンと相見える。
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