第44話 決戦に向けて
次の日、起きてから明はロードワークのためにいつものコースへと向かおうとした。
「ねえ、まだ時間あるんでしょ。その前にどっか寄ってかない?」
「そうだな。インベーダーゲームでもやりに行くか」
どこかまだ話したそうにしている秋奈に対し、明は照れ隠しに少し笑ってみせた。それからというもの、時間を見つけては、秋奈の家に遊びに行くようになった。減量は苦しかったが、後なって思えば一番楽しかった時期なのかもしれない。
そして、計量10日前まで、いつもよりかなり多く走り込み、大幅に食事を減らし、干し椎茸を噛んで唾液を吐き出し続けた。しかし、目の下が窪んで頬骨が浮き出て来ても、あと1キロがどうしても落とせなかった。
「腹、減ったなあ。牛丼が食いてえなあ。天丼もいいなあ。親子丼も最近食べてなかったなあ。かつ丼なんか食えたら最高だろうなあ。米――食いてえなぁ」
走っていても浮かんで来るのは食べ物のことばかり。宿敵ロビンソンを倒す前に、まず自分との闘いに勝たなくてはならない。それから3日経ち、4日経ち、一週間経っても、その1キロは落ちなかった。
「みず――みずがのみてぇ」
力なくそう言って、計量を試みてはみたものの、無情にも体重計は表情を変えない。その日はまだ夕方だったが、布団に潜り、必死で眠りに就こうとする。寝てしまいさえすれば、この渇きからも逃れられる。
「どこだ?どこからか――みずのしたたるおとがする」
家中の蛇口を見るが、数日前に紐でガチガチに縛っていて水滴など出よう筈もない。
「げんちょう――なのか?」
『ドライアウト』
減量で水を断ち、極限に達すると感覚が研ぎ澄まされる現象である。減量のピークであり、食べ物の幻覚が見えそうなほどである。昨日まで食べていた煮干し三匹でさえ、贅沢な食事に思えてくる。
「あぁ~。っああああああああ」
居間にあった椅子を蹴飛ばし、粉々に壊した後、その日は死んだように眠りに就いた。それからというもの、苛立ちをぶつけないために誰とも話さずに過ごした。
「――」計量の当日には、もう独り言を発する気力もなくなっていた。
1985年7月7日、運命の決戦。日曜日とあって、後楽園ホールは見事に満員であった。時は流れ続け、誰一人として、一時として止めることは叶わない。
「120ポンド――。2ポンド、オーバーです」
明は口を歪めながら、大きく深くため息をついた。それを見ても五十嵐は怒ることなく、冷静に言葉を掛けた。
「慌てることはない。サウナに入って体重を落とすんだ。よくあることさ。大丈夫、再軽量の時に規定のウェイトならいいんだ。それより今は、ロビンソンに勝つことだけを考えろ」
『よくあること』と軽く片付けられる事態でないことは明にも分かっていた。五十嵐に『あえて』甘い言葉を掛けさせてしまったことを、明は猛省した。試合前にサウナに入ることは当然体力を消耗し、戦況を不利にするものである。
再軽量は二時間後。それまでに、命を賭してでも、2ポンド削ぎ落とさないといけない。近所の風呂屋に移動し、椎茸を噛み締めながら身体を蒸される。
干し椎茸を噛んでの減量も200グラムが限界だ。付き添いで来た五十嵐も、当然のように入室した。1分、2分、3分、4分、5分――。そして、明はサウナの業火に焼かれ、いつしか気を失ってしまっていた。危険だと分かっていた。
だが、五十嵐は汗が全く出なくなった明をそれから『2分だけ』サウナに入れ続けた。下半身から水分が出きった後、火事場で子供を連れ出すように明を抱え、サウナを後にした。そして再軽量10分前、五十嵐にそっと起こされてから、明は全身の毛を剃った。
「117ポンド4分の3。計量OKです」
辛うじてパスできたものの、当日計量であるため、身体への負担は相当なものと言えるであろう。計量については、1994年3月までは試合当日の午前10時に計量を行っていたが、その年の4月1日から前日軽量で試合を行うこととなった。
それは当日計量だと、選手の身体に負担が掛かり過ぎてしまうため、健康に配慮してのことである。それに加え、5リットル水を飲めば、5キロ体重が戻ると言われ、数時間で元のウェイトになることが問題視されていたりもする。
既に一試合終えたかのような明の身体は、ミイラのように痩せ細っていた。それから砂漠を抜けたように喉を潤し、野獣のように食事をし、2時間ほど睡眠を取った後、明はリングへと向かった。
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