第42話 秋奈との日々
白内障の手術後、明は思わぬ敵と闘うこととなった。視力が極端に落ちていたためロードワークにまともに行けておらず、試合が無かったこともあり、体重が144ポンド(約65kg)まで増加してしまっていた。
本来、身長168cm、体重117ポンド(約53.5kg)の明にとって、もともと減量は厳しいものであった。それに加えて成長と共に骨が太くなって来ており、骨格がバンタム級に留まることを許さなくなりつつあった。
1985年6月8日。走り込みを続ける毎日に、少々嫌気が差して来た頃、秋奈から思わぬ誘いがあった。
「3月に高校を卒業してから、一人暮らし始めたんだ。良かったらウチに遊びに来ない?」
秋奈はこの春から看護の専門学校に通い出し、五反田に移り住んでいた。明が練習している浅草の町からは電車で13駅ほど離れた場所にある。
「いいのかよ、若い男なんか連れ込んで。親父さんに怒られるぜ」
冗談と本気の半々。そんな思いだった。
「いいのいいの。あんまり走ってばっかじゃ退屈でしょ。たまには羽を伸ばさないと」
秋奈はそんな思いなど気にも留めていない様子だった。電車を乗り継ぎ、五反田へ着いてから5分ほど歩くと、小洒落た感じのアパートへと案内された。
2階までの高さで木造、鉄筋両方ある『アパート』に対し、階数制限がなく鉄筋のみの構造になっている『マンション』が増えては来ていたものの、バブル突入以前である昭和の中頃においては、若者のアパート暮らしも珍しくはなかった。204と書かれたプレートをしげしげと見つめた後、秋奈に促されるままに部屋へと入り込んだ。
「おっ、すげえな。テレビあんじゃん」
「ふふ~ん、いいでしょう。おばあちゃん家で新しいやつ買ったから使わなくなったのを貰ったんだ」そう言うと秋奈は、慣れた感じでテレビのスイッチを入れる。
世界初のテレビ放送は1936年にイギリスで放送され、その後アメリカではニューヨークでWNBCが1954年にカラーで放送を開始し、日本では1960年に開始された。当時は画面右下にカラーの文字が表示され、モノクロテレビで見ているとそれがもの寂しい感じがしていた。だが、1964年の東京オリンピックを契機として普及し、1968年4月からNHKがラジオ契約を廃止して、カラー契約を創設したことから、1973年には白黒テレビの普及率を上回った。
また、昭和の時代にはゴールデンタイムにプロレスが放送されているということが当たり前であった。午後7時台に中継が行われており、多くのスター選手が熱戦を繰り広げる様は、活気ある時代を象徴していた。
「お茶でも飲む?」明はそう言われ、軽く返事をすると辺りを見渡してみる。
“そういえば女の子の部屋になんて入ったことは無かったな”そう思い、ピンクを基調とした内装を見ながら、音を立てないように気を付けて生唾を飲む。
「さっきから全然喋んないじゃん。もしかして、緊張してんの?」
「そんなんじゃねえよ。ただ、なんだか色のキツい部屋だなと思ってさ」
「色の濃さとか、ちゃんと分かるんだよね?あれから見え辛くて大変だと思うけど」
「ああ、ただちょっと遠くが見えにくいかもしんねえな」
手術が終わってからというもの、秋奈は術後の経過を常に気にしてくれていた。
2010年代ともなれば、遠近両用の多焦点レンズを用いることもあるが、1980年代後半には単焦点レンズを用いることしかできなかった。これは被写体の像を急速に拡大、縮小することはできず、『ピントの調節』ができない代物であった。
「そうなんだ。このまま老後まで大丈夫だといいんだけど」
眼内レンズの耐久性は40年から50年と言われている。元々の水晶体の寿命が80年ほどなので、その約半分の耐久性だと言える。人間の技術の粋を結集させたものよりも長く持つとは、人体とは本当に不思議で、良く出来ているものである。
「おうよ。手術代、五十嵐さんから借りちまってるからな。次の試合のファイトマネーで返さないと――」
2010年代において1割負担の場合両目で『4万円』、3割負担の場合『10万円ほど』で手術できる白内障も1980年代後半には『30~50万円ほど』費用がかかるものであった。これは、1992年4月まで保険適用外であったことも影響している。
「でも、なんで白内障になっちゃったんだろうね」秋奈は不思議そうに首を傾げる。
「医者が言うには目を激しくぶつけるようなこととか、ぶどう膜炎になった時に発症するんだと。後は遺伝かな」
「そっかぁ。『どうしたら防げてたんだろう』って考えちゃうんだよね。手術してからじゃ遅いかもしれないけど」
「まあ、過ぎちまったことはしょうがねえよ。良くなかったことと言えば、抜糸がおっかなかったことくらいかな。それ以外は全然問題なかったぜ」
「そうだよね。悩んでばっかじゃ先に進めないもんね。その方が良いのかも」
秋奈はこれを聞いて『深く考えない』ということも、時には必要なことだと思った。四方山話にしては少々難しい内容だが、今の彼らにはタイムリーで興味深い話であった。
因みに白内障を予防するには『カロテノイド』と呼ばれる天然色素の中の『ルテイン』という抗酸化物質が有効である。この物質は主にほうれん草やブロッコリーに多く含まれているもので、ハーバード大学医学部のジェドン博士が行った研究によると、ルテインの摂取量が最も高い人と低い人を比べると、白内障による摘出リスクが20%も違うことが確認されている。
「粗茶ですが」そう言って秋奈は氷を2つほど入れながら麦茶を差し出す。
「ああ、ありがとう。それにしても面白そうなモンがいっぱいあんだな。この猿なかなか可愛いじゃねえか」明は手に取った人形をまじまじと見つめている。
「ああそれ。いいでしょ~。『モンチッチ』って言うの」
私のという意味の『モン』と小さくて可愛いものという意味の『プチ』を合わせた言葉に名を由来するこの人形は、その赤ん坊のような風貌から女性と子供に大人気であった。
「こっちのは何て言うんだ?」
「それは『キャベツ人形』。ついでにこっちのは『こえだちゃん』と『みきちゃん』って言うんだよ」
アメリカ発祥のキャベツ畑から子供が生まれるということをモチーフにした人形と、木の形をした家のテッペンを押すと、葉っぱの屋根が開いて部屋が出現し、横に付いているダイヤルを回すとエレベーターが上下するというおもちゃは昭和末期の流行りものであった。
「男には分かんねえ物だな。おっ、『ドンジャラ』じゃねえか。こっちは『モーラー』だな。これなら俺でも知ってるぜ」
これらは牌に漫画やアニメのキャラクターをあしらった、ドラえもんが書かれているものが有名な麻雀と、テグスを引っ張ると生き物のように動かせるという細長いモールであった。
秋奈の部屋には他にも、本体に一つだけある大きなボタンを押すといつでもどこでも延々と笑い声が再生され、夜中に間違って踏むと非常に不気味であるという『笑い袋』。
ボールをぶつけ合う音から、カチカチボールとも呼ばれ、女の子に見せられないギャグにも使える『アメリカン・クラッカー』があった。
「明くんはどんなおもちゃ持ってるの?」
「俺か。自慢できるようなものはないけど、『ゲイラカイト』とか、『ローラースルーGOGO』とかかな」
「他には?もっと聞きたい!」秋奈は相変わらずテンションが高めだ。
「まあ、いろいろあるんだけど、ガキの頃によく遊んだのは『トミカ』とか『チョロQ』とかかな。どっちもそんなに一杯ある訳じゃないんなんだけどな。あとは『キン消し』とか『タマゴラス』だな。それならいっぱい持ってるぜ」
「男の子って皆キン消し持ってるよね。ほんと闘うの好きなんだから」
「それが雄の本能ってもんよ。それより、これだけあったら結構遊べるよな。欲しい物とかあんのかよ」明は今、思いついたかのように聞いてみた。
「欲しい物か~。先月の13日に発売されたゲームなんだけど『スーパーマリオブラザーズ』って言って、めちゃくちゃ流行ってるんだって。それをやってみたいかも。明くんは?」
「へえ~そんなゲームがあるのか。知らなかった。秋奈は情報通なんだな。俺は『ゲーム&ウォッチ』かな」
これは携帯ゲーム機の草分け的存在であり、国内で1287万個売り上げ、社会現象にもなったものである。この商品は当時の男子の憧れでもあった。
「最近、いろんなものが出て来て凄いよね。1981年に窓際のトットちゃんがベストセラーになって、82年に笑っていいともが始まって、83年に東京ディズニーランドが開園になって、84年にドラゴンボールが連載開始して」
「そうだな。俺は特に『俺たちひょうきん族』が好きで毎週見てるよ。日本はずっとこの調子で行くんだろうよ。『まさか』景気が悪くなるなんてことはないだろうし、ずっと上り調子のままなんだろうな」
この年、1985年より少し後、日本経済はかつてないほどの好調となる。
『バブル景気』と呼ばれ、プラザ合意によるドル高の是正に対し、日銀から銀行への貸し出し金利である『公定歩合』を5%から2.5%まで段階的に引き下げたことで起こった1986年12月から1991年2月まで51ヶ月間続いた好景気。
1000万円の土地を担保に2000万円を借り、その金で新たに土地を買うという、『土地転がし』が流行したりもした。その真っ只中で、国民の誰もがその好景気の継続を信じて疑わなかった。
『いざなぎ景気』と呼ばれ、政府が補正予算で戦後初となる建設国債を発行したことで建設需要が拡大し1965年11月から1970年7月まで57ヶ月間続いた好景気や、『いざなみ景気』と呼ばれ、北米の好調な需要により、輸出関連産業を中心に多くの企業が過去最高の売上高と利益を記録した2002年2月から2008年2月までの73ヶ月間続いた好景気などあったものの、この『バブル景気』は、間違いなく戦後最大の好景気であったと言える。その後サラリーマンの平均給与がおよそ半分になり、長きに渡って不景気が訪れることなど、思いもよらぬことなのであろう。
土地転がしで多額の利益を享受し、一万円札を振って見せないとタクシーは止まらない。ディスコで踊り狂い、ご飯を奢ってもらうだけの『メッシーくん』や、車で送ってもらうだけの『アッシーくん』なんて酷い呼び名を付けたりもした。そんな『バカみたい』な時代が昭和の終わりに確かに存在していた。まだ社会が暖かかった頃の、一夜の幻のような時であった。
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