第36話 古波蔵の実力
1985年3月10日の日曜日。会場となる横浜アリーナはタイトルマッチ並みの入りであり、チケットが完売するほどの大盛況であった。そして、今回の試合は古波蔵から『ノンタイトルマッチで良いので勝負したい』との申し出を受けて実現した。
1年半前にボクシングを始めた明が五十嵐に次ぐほどのキャリアを持つ古波蔵を倒すことになれば『大番狂わせ』と言えるであろう。観客はそんな大一番を心待ちにしていた。
身長165cm、体重117ポンド(53.5kg)、31戦29勝2敗9KO、沖縄出身
『古豪』古波蔵 政彦。いざ、相見えん。
『カンッ』
ゴングが鳴って第1ラウンドが開始され、両者リング中央に歩み寄る。初手は古波蔵。老兵とは思えぬそのジャブは、明の頬を今にも貫かんとする勢いだ。
彼の二つ名は『オウギワシ』。両腕を大きく広げ、相手に身体を大きく見せるファイテングポーズを模してそう呼ばれるようになった。鷲は猛禽類と呼ばれ、肉食で獰猛。時には自分の仲間さえその胃袋に収めてしまう程の凶暴性を備えているのだ。
銀色のトランクスに描かれたオリジナルのロゴが、やけに煌びやかに見えている。大きなオウギワシが捕らえた獲物を啄んでいる様は、まさにこれから起ころうとしていることを暗示するものなのであろうか。
明は距離をとってのサークリング、ボルトで締め付けたみたいに位置を固定する。古波蔵は足が軽く、鳥が飛ぶような軽やかさだ。サウスポーの古波蔵は右のジャブを巧みに操り、効果的にストレートを当ててくる。一つ貰っただけでも、軽く意識を寸断されそうになる。これがベテランの味と言うべきか。歴戦の、修練の重みである。乗り越えた修羅場の数だけ強くなった漢(おとこ)の『気迫のストレート』と言えよう。
第1ラウンド終了後、古波蔵は礼儀正しく拳を突き出して来た。以前の明なら突っぱねていたかもしれないが、今の彼は一味違う。ゆっくりと左拳を差し出すと、古波蔵の左手に静かに触れて見せた。
こんな緊迫した状況であっても、右利きの自分に気を遣い、利き手を差し出す古波蔵のスポーツマンシップに、明は素直に感心せざるを得なかった。正々堂々、なんとクリーンで紳士的なボクシングをしていることであろうか。
それから、互いに手の内を探り合った第2ラウンドを挟み、激しくせめぎ合う第3ラウンドが開始された。牽制に次ぐ牽制。先に痺れを切らしたのは古波蔵であった。
渾身の一撃、彼の必殺技である『ストマック・ブレイク・ジョルト』が炸裂する。『ジョルト』は後ろ足に重心を置き、身体ごと叩きつける大型のブローである。
業火で焼かれたような一撃は明の左腕を確実に蝕んで行く。
『クロスアームガード』
教わった通りのお手本とも言うべき綺麗なフォームで当然のようにこれを受け止めた。古波蔵はその洗練された『必殺技』を『ストマック』つまり胃に向けて打って来る。
一撃必殺と評されることも多いこの技は、数々の難敵をマットに沈めて来た。『修行』を終えた明でなければ、一溜まりもなかったことであろう。
意識と身体、その両方が超人的な速さで反応した。合宿で恐らく数百回はやったであろうこの動作。すかさず相手の『必殺技』に対する反撃の『スマッシュ』。構え際、古波蔵の眉が少し上がる。
“来る“
本能が、経験による勘が、己の危機を予感させる。放たれた瞬間、味わい慣れた電撃が両の腕を駆け巡る。明、五十嵐と同じく、古波蔵も『クロスアームガード』の使い手である。もし、五十嵐との対戦経験がなければ、今の一撃を果たして受け止められていたであろうか。
“いくら師匠が強いからと言って、この若造、少々出来が良過ぎやしないか”警戒しつつ、それでも体重を十分に乗せたカウンターを放ちながら、古波蔵は密かにそう考えていた。
強烈なボディブローでその身が砕けてしまいそうである。しかし明は退かない。ピンチの時こそ前に出る。それが一つのセオリーであると理解しているからだ。古波蔵ほどのキャリアのあるボクサーなら隙を見せれば一気にリズムに乗って畳み掛けて来る。
『勝負所』を分かっているボクサーほど調子付かせると怖いものなのである。上から巻くようにしたストレートを、古波蔵の左頬に突き刺し、明は第3ラウンドを良い形で締め括ることができた。
「それにしても凄いオーラだな。気を抜くと圧倒されそうになっちまうぜ」
「強い選手ってのは『華』があるもんなのさ。切れ味の良くない刃に、別の刃を付け加える『付け焼き刃』ではどうにもならない。真の実力が『迫力』となって表れるんだ」
五十嵐の持論にはいつでも重みがある。
「前は古波蔵さんの強さがピンと来てなかったんだが、今は恐ろしく強いことが分かっちまう。あの強さでチャンピオンになったことがないなんて信じられないぜ」
「それは自分が強くなったからさ。相手の強さが分かるのも強さのうちだからな」
明のその言葉には一切の嘘や謙遜はなく古波蔵に対する素直な尊敬の念が感じられ、五十嵐は成長した明の言葉を、一言一言噛み締めるように聞いていた。
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