第37話 必殺の炎

それから、どちらも優位に立つことなく第4ラウンドを終え、闘いは第5ラウンドに突入した。古波蔵は一旦、拳を寸止めし、その後同じ腕でストレートを打つという技を使い始めた。この男、話せば天然と取られることもあるが、実に頭の切れるボクサーである。互いに立ち位置を調節しつつ、相手の出方を伺っている。


 そして、明が虚を突いて『スマッシュ』を放つ。古波蔵は咄嗟にガードしたが、守り切れなかった左脇腹に衝撃が鋭く突き刺さった。そして右へ少し蹌踉めいて体制を立て直したが、右膝をついてしまった。審判がカウントを開始する。


 明らかに『技が終わった後のスリップ』であったが、これに対し、古波蔵は文句の一つも言わない。どんな審判、どんな裁定であろうと、勝つのが真の『強者』古波蔵にはそう考えられるだけの『器』があった。


 カウント8までに悠然と立ち上がった後、緩徐にファイティングポーズをとる。それから、古波蔵のジャブの応酬。そのうち一発を受けた時に、明は微かな『違和感』を覚えることとなった。距離を計り、フックを当てようとするが、どうも微妙にズレが生じてしまう。


その間隙を縫って、古波蔵は鋭く拳を当ててくる。身体が傾き、左側へ倒れ掛かってしまう。パンチによる転倒ではないため、これはスリップと看做された。古波蔵によって効果的に計算された第5ラウンドは、劣勢のまま終わりを告げた。


「なんだか足元がフラつくんだ」明はコーナーへ戻ると、直ぐに不調を訴えた。

「耳の裏、アンダー・ジ・イヤーさ。味な真似をするもんだな。ここを叩かれると三半規管がマヒして平衡感覚が狂うんだ。15年もボクシングをやっている古狸だからこその悪知恵だな。ジャブに気を付けながら、縦にした右手で耳への攻撃を防ぐようにしろ。できるなら、そのままカウンターをくれてやってもいい」五十嵐は冷静に解説を加える。


「そうだったのか。それならできそうだぜ。ありがとよ、五十嵐さん」

 安心したのか、ふーっと肩を下ろしながら明は答えた。

「恐らく古波蔵の技のパターンを一番良く知っているのは、この俺だろうからな。さあ、もうすぐゴングだ。存分に暴れて来い」そう言うと五十嵐は一つ頷いて見せた。



 それから危なげなく第6ラウンドを終え、余裕を持って第7ラウンドを熟し、第8ラウンドを迎えた。古波蔵はどこまでも諦めない、不屈の闘志を持ったボクサーだ。それは誰もが認めるところである。


しかし、対する明も根性では負けないという自負があり、それは皆にも賛同を得ていた。ラウンド開始から、互いに足を使ってのアウトボクシングで遠巻きに機会を伺っている両者。古波蔵の攻撃には鬼気迫るものがある。まるで明日のことなど考えていないかのようだ。それでも手数は古波蔵が上だが、打撃の質は明が勝っている。


“このままでは劣勢を強いられる”古波蔵はそう考えていた。そして攻撃の最中、古波蔵が急に体制を変え、『ジョルト』を放って来た。


だが、それはフェイントで、『クロスアームガード』をした明の左テンプルに、古波蔵の鋭い右フックが突き刺さった。一瞬にして意識が寸断され、うつ伏せに倒れてからのカウント7。明は辛うじて意識を取り戻し、両腕で地面を押して、カウントを1つ残してギリギリではあったが立ち上がることができた。タイミング良くゴングが鳴り、辛うじて救われる形となった。


「今のは本当に危なかったな。よく立てたものだ。気を抜いていた訳ではないだろうが、古波蔵は絶妙にフェイントを織り交ぜてくる選手だ。特に左手でのフェイントが多く、反射的に反応してしまう速さがある。次からも気を付けるんだぞ」


「おう。合宿を乗り越えて前よりもタフになった気がするんだ。だから立てたんだと思う。フェイントに対しては『ジョルト』で終わらずに次の攻撃が来ると思っとくよ」


「そうだ、それでいい。奴に関しては、いくら警戒しても、警戒し過ぎるということはないからな」

そう言うと五十嵐は明に向かって少し大袈裟に頷いて見せた。

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