第13話 秋奈の過去
ローラースケート場から少し離れたところに自販機があり、百円玉を入れてボタンを押すと20円のお釣りが出て来た。
「そういえば明くん、さっきから目を細めてる時あるけど、視力悪くなってない?ボクサーは裸眼でないとファイトできないんだし、気を付けた方がいいよ」
「いや、俺は両目とも1.5あるからバッチリだぜ。ただ、ガキの頃から偶に見え辛い時があるんだよな」
「そうなんだぁ。まぁなんともないなら良いんだけど」
「それよりよ。普通に滑るのも飽きて来ちまったよな。なんかこう面白いことってないかな」
「それなら競争しようよ」
「しようよって、どう見ても勝てっこないだろ」
「当ったり前でしょ。100メートル走を80メートルのハンデ付きで勝負するの。勝ったらラーメン奢ってね」
「なんだよそれ。でもそれくらいハンデないと面白くねぇかもな。いいぜ。ちょうど腹減ってたし、タダでラーメン食わしてもらうとするか」
スタートとゴールを決め、二人ともスタート位置に着く。
「じゃぁ行くよ~。位置についてぇ、よ~い、ドォン」
秋奈は前を向いたままこのセリフを言ったので、明がわざと少しフライングしたことに気付いていない。とろとろと歩を進める秋奈を尻目に、明はまるで生まれた時からスケートを履いていたかのようにスムーズに滑っている。加速する明。ゴールに定めた柏の木に秋奈が触れようとした瞬間、後ろから加速して来た明がほんの数秒早く辿り着いた。
「余裕だな。俺っちの圧勝」明にこう言われ、秋奈は悔しそうに反論する。
「えぇ~っ。同時だったよ。同時同時。私ずっと手ぇ伸ばしてたもん」
秋奈は明を騙そうとしているのではなく、木にタッチしようとした瞬間、目を瞑っていたため、同時に触れたと思い込んでいる。
「明らかに俺が早かっただろ。完勝だったぜ」
「そんなことないもん」
秋奈が少し泣きそうになったので、明は不本意だったが引き下がることにした。
「まぁよく考えたら同時だったかもな。審判もいなかったことだし、今回は引き分けにしといてやるよ」
「もともと引き分けじゃん。まぁいいや。お腹空いたし、ラーメン食べに行こう」
秋奈が安心したように明るい表情を見せたので、明は大人の対応ができたことに対して嬉しく感じた。
ローラースケート場を離れ、近くの屋台で売っているラーメンを二人して注文した。
「そういえばこの前、五十嵐のおっさんに雷鳴軒っていうとこに連れて行かれてさ――」
明が話し終わる前に、秋奈は興奮した様子で話に割って入った。
「雷鳴軒!いいよねあそこ。豚骨スープが絶品でさ」
「゙えっ」
秋奈の思わぬ反応に明は素っ頓狂な声を上げる。
明は雷鳴軒が如何に『不味かった』かを秋奈に話そうとしていたが、この一言で言い難くくなってしまった。
「それで、雷鳴軒がどうしたの?」秋奈は興味ありげに明の話に耳を傾けている。
「いやぁ、なんていうか。食べたことのないような独特の味だったから、行ったことあんのかと思ってさ」明は“我ながら上手く言えた”と心の中で思った。
「あるよあるよ。子供の頃から何度も行ってる」
秋奈は見たことのないほど目を輝かせている。
「そうか、好きなんだなラーメン」
“将来こいつの作った飯を食うようになる奴は、きっと強い男に違いない”明は心底そう思った。
「そうそう、この前もお兄ちゃんと一緒に行ってさ。いいって言ってるのに、お金払ってくれて」秋奈は少し申し訳なさそうに言った。
「そう言えば、赤城の兄貴は何かスポーツやってたのか?世界チャンプの甥っ子なら運動神経も悪くはねえよな」少し間が空いて、秋奈は答え難そうに話し始める。
「お兄ちゃんね――ボクサーだったんだ」
鈍い明だが、秋奈の重い口調で口にしたのが明るい話題ではなかったことを理解した。
「今は引退してるんだな。どんな選手だったんだ?五十嵐さんにも見てもらってたんだよな?」
「将来を期待された本当に強い選手だったんだよ。でも心臓に欠陥が見つかって、どうしようもなく引退したんだ。あんなに泣いてるの見て私も辛かった」
当時を思い出したのだろう、秋奈の声色が少し変わっていた。
「そうか――でも赤城の性格ならそれでボクシングに関わるの辞めそうだけどな。続けることにしたのは偉いじゃん」
明は少しでも話を明るい方向に持って行こうと、秋奈の話をすることにした。
「そうそう!私も辞めようと思ったんだけど、五十嵐の叔父さんが辞めるなって。お前が辞めたらあいつはもっと辛くなるって」
初めて聞いた話だが、兄妹仲が良いことは容易に想像できた。
「おっさんは赤城がボクシングが好きなことをよく分かってくれてたんだろうな。それはきっと兄貴も同じだ。兄貴は何でも一人で背負っちまう人なのかもな」
その三者三様の気持ちが、過去に波乱を生んだのであろう。
「そうだよね。あの時は辛かったけど、今はボクシングに携わり続けて良かったと思ってる。お兄ちゃんもトラック運転手になってから会社の人と仲良くしてて、昔みたいに笑うようになったし」
その笑いが本心からのものなのか、明は多少の疑念を抱いていた。
「夢破れた先にも、人生はあるんだよな。偉いと思うよ。そういう時に命を投げちまうのは自分の人生に責任を持てない情けねぇ野郎だ。生きるってのは辛いもんだからな」
冷たい言い方だっただろうか。しかし、明の思いは杞憂であった。
「うん。私はお兄ちゃんが笑顔で居てくれたら、それでいいんだ。――なんかしんみりしちゃったね。もう十分休んだし、滑りに行こう」
秋奈は今日一番の笑顔を見せて、努めて明るく振る舞っていた。こういう雰囲気は嫌いではなかったが、せっかく秋奈と二人でいるのだから、場を暗くさせたくはない。スケートリンクに戻り、反時計回りに人込みを縫って滑って行く。
「どうでもいいけどよ、このリンク照り返しがキツいな」
「そう?私はそんなに気にならないけど」
「まあいいや。っていうか、赤城もだいぶ滑れるようになったみたいだし、真ん中の方に行ってみようぜ」
明はそう言うと、先導するようにゆっくりとリンク中央へ滑って行った。置いて行かれないように斜め後ろを滑った秋奈は、楽しそうに話しながら明の仕草を流し目で見ていた。
「悪い、気になるよな。ガキの頃にアトピーが酷い時期があってさ。もう治ったんだけど、首を掻くのが癖になっちまってるみたいなんだ」
明が意外なことを言ったので、秋奈は少し戸惑ってしまった。
「ううん、大丈夫。っていうか、よく分かったね。気付かれないように見てたつもりだったんだけど」秋奈は少し慌てて答えた。
「そうなのか?ボクサーだったら相手の細かい動きは察知できるから、横目で見てても普通に分かっちまうぜ」
秋奈の心配とは裏腹に、仕草だけを見ていた訳でないことは、悟られていないようであった。
「そっか~。明くんの前では隠し事はできないんだね」
含みのある言い方ではあったが、秋奈はこの時ばかりは、明が単純な男であったことに感謝した。その後、暫く滑って気が済んだのか、秋奈が「アイスが食べたい」と言い出し、リンク横にある売店でアイスを食べることにした。
「明くん食べないの?」
「俺は体重増やす訳にはいかねぇんだよ。っていうか、食いすぎじゃねぇか。太るぞ」
「ひど~い。ローラースケートして痩せるから大丈夫なんですぅ」
秋奈は嫌な気はしていないようだが、少しムッとして答えた。
「まあそれならいいけどよ。俺は紅茶でも飲んどくよ」
明は素っ気ない素振りだったが、感じ悪く聞こえないように配慮した言い方で話していた。
「日本で一番アイスが作られてるのって埼玉なんだって。五十嵐の叔父さんが自慢げに言ってたよ」秋奈は気まずくならないようにと、間を空けず話をした。
「へえ~そうなのか、知らなかった。そう言えば、アイスっていつ頃から売られてるんだろうな?」明も話を広げようと努めて早く返答した。
「う~ん。明治時代くらいじゃない?江戸時代にはもうあったのかな?」
秋奈もそのことについては、分からないといった様子である。
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