第11話 A級の弟

そして、この試合の結果を受けて、黙って居られない人物が居た。それは明の次の対戦相手である、皆藤兄弟の弟、遼(りょう)である。遼は現在日本ランキング1位で、絶対に兄の仇を討ちたいと言って来たのである。


因(ちな)みにボクシングではランキング1位の上にチャンピオンが居るという、珍しいシステムで強さが表されており、これはランカーとは別格でチャンピオンが強いとする『尊敬の念』が込められているからだと考えられる。


 この二人は年子で、兄が1年早くボクシングを始め、先にプロボクサーになっていた。

遼は先日の試合で、痺れる拳『雷鉄拳』を巧みに操る海老原三兄弟の長男一郎との試合で快勝し、日本ランキング4位となった西の新人王、桜山 拳一郎を下す快勝を見せた。


本来ならA級になりたてのボクサーにランキング1位の選手が試合を申し込むことなどそうはないが、断る理由などない、ただ勝利を掴むのみ。明も五十嵐もそう思っていた。休養もそこそこに、明は試合に向けてのトレーニングに余念がなかった。


 1984年2月12日、前日が建国記念日で、土曜日に半日だけ勤務する『半ドン』ではなかったこともあって、会場となった千葉県千葉市美浜区にある幕張(まくはり)メッセには大勢の人が詰めかけた。控室では、米原が明と最終確認を行っている。


「今日の相手は皆藤兄弟の弟、遼だ。兄同様、足を大股に開くスタイルで、タイの英雄、日本人キラーと言われた、ケンサクレッツに勝った選手だ。練習で対策した通り、コイツも『珍しいジャブ』を使う選手だ。上体を柔らかく使うことで相手のディフェンスを躱す技術である『スリッピング』が得意で豪腕を振るう『ハードパンチャー』タイプだ。一発がデカいから気を付けるんだぞ」


「大丈夫だって。五十嵐のおっさんとやるんならともかく、三下相手に負けやしないって」

この発言を、米原は良くは思わなかったようだ。


「ボクサーには気の強い『いじめるタイプ』と気の弱い『いじめられるタイプ』がいる。お前は明らかに前者だ。だが、それは必ずしも有利に働くというということではない。自らの気質を活かし、努力し続けることが大切だ。皆藤兄弟は決して格下なんかじゃないぞ」


明はこの言葉を受けて素直に考えを改めようと思った。

遼は兄と同じく北海道旭川市出身で身長167cm、体重118ポンド(約54kg)の22歳。右利きで、無口だが熱い闘志を秘めている。戦績は14勝2敗6KOである。


 相手との距離を測りながら、軽いフットワークを用いてヒット&アウェイで闘う『アウトボクサー』であり、ジャブとストレートのコンビネーション技である『ワンツー』が得意な選手でもある。緑色のトランクスを履いている弟、遼は、エリートの兄に対して苦労人で、『雑草魂』を信条としている。


レフェリーがルール説明の後、「『ナックルパート』に気を付けるように」と言ってからタイムキーパーに合図を送った。アマのボクシングは、拳を握った時に4本の指の手の甲に近い関節と、次の関節との間にできる四角の部分である『ナックルパート』が白くなっており、ここで打たないと反則となる。プロでは現状そのことが曖昧になっていると感じての注意であろう。


『カンっ』

ゴングが鳴ると明と遼は互いに詰め寄り、ジャブを打ちあう形となった。明の方が優勢とはいえ、前の試合とは違いハイレベルな打ち合いとなった。

“言ってた通り弟の方が強いな”明はそう思うと少しばかり嬉しい気持ちになった。

「気分が乗って来ると調子が上がるのが良いボクサーだ」


2日前の試合についてのミーティングの時に米原にそう言われたことを思い出しながら、明はリズム良くパンチを繰り出していた。


兄より体格が良く、力も強い遼の方が明としてはやりがいのある相手だった。明はストレートとアッパーも織り交ぜながら『とりあえず様子見』でこのラウンドを終えることにしようかと考えた。ふと観客席に目をやると五十嵐が少し不満そうに明を見ている。どうしたというのだろう。多少気にはなりながらも明は第1ラウンドを終えた。


「明くんいい感じじゃない!このままやっつけちゃってよ!」

試合を見に来た秋奈の言葉に「おう」とだけ返すと明は先程の五十嵐の様子が気になっているようであった。相手サイドに目をやると瀬古と遼が楽しそうに会話している。


「よう頑張っとるやないか。ペース配分なんかせんでええ。とにかく手数で勝ることを目指してみろ」

互いに無口なためか瀬古は遼に対しては適切なアドバイスができるようだ。


「分かりました。とにかくKOは避けて、判定で勝てるようにやってみます」

遼の方も瀬古の言うことを日頃からよく聞いているため、言いたいことがきちんと理解できているようであった。


ゴングが鳴り、第2ラウンドが開始されると、明はパンチをテンポよく打って来る遼に対し、それ以上の手数で応戦するようにした。

“パンチを外す気がしねえ”お互いにほとんどガードをせず、打ち合う格好になっているとはいえ、明のパンチをヒットさせる能力はプロになって格段に上がっていた。素人目には、これが6試合目とは思えないほどである。


対する遼は、今日まで日本タイトルを虎視眈々と狙って来た。ボクサーは一度負けを喫すれば、全ての努力が水の泡となってしまうことが多い。そうならないために今日まで死ぬ思いでやって来た遼にとって、この試合は『絶対に落とせない』試合であった。次の瞬間、明が少し気を抜いて、息を吹き出したのを遼は見逃さなかった。強烈な左ジャブが明の右頬に突き刺さった。


「くっ」

油断していた訳ではない。縦横無尽に、まるで燕のようにジャブが飛び回る『飛燕』が鋭く明を襲ったのである。振り回した左手が漆黒の暗闇のように明の視界を遮る。

“いよいよ出して来やがったな。そろそろやってやるか”明はそう思い、大きく右手に力を込めた。しかし遼は明の足を踏みそうになったため寸でのところで回避し、攻撃をして来なかった。


“まったく兄弟揃って見上げた根性だ”米原が密かにそう思ったのも束の間、第2ラウンド終了を告げるゴングが鳴り響いた。

「赤居、お前もしかして少し『手を抜いて』ないか?」

米原は遠慮がちに明に問いかける。


「試合を楽しんでんだよ。勝てる相手にそうムキになるこたぁねぇだろう」

「どんな相手だって負ける可能性はあるんだよ。ボクシングには一発で負けになるKOだってあるんだし、油断のある者は真の勝者にはなれないぞ」


明は昔からできた人間ではなかったため、人から説教されることが多かった。そのためこのように言われるとどうしても腹が立たずにはいられない。


「なんだよ。俺の試合を俺がどう闘おうと俺の勝手だろ。お前は黙ってろよ」

「何だその態度は。お前のために言ってるんだろ」


米原に思ったより強く言われ、明は少し大人げなかったかなと思い始める。

「分かった、悪かったよ。次のラウンドで決める。米原のおっさんには、今までずっとセコンドやってもらってるわけだしな」


明の意外な態度に米原は少し戸惑いながらも「分かればいいさ」とだけ言ってその場を収めた。


『ゴっ』

第3ラウンド開始を告げるゴングが鳴る筈だったが、係員が打ち損じたため鈍い音が鳴っただけだった。タイムキーパーは慌てたが、冷静にもう一度開始の合図が鳴ったのでホッとした。ジャブとストレートを使ってリズムを作っている遼に対し、明は竜驤虎視(りゅうじょうこし)と隙を伺っている。そして見せつける様に強烈な右ストレートをお見舞いした。


“今のはナックルパートかどうかギリギリだったな”明は冷静に試合を俯瞰できるほどに余裕を持っていた。

5、6、7明は楽しみに遼の様子を伺っている。まるで獲物を見据える獣のように。

カウント8、遼は立ち上がって虚勢を張ってみせるが、その瞳には明らかに生気がない。決定打を貰わないように、とにかく拳を振り回してみるが、まるで的を射ていない。一瞬、遼が手を休めた刹那、明の右手が大蛇のように撓り、遼の蟀谷を鋭く抉った。またしても目を見張る米原。


『決まった』

息を飲むような快心の一撃、明の『コーククリュー』が雷の如く遼のテンプルを打った。瀬古は先日と同じ選手に遼を別室で休ませるように伝え、明に賛辞を送る。


「見事だったよ。君はきっと大物になる」

「ああ、今にチャンピオンになってみせるよ」

そんな話をしていると、右後ろに居た五十嵐が明の顔前5センチほどのところに左フックを打ってみせた。


「うっ」

初めて見る五十嵐の『左手』での一撃に、明は身体を強張らせ微動だにできずにいた。

「てめぇ、不意打ちはねぇだろ。今の俺ならその気になりゃあ、てぇめえだって倒せるんだぞ」

悪態をつく明に、五十嵐は怒りを露わにする。


「今のは、天狗になった鼻をへし折るためにやったことだ。俺は実践で手を抜くようなことを教えたつもりはなかった筈だ。本当にチャンピオンになりたいなら、不意打ちでもカウンターを合わせるくらいでないとな」


「それを言うならてめぇ、俺と初めてスパーした時に、俺のアッパーを避けなかっただろう。俺はあの時『手を抜かれた』と感じたぞ」

「あれはお前の力量を測るためにやったことだ。公式の試合なら勿論避けたさ。全力を出さないような舐めたことをしていると、いつまで経っても世界レベルにはなれないぞ」


「なんだとてめえ。今すぐここでやってやってもいいんだぞ」

“まるで親子みたいだな”五十嵐の側で試合を観戦していた古波蔵は、そう思いながらもこの痴話喧嘩を止めることにした。


「まあまあ二人とも。それくらいにしときなさいよ」

「うるせえ。今の俺なら誰にだって負けやしねえんだ。それとも、この俺とやろうってのか?」


「僕は誰の挑戦でも受けるよ。ただし『闘う価値のある』相手ならね。そこにいる五十嵐くんより強くなったらいつでも挑戦してくれて構わないよ」

「てめぇも結局は俺を格下扱いか。上等だ。今から五十嵐とやりあってやろうじゃねぇか」


「まったく。しょうがない奴だな。俺は半年後に試合があると言ったろう。こんなところで怪我をする訳にはいかないんだ」

「逃げるってのか?チャンピオンは誰の挑戦でも受けるんじゃなかったのかよ」

これには五十嵐もムキになって返答した。


「分かった。ではこうしよう。半年以内に俺が認める『最強の刺客』とお前を対戦させる。そこで『勝ったら』俺の試合の後にお前と特別に対戦してやる」

「本当だな。約束だぞ。それから、そこのおっさんもだ」


「あいっ。いいですよ。五十嵐くんに勝つってことは世界で一番強いってことだからね」

そう言うと古波蔵は立ち去ってしまった。

「っていうか、あのおっさんは何者なんだよ。やけに親しげに話してたじゃねぇか」

五十嵐は不気味なまでに、不敵な笑みを浮かべている。


「古波蔵 政彦。奴ほど俺と因縁のある選手もおるまい」

空を見上げながらそう話す五十嵐は、どこか懐かしそうな表情を見せた。



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