第7話 決勝戦
1983年11月13日、先日プロテストを行った後楽園ホールにて、いよいよ新人王トーナメント決勝が行われる。控室では五十嵐が頻りに明に話し掛けている。
「拳は完全に握るな、少し開け。鞭を撓(しな)らせるようにして相手に叩きつけろ。それと、お前はどうも窮地に陥った時に真正面に構えてしまう癖があるようだ。これからは意識して斜(はす)に構えるようにして行け」
「なんだよ、急にアドバイスなんかし始めて。まるで俺が負けないように言ってくれてるみたいじゃねぇかよ。この俺がこんなところで躓く訳ねぇだろ」
五十嵐は不安を悟られまいと思っていたが、明が以外にも鋭かったので感心した。
「はっはっはっ。それはそうだが、勝負の世界に『絶対』はない。窮鼠(きゅうそ)猫(ねこ)を噛むと言うし、獅子(しし)は兎(うさぎ)を狩るのにでも全力を尽くす。最後まで気を抜くんじゃないぞ」
明は不本意だが、これも勝利のためと割り切って聞き入ることにした。そして、この試合の為にJBC日本チャンピオンである安威川(あいかわ) 泰毅(たいき)が、『暇潰(ひまつぶ)し』と称して訪れていた。
もちろんこんなことは異例だ。日本ランカーの試合でもないのに、チャンピオンが視察に来るなど多少仰々(ぎょうぎょう)しい話だ。その真意としては、五十嵐と古波蔵の愛弟子(まなでし)を見ておきたいとする意向があってのことであった。
当の明はと言うと、そんなことはどこ吹く風で涼しい顔でアップを始めている。それも今話題の狂犬、与那嶺(よなみね) 弘樹(ひろき)との試合を前にして。
対する与那嶺は、沖縄生まれ、東京都出身、光栄ジム所属で、試合になると驚くほどの闘志を見せる選手である。並外れた根性があり、クリーンファイターとしても有名だ。身長165cm、体重116ポンド、右利きで、一見穏やかそうだが、かなり好戦的である。戦績は4勝0敗0分4KOというKOファイターでもある。
しっかりとしたボクシング哲学を持っており、『ジャブなくしてストレートなし』という名言を言い放ち、周囲を驚かせた。
一方の明は、相変わらずの喧嘩っ早さと一撃必殺のアッパーが特徴だが、その威力はまだ完成とは言い難いと五十嵐から言われていた。人の言うことを話半分に聞く癖もあり、試合前に「相手はストレートを打つことが多いが、フックの方が強いから注意しろ」と言われたことも既に忘れかけている。試合開始まであと2分と迫った時に両者は審判から呼ばれた。
白のトランクスの与那嶺は、周囲を急かすように試合開始を今か今かと待ち詫びている。開戦を前に、会場は異様な緊張感に包まれていた。
『カンっ』
ゴングが鳴らされると、明は真っ直ぐに与那嶺の所に向かいジャブを放った。対する与那嶺はそれを受け、スピードのある速いパンチを繰り出して来る。手数が多く、低めのパンチを多用している。顔の下で拳を構え、右手を引いた『オーソドックススタイル』のようだ。時折揺れるその両腕は相手を鋭く狙うカマキリに似た構えだ。
テンポよく拳を突き出す与那嶺は前傾姿勢『クラウチングスタイル』をとって来た。彼は突進型の『ブルファイター』であるようだ。因みに『ブル』とは牡牛を『カウ』は牝牛を『カーフ』は仔牛を指す。牡と牝は『オトヒメ』と覚えると思い出し易い。
どうやら彼は接近戦に持ち込むことを得意とし、リーチの長さを活かすファイターでもあるようだ。長いリーチを存分に使い、怒涛のラッシュで明をマットに沈めようと試みる。
明はというと少し緊張しているのか、練習の時よりも手数が少ないように見える。だが、決して与那嶺に気押されているという訳ではなく、良い緊張感を持って試合に臨めている。明が猛攻を掻い潜り、右ストレートを繰り出すと、拳が頬を掠(かす)めた与那嶺が少し眼光を強めた。怒っている訳ではない。明の只ならぬ素質と気迫に、与那嶺自身が気を引き締める為に気合を入れ直したといったところであろう。
グッと拳に力を入れた後、得意の左フックを腰を入れて撃って来た。明はそれを頬に食らったがビクともしない。与那嶺は少し驚いたが、冷静さを欠くことなくファイトを続ける。混戦の中ゴングが鳴り、第1ラウンドは終了した。
「フックに気を付けろと言っただろ。お前まさか柄にもなく緊張しているんじゃないだろうな」
「楽しみにしてたからちょっとボーっとしちまっただけだ。あんな奴3秒でKOしてやるよ」
「誰だって4回戦選手、『グリーンボーイ』の時は緊張で身体が強張るものさ」
「大丈夫だって、俺には自分が負ける姿が想像できねえよ」
「自信家だな。それはボクサーとして良いことだが、過信は身を滅ぼすぞ。まぁ今日の相手なら、俺はお前が勝つと踏んでいるがな」
第2ラウンド開始のゴングが鳴ると、今度は与那嶺が勢いよく明に迫って来た。明はそれを素早く躱(かわ)すとボディーブローを一発お見舞いする。歯を食いしばる与那嶺。体勢を少し低くして守りを強化した後、両手での攻撃を緩める気配はない。4ラウンドだけとはいえ、体力には自信があるようだ。
明は負けじと応戦するが、一瞬鋭い痛みが襲って来る。思わず相手と距離を取る。右の拳を少し痛めたらしいが、それでもジャブは打ち続ける。撃つ度にチクりと痛みが走る。与那嶺が隙を見て大きく一発繰り出そうとした時、明はゴングに救われた。
「どうした、途中から動きが鈍って来たぞ、どこか痛めたのか?」
“鋭いな”明はこの時ばかりは感心した。
「そんな訳ねえだろ。俺はいつだって絶好調だ。黙って見ててくれれば、それでいいぜ」
「どの道少し痛めたくらいなら続行させるがな。今回はまたとない好機だ。良い相手と闘えるし、敬造が見込んだ程の実力のある男なら、新人戦くらい優勝してもらわないと困るからな」
「まぁあんたの期待に応えるならそうだろうな。新人戦なんて俺にとっては通過点にすぎねぇけどよ」
「どこまでも強気な奴だな。奴は『ステッピング』の中でも、『バックステップ』が得意で、後ろに下がりやすい傾向がある。そこに追い打ちを掛けて『アッパー』をお見舞いしてやれ」
明は「分かった、やってみるよ」とだけ言い、次のラウンドに備えた。
第3ラウンドのゴングが鳴ると、米原は左手で明の背中を押し出した。明は試合前に二つ米原と決め事をしていた。一つは手と足を止めないこと。もう一つは試合中に一回は必殺のアッパーを入れること。一つ目は今のところ達成できそうだが、アッパーに関してはガードの堅い与那嶺の手前、完全に攻めあぐねていた。
不意に与那嶺のフックが明の額(ひたい)を掠(かす)め、剃刀(かみそり)で切られたような痛みが走る。鮮血が吹き出し、試合は一旦中断された。ボクシングでは一度額に傷が入ると、攻撃を加えた方を減点するというシステムになっている。与那嶺は額の血を拭う明を見て唇を曲げ、不満を露(あら)わにした。
試合再開、明は先程のお返しとばかりに与那嶺の顔面に強烈な左フックをかます。与那嶺はその重たさに思わず身体を揺らしてしまう。これまでテンポ良く動いていた与那嶺に一瞬、僅(わず)かな隙ができた。明がその隙を見逃す筈がない。渾身の力を込め、握りしめた拳を振り上げる。明の手が与那嶺の顎を打ち抜いた瞬間、彼が白目を剥いたのを米原は見逃さなかった。
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