08【2品目】恋ふらくふるふわプディング 弐
空木先生へ
先生、ごめんなさい。辰次くんに、この帳面を見られてしまいました。
また、かくれんぼもしたことがないのか、と言われました。
悲しいことを言ってくる子のことがよくわかりません。
杏はそこで手を止めた。帳面を見られてはいけないと言われたわけでもないのに、ひどく悪いことをした気分になる。文字がだんだんと歪んできた。落ち着いたと思っていた涙がまた溢れ出しそうだ。
父に名前を呼ばれて、慌てて拭った。理由を訊ねられるかもしれないと心配したが、忙しそうにする父は見向きもしない。
「本条様のお屋敷に使いに行ってくれるか? それから、帰り道に白味噌を受け取ってきてくれ」
手短に言うな否や、湯気のあがる蒸し器を取り上げている。
行きたくない、と断れない杏は重い足取りで家を出た。上手くは言えないが、克哉にも申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
克哉に会えたら、重く沈んだ気持ちも少しは晴れるだろうか。通い慣れた道をゆっくりと歩く。
葉が落ち終えた本条邸の裏庭を抜け、勝手口を叩いた。返事を確認して扉を開くとセーターを着込んだ克哉が腕まくりをしているところだった。ご苦労さん、と声をかけられた杏は頭を下げる。
父親がいない時を狙って、克哉は菓子作りにいそしむ。最初は度胸のある行動だと冷や汗をかいたが、もう慣れてしまった。時と場合が合えば味見という名のおこぼれがもらえる。
克哉に会えても杏の心が全く軽くならなかった。早く立ち去りたい気持ちが勝って、料理長へお重を預ける。
ちょうどよかったと呟いたのは克哉だ。
「クリスマスも近いし、クリスマスプディングを作ろうとしていたんだ。アンも一緒に作るか」
流暢な発音でいまいちわからなかった杏は自身の中で『くりすます』『ぷぢんぐ』と繰り返した。一瞬遅れて、同級生が口にしていた言葉を思い出す。外国のえらい人の誕生日だ。『ぷぢんぐ』が何かはわからないが、きっと洋菓子の名前だろう。
克哉の誘いはとても魅力的に聞こえたが、母から頼まれた使いがあるので小さく首を振る。
「遠慮しなくてもいいぞ。一緒に作るんだし、わからなければ訊けばいい」
顔を伏せていた小さな頭に克哉の手が置かれた。杏の心中などこれっぽっちも分かっていないはずなのに、あたたかい手から元気と勇気をもらえる気がする。
わからなければ訊けばいい。簡単なことかもしれないが、落ち込んでいた杏には欲しかった言葉にぴたりと当てはまる。
本人に訊くことができなくても、上手く説明ができなくても、今はおはなしの練習中だ。また帳面を見られてしまう恐怖が拭いきれないが、先生ならわかるかもしれない。
感謝を言葉にしようとした杏は克哉の言葉に遮られる。
「どうした、寝てるのか?」
繊細な菓子を作る指が赤らんだ頬を摘んだ。
目をすがめる克哉と瞳を輝かせる杏。見つめ合う二人にかなりの温度差があった。
面白くない杏は冷ややかな瞳で睨むと同時に、息を吸う。一瞬、呼吸を止めて声を張り上げた。
「ねて、ま、せんッ」
こんな時でもうまく回らない口で言い捨て一礼した。誰の顔も見ずに邸を飛び出す。また来いよ、と追いかけてくる言葉を無視して曲がり角まで思い切り駆けた。
人が来ないことをいいことに、腹の底から息を吐き出す。
失礼な態度を取ってしまったが、またと声をかけられたのは聞き間違えではないはずだ。
悶々と反省しながら残りの使いを済ませた杏は、家につくなり母に捕まった。煮詰めている栗を唄の五回分、見てほしいと言いつけられる。
タルト・タタンの件以来、杏は火の番を任されることが多くなった。あの日、井戸端会議から帰ってきた母に克哉がケークを振舞ってくれたおかげだ。あまりの美味しさと克哉が杏を持ち上げたために、絆されてしまった。勝手に火を使ったことを叱られなかったことは助かったのだけれども。
唄を歌いきって釜から栗を引き上げた杏は連絡帳に向き合った。一度読み返して、消しゴムを擦り付ける。丁寧にカスを払い鉛筆に持ち直した。
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空木先生へ
先生、ごめんなさい。辰次くんに、この帳面を見られてしまいました。
また、かくれんぼもしたことがないのか、と言われました。
悲しいことを言ってくる人たちのことがよくわかりません。
どうしたら、言われないようになるのでしょうか。
鈴本さんへ
それは大変でしたね。落ちこまないでくださいね。先生も鈴本さんとひみつのお話をしていたつもりだったので、残念な気持ちになってしまいました。できたら、まだまだ続けたいので、いやにならないでくれるとうれしいです。
相手の気持ちは先生でもわかりません。相手も私たちの気持ちがわからずに、言ってしまったのかもしれませんね。鈴本さんが悲しいことは変わりませんが、その人たちがどう思って言ったのか聞くいい機会かもしれません。
とてもとてもむつかしいことです。でも、私は鈴本さんもできると思いますよ。
空木先生へ
私は話すのがとてもとても苦手です。言いたいことが言えなくて悲しくて、くやしい気持ちになります。だから、この帳面で先生にお話を聞いてもらえて とてもうれしいです。
それなのに、私は人の話を聞いていないと気がつきました。がんばって聞いてみようと思います。
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昨日は、帳面の返事をまだもらっていなかったので、何か言いたそうにする辰次から杏は逃げ回ってしまった。
明くる日の朝礼の後、じぃっと膝の上にのった拳を見ていた杏は、隣から感じていた気配に対峙する。
横目で辰次と目が合った杏は、彼の目が驚きで丸くなるのを見逃すことはなかった。
いつだって胸をはっていた辰次がしおらしく、口をつぐんでいる。
小休憩のざわつく教室内で、そこだけ切り取られたように静かだ。心臓の音が耳の横で聞こえる。
眉間に力を入れた辰次がわずかに口を開く。
「勝手に見て、ごめん」
「……うん」
怒ることも許すこともできなかったけれど、杏は精一杯に答えた。
辰次は何処か気が抜けたようにぎこちなく笑う。
二人の様子を遠目に見守った空木は、授業の準備に取りかかった。
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鈴本さんへ
実は先生も、はずかしがり屋です。いつも姉さんの後ろに隠れてあまりお話が上手ではありませんでした。
今の姿とぜんぜん違うでしょう。
一歩、踏み出せた鈴本さんは、きっとなりたい自分に近づけたと思います。よく頑張りましたね。すごいです。
先生もまだまだだけど、鈴本さんに勇気をもらいました。もっともっとなりたい自分になれるよう頑張ろうと思います。
話は変わるのですが、今度のお休みに鈴美屋に行こうと思っています。おすすめはありますか。
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