07【2品目】恋ふらくふるふわプディング 壱

 年の瀬が差し迫っていた。あんの家である和菓子屋も年末年始は稼ぎ時。猫の手って使えるのかしら、と母がぼやくぐらいにはてんやわんやになる。

 だからこそ、杏は自分だけの問題で家族に迷惑をかけるのが忍びなく、職員室の前まで来た。教室の戸と変わらない造りなのに、叩くだけでも勇気がいる。

 誰かが廊下をかけていくが、気にする余裕もなかった。身動きひとつできずに戸を見つめる。

 みーつけた、と鬼の声が何処かから聞こえて来た。

 苦い記憶を思い出した杏は呼吸を落ち着かせ掌を握りしめ、半歩進み出る。戸を叩いた後、隙間から顔をのぞかせ男性教諭に睨み付けられた。


「名前!」


 鋭い一喝に杏は体をすくめた。震える唇を懸命に動かす。


「さ、三年、よ、よん、四組……す、すずもと、杏です」

「聞こえんぞ!」

「ああ、鈴本さん。私が呼んでたのに気付かなくてごめんなさい」


 声を遮るように、一人の女性教諭が杏に駆け寄ってくる。

 杏は顔の力をゆるめた。背中を優しく押され、教諭の席まで移動する。ちょうど男性教諭から見えない位置だ。


空木うつぎ先生」

「はい、何でしょう」


 新任の空木は昨年の男性教諭と違って、杏の言葉を辛抱強く待ってくれた。やわらかい雰囲気もあって、杏は相談しにくることが出来たのだ。


「はな、しを、聞いて、ほしくッて、来ま、した」


 うまく回らない口が恥ずかしくて憎くて情けなくなった。それでも、親身に接してくれる空木に伝えたくて、杏は言葉を選ぶ。

 はい、聞きますよ、と言ってくれる優しい声音に泣きそうになった。

 あわあわと動く口を大きく開く。


「かくれんぼが、したいんです」


 ほぼひと息で言えただけで、杏は感動してしまった。いつもなら四回はつかえる所だが、何度も練習したおかげだ。

 かくれんぼですか、いいですねと空木は笑顔で相づちをうってくれる。そして、話すだけで赤ら顔になってしまう生徒にとって、とても難しいことを理解していた。

 まず、恥ずかしくて声をかけられない。第二に声をかけられたとして、つかえずに言えない。そして、運動が不得手なので、隠れられるかどうかがわからない。鬼になったら悲惨なことになるだろう。

 最後は抜きにしても、皆の輪に入ることから始める必要がある。

 なかなか友達と言える存在ができない杏は、一人ではどうしようもできないと優しい空木に相談に来たのだ。皆が簡単にできることが自分にはできない。空木の手を借りることも申し訳なく思うが、たびたび一緒に遊ばないかとやさしい声をかけてくれる人だ。きっと手伝ってくれると杏は勇気を振り絞ってここにいる。

 空木はなかなか次を踏み出せない杏に優しく訊ねる。


「理由を聞いてもいいですか」


 よかったら、ですけどと空木は付け加えた。

 理由。その二文字が杏の頭の中で立ち往生した。

 空木は困ったような笑顔で待っている。

 焦るばかりでどう答えればいいか、さっぱりわからない。しだいに杏は目を回し始めた。ちゃんと、説明しなければ、と手汗が出てくる。


「鈴本さんの言葉で、ゆっくりとでいいですよ」


 小さな子供に言い聞かせるような声は、一欠片も蔑みが含まれていない。

 杏は空木の笑みに背中を押してもらえた。


「か、かくッかく、れ、れん、ぼも……し、したことが、ないの、かって」


 何度もつっかえたりどもりながらこぼれた言葉に、空木は目を見張った。口にはしないが、瞳がことの詳細を求めている。

 杏は上手に説明したかったが、今でも精一杯の状態だ。言葉を探してもうまく見つからず、口が上手く回ってくれたらと願うが、叶いそうにない。


「どうして、そんなことを言われたのですか?」


 言いにくそうに空木が訊ねてきた。

 目を真ん丸にした杏は大きく瞬きをした後、口を一文字に結ぶ。こぼれ落ちそうな瞳ににじむのは焦りと困惑だ。

 空木は落ち着くよう両手をあげて話題を変える。


「おはなしの練習をしましょう」


 杏は青ざめた。空木にまで話ができないという札を貼られたことが泣きたいぐらいに悲しかった。話題も何もないも思い付かないのに、『おはなし』の練習ができるわけがない。無意識に下がる足は震えていた。

 今にも逃げ出しそうな生徒を空木の言葉が慌てて止める。


「おはなし、と言っても文字で、ですよ。皆、連絡帳に書いているでしょう」


 身を翻しかけていた杏は顔だけ振り返り、潤む目で空木を見返した。

 息をついた空木は声音を改めてゆっくりと諭すように説明していく。


「先生が質問するので、鈴本さんはそれに答えてください。お帳面を出してもらえますか?」


 教諭特有の凛とした声だ。

 素直に従った杏は鞄から連絡帳を差し出す。ほとんどの項に文字はなく、空木が書いた連絡事項だけが並んでいた。

 受け取った空木は新しい項に質問を書き連ねる。


「どうして、かくれんぼもしたことがないのか、と言われたのか。誰が言ったのか。最初はこんなものにしましょうか」


 帳面を開いたまま、空木は杏に返した。書いたばかりの字の横の空白を指差す。


「文字を書くことなら、ゆっくりとできるでしょう? 言いたいことが言えなくても、書くことならできるかもしれません」


 先生とおはなしの練習をしませんか、と穏やかな声が杏にかけられる。

 杏は帳面を見つめ、先生を見つめ、また帳面を見ながら、頑張ります、と小さな声で答えた。


 · · • • • ✤ • • • · ·


空木先生へ

 今日はお話を聞いてくれて、ありがとうございました。がんばって、質問に答えてみようと思います。

 「かくれんぼもしたことがないのか」と言ったのは本条克哉様です。どうして、言ったのかはわかりません。ごめんなさい。

 私が「楽しいですか」と聞いたらそう答えられました。くやしかったです。



鈴本さんへ

 お話を聞かせてくれて、ありがとうございます。とてもうれしいです。

 本条様と知り合いと聞いて、驚いています。この辺りで一番の材木商のお家の方ですよね。どうやって知り合いになったか聞いてもいいですか。ちょっと気になります。

 本条様の代わりに答えさせてください。かくれんぼはとても楽しいです。先生ともしてくださいね。



空木先生へ

 本条様とは四歳の時に会いました。迷子になっていたのを助けてもらいました。でも、本条様は覚えていないと思います。

 私のおうちは和菓子屋なので本条様のお屋しきにお使いに行っています。


 · · • • • ✤ • • • · ·


 夜に杏が書いた帳面に、昼間に空木が返事をする。文字でするおはなしの練習がこんなにも楽しいなんて思ってもみなかった。焦らずじっくりと考えられた言葉にあたたかい応えが返ってくる。周りの人はたったそれだけのことと言うかもしれないが、踊り出してしまいそうになるぐらい嬉しい。

 家に帰るまで待ちきれなかった杏は誰もいないことをいいことに、河原で連絡帳を開いた。文字を追おうとした矢先、グワッという鳴き声に驚き、青鷺が飛び立つ様を恐々と見送った。杏と同じような大きさの鳥が十二分に小さくなってから、帳面に視線を戻す。


「かくれんぼをしたことない奴なんているのか」


 冬なのに、春の空のようなのびやかな声だ。

 驚きすぎて固まった杏にさらに言葉が被せられる。


「本条様ってこの前の?」


 頭のつむじで受けていた杏は、そっと顔を上げた。

 隣の席の辰次たつじだ。ちっとも悪びれずに帳面を覗いていた。視線が合う前に顔を伏せた杏に目を眇める。


本条様とは四歳の時に会いました・・・・・・・・・・・・・・・、て本当かよ」


 アイツとかくれんぼするのか、と立て続けに言葉が飛んできた。

 杏は何かと突っかかってくる彼が苦手だ。幼い頃から単刀直入な物言いや物怖じしない正義感に怯えてしまう。


「か、か……」

「か?」


 たったひと文字の問いかけが恐ろしくても、杏は自身を心を奮い立たせる。自分に向けてくれた気遣いや大切にしている繋がりに土足で踏み込んでほしくない。


「かっ、勝手に! よよよ、読まないで!」


 か細い声で叫んだ杏は逃げ出した。



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