【KAC20232】守りのぬいぐるみ

眠好ヒルネ

守りのぬいぐるみ


「なにが守りのぬいぐるみだ!!」


 その日僕はぬいぐるみを捨てた。全力で叩き付けるようにゴミ箱に捨てた。赤黒くよごれたぬいぐるみを。

 5年前のクリスマスに、娘へプレゼントしたぬいぐるみを。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


 ある朝突然、娘がぬいぐるみが欲しいと言い出した。ひとりで居ると勝手に歩き出すぬいぐるみが欲しいと変なことを言った。夢の中で会ったらしい。

 娘は夢の中で守りのぬいぐるみと自己紹介されたとか。娘と同じぐらいの大きさのぬいぐるみで、ゾウのような姿をしていたとか。


「たいせつな思い出をおなかの中に入れておくと、守ってくれるんだって!」


 よく分からないが、娘が欲しがっているものを買ってあげるのが父の務め。僕は喜んでぬいぐるみを探した。

 だが、それらしいものをインターネットで検索して娘に見せても、全て違うと言われた。妻も一緒に探しては娘に見せていたが、やっぱり違うと言われた。言われ続けた。

 一向に見つからず、妥協しようと提案しても首を横に振られるだけ。


「ぜったいほしいの!! ぜったいひつようなの!!」


 そう言って地団駄じだんだを踏んで、口をへの字に曲げて泣き出す始末。

 わがままな……でも可愛い。娘に泣かれると僕も悲しくなってしまって、何としてでも見付けないとと思えてくるから不思議だ。


 そんなある日、急遽きゅうきょ行かされることになった出張で出掛けたアフリカのどこか。アフリカを横断する現地工場視察ツアーの途中で見付けたので、どこの国だったかは覚えていない。

 視察先の工場長達と呑んだ後で、現地のお酒を呑まされてフラフラになっていた。寝るのも苦しいので、ホテルの近くで酔い醒ましがてら歩いていると、ひとつの露店を見つけた。

 その露店の奥には、ぬいぐるみがひとつ。グレーの二本足で立った確かに象のようなとしか表現出来ないぬいぐるみ。何かの皮を縫い合わせた、綿わたがケチられているのか、やけに細いぬいぐるみだった。

 携帯の使えない地域だったのか、写メして娘に確認することが出来なかった。

 露店の店主に「これはインドから来たもので、手に入れるには100体の象が必要だ」とか何とか訳の分からないことを言われて吹っ掛けられて、値段交渉するも酔った頭ではすぐに円換算できず、要らぬなら片付けると言われて慌てて払った。渡したお金は、高額紙幣100枚だったような……よく覚えていない。紙幣価値が低く支払いの度に多くのお札が必要になる国では、感覚が麻痺して困る。

 でも……


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


 今となってはどうでもいい。

 娘の喜んだ顔が見れたから……

 その娘にはもう会えないから。

 娘はぬいぐるみを大切にしていたのに。

 いつも持ち歩いていたのに。

 信じられないが、娘は死んだことを、ぬいぐるみが教えてくる。

 赤黒くよごれたぬいぐるみが教えてくる。

 凄惨せいさんな死だったことを伝えてくる。


 だから捨てた。

 叩きつけて捨てた。

 気持ちがおさまらなかったから、叩き付けた上に殴った。

 殴った拍子に縫い目が弾けた。

 弾けた拍子に中身が飛び出した。

 それは虹色のまぶしいもの達で、僕の目を細めさせて涙をあふれさせた。


「僕のプレゼントした物……みんなの写真……僕の写真……ああああぁぁぁぅぅぅ……」


 看取みとった時に充分泣いたと思ったのに、輝かしい想い出を目にすると嗚咽おえつこぼれて止まらなくなる。

 娘はプレゼントを喜んでくれていた。

 娘は家族を大切に思ってくれていた。

 娘は僕を大切に思ってくれていた。

 嬉しいから悲しくて……僕は怒りを忘れて哀しみに沈んでいった。

 だからまた、僕は床にうずくま慟哭どうこくした。


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


 どのぐらい時間が経過したのだろう。

 今度こそ枯れ果てたと思うぐらいに泣いて、そのまま寝てしまっていたらしい。

 変な姿勢で寝たから足がしびれていて動けない。

 伏せていた顔を取りえず上げると、そこにはグレーの象が二足歩行で立っていた。


「え……お前……」


 その象は明らかにあのぬいぐるみだったが、直立してこちらを見てくる姿は、生物せいぶつらしいなにかに見えた。

 しかし、不思議と不気味だとは思わなかった。

 今の僕の心は憎しみや怒りではなく、ただ哀しみを感じていた。

 象はそんな僕を静かに見つめていた。

 僕は痺れて動けない為、見つめ返すことしか出来なかった。


 そんな時間がしばらく続いたあと、象はひとつうなずくと何事かを口にした。そして、振り返って僕から遠ざかる方向に歩き出した。

 確か娘が言っていた。ひとりになると歩き出すと。


「ま……待ってくれ!」


 娘の影を感じて、僕は慌てて追いかけた。

 いつの間にか足のしびれはおさまっていて、自然と歩き出すことが出来た。

 象を追い掛けて数歩歩くと、突然、目の前の景色が変わった。

 光あふれる不思議な空間に入り込み、すべるように歩いていった。


 不思議な空間では周りに半透明な映像──幻影が流れていた。

 それは先程、象からあふれ出た娘が大切に取っておいた想い出の場面だった。

 想い出があざやかによみがえちゅうを舞っている。

 幻影の中、僕の心はまた渇欲かつよくに満たされきしみ始めた。

 もう手に入らないものを鮮明に見せ付けられる、これほどの苦痛はないだろう。

 でも、涙は流れて来なかった。もう本当に枯れてしまったのかもしれない。

 この象は僕を苦しませるためにこの幻影の空間に連れて来たのか? 僕が怒りと哀しみをぶつけたからだろうか?

 象はそんな苦しみにさいなまれる僕を振り返ることなく、気にせず歩いていく。

 これが罰なら受け入れるべきだ。

 娘を守れなかった親としての罰なら。

 そんな自分の無力さをぬいぐるみの所為せいにした罰なら。

 僕はふらふらしながら、象を追い掛けた。

 そして、その時が来た。


 光あふれる不思議な空間にぽっかりと空いた穴があった。

 象は躊躇ためらわずにその穴へと入っていく。

 僕も象を追ってその穴へ足を入れた。

 その瞬間、世界が光に満たされ、まぶしさに目をおおったら、電気のスイッチを消すように、僕の意識は途切れてしまった……


┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈


「……! 起きて……」


 うん? 誰の声だ?

 重いまぶたを少しだけ動かすと、誰かの影が見えた。


「ねぇ、朝だよ! 早く起きて!!」


 声に合わせるようにはげしく揺さぶられる。

 うっすらとした視界の中で、影も左右に揺れている。


「ねぇってば! パパ!!」


 こ、この声は!!

 急いで起き上がり、僕の体を揺すっていた影を見つめた。


「やっと起きた! パパったら寝坊助ねぼすけさんなんだから!!」


 ぷうっと頬をふくまらませて僕をにらむ小さな影。

 娘だ!!

 記憶の中の娘より少し小さいけど、確かに娘だ!!

 そう認識した瞬間、僕の視界はぼやけ始めた。

 ああ、心がきしむほどに渇望かつぼうした娘の姿だ。

 枯れてしまったと思ったのに、また涙があふれてきた。


「ううぅぅぅ……」


 情けない声を上げながら、僕は娘を抱きしめた。


「パパ! どうしたの!? 怖い夢見たの??」


 怖い夢……そうか怖い夢か……


「ああ……パパはとっても怖い夢を見てね……本当に怖い夢を見てね……」


「そうなの……ヨシヨシ……もう怖くないからね」


 娘に頭を撫でられる。

 不器用で雑に撫でられる。

 なんと心地よいことか……


「パパは怖がりさんだね! だから、これ上げるよ!」


 娘が僕に何かを手渡してきた。

 名残惜しいけど、娘が渡してきたものを確認しなければならない。

 だから、娘を抱きしめるのをやめて体を離し、娘が僕に押し付けてきた物を見た。


「えっ? これは……?」


 それはグレーのぬいぐるみだった。

 あの象のぬいぐるみだった。


「わたしはね、もう持ってなくても大丈夫だから、パパにあげる!」


「え!? もう大丈夫って?!」


「そうなの! パパがね、来てくれたから、わたしは大丈夫なの、パパ、ありがとうね!!」


「えっ……ちょっと待っ……」


 娘は一息にそれだけを告げて、部屋を出ていってしまった。

 渡された象に視線を落とすと、よごれのないぬいぐるみだった。

 中身のほとんど入っていない、ほっそりとしたぬいぐるみだった。


 ああ、そうだったのか。

 夢だったのか。

 僕は理解した。

 ああ、守られたんだ。

 守られたのは……

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