第32話 和尚と小狐

 庵をあとにした幽慶ゆうけいは、歩一歩と山道を下ってゆく。

 向かう先はそう遠くはない。体格に優れた鬼人の歩幅ならばなおのこと。焦らずとも昼前には着くだろう。


 かつて住職を務めていたしゅ寺――廃絶の後改築され、今は宿屋となっている古巣が、青々と茂る初夏のススキ野原の向こうに待ち構えていた。




 ところが、いざ近くまで来てみると、どうも様子がおかしい。

 いつしか一面に立ち込めるもやが、幽慶ゆうけいの視界をすっかり覆い尽くしていた。


 湖沿いとはいえ、この季節、この時間に霧など現れようものか。


「……誰ぞ、悪さをしておるようだの」


 じろがさの下から覗き見る影が、次第に人の形を成してゆくにつれ、幽慶の胸が早鐘を打つように高鳴った。


 立ち塞がるのは、千切れた猫尾を作務衣の裾から生やした壮年の男。獄につながれているはずの不肖の弟子だ。


何故なにゆえお主がここにおる」

「何故、とは心外ですな。貴方がそう望んだからです」


 ひゃっけいも当然と言い放った。


わしが……だと)


「左様です。引き返しましょう、わたしとともに、さあ」


 見透かされた心の内。いよいよ幻覚を疑う。


「悪いがたわむれに付き合うつもりはない。拙僧はこの先に用があるでの」

「わたしを差し置いて行かれると?」

「迷うておる暇はないのだ。人は前へ進まねばならぬ」

「やはり……それが貴方の本心か……」


 百慶の容貌が様変わりを見せた。半白の髪が黒く染まり、顔のしわが薄らいでゆく。


「ですが、知れたことですな。正しき道を歩んで来られた貴方には、後ろめたさなど何一つないのですから。わたしとは……まるで違う」


(なるほど、望んだものを見せる幻――か)


「偽りとはいえ、師弟として貴方と過ごした日々は、わたしの人生にとってささやかな安らぎだった。それを自らの手で壊さねばならなかった、この気持ちを……」


(これは儂がそう願っておるにすぎぬのだ)


 弟子の姿をしたものは若返りの最中、恨み言を発し続けた。


「幼くして親を失い、飢えと寒さに震え、邪教にすがるしかなかった無力さを……貴方は知る由もない」


(儂を裏切ったお主にも、良心の呵責や葛藤の苦しみがあったのだと――)


「お師匠さま……どうして冥遍めいへんよりも先にわたしを見つけてくれなかったのですか……?」


 稚児ちごは膝から崩れ落ち、さめざめと涙を流す。

 幽慶は身をかがめ、誰へともなく語りかけた。


「どれだけ悔やめども過去は変えられぬのだ。だが安心せい。可愛い弟子の不始末はお師匠さまが片を付けてやるでの」




 ただ一つ、まばたきの後。

 付近を覆い隠していた濃霧は、嘘のように晴れていた。


 幽慶ゆうけいの目の前には、狐の耳尾を生やした十歳ほどの男児が、眉をハの字にしてぽつねんと佇んでいた。


「ふむ。幻術の使い手はお主であったか」

「あ、あぅ……ご、ごめんなさ……」


 目に見えて恐縮する少年を、幽慶は手振りでなだめすかす。


「わかっておる。不審な者を追い返すためであろう? しかし妙だ。来訪の知らせは昨日送ったはずだが――」


 宿の母屋から、眼鏡を掛けた赤毛の男が駆けつけて来る。

 新月組しんげつぐみのジャンルカ・グァルニエリだ。


「今の魔力反応……やっぱりか。すまねぇ、和尚」


 ジャンルカは幽慶、次いで少年にも謝罪する。


「それからジェス坊もな。お前、昨夜は早く寝ちまったから、和尚が来るっての言いそびれてたぜ」


 少年の名はジェスロ。住み込みで宿の手伝いをしている。成長に伴い魔法の才能が開花しつつあり、ジャンルカが制御の手ほどきしているとのことだ。


「そういうわけだ。行き違いについては改めて詫びさせてもらう」

「何、むしろ礼を言おう。思いがけずも、心が定められたのだからのう」


 ジャンルカとジェスロに手引され、幽慶は大手を振って前庭を横切ることの喜びと懐かしさを噛みしめる。


 実に三十余年ぶりの帰還であった。再びしゅ寺改め〝ゆめみかん〟の敷居を跨ぐ時が訪れようとしてた。

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