第36話 美容師の嘘
笹木紗輝 美容師の嘘
先日、K社の新人賞の受賞者が発表された。受賞者の名は『平澤かおり』なんと十四歳だということだ。これではわたしが受賞するにはまだまだ若すぎるなんて言い訳さえできないじゃないか。もっと、もっと変わらなければ…… もっともっと、経験が必要だ……
大きな鏡の中に写る自分の姿を見ている。
マスターの書いた小説の中では、眼鏡を外した瞬間、その少女は絶世の美少女に変わる。
あの小説のモデルがわたしなのだとしたら、それこそが大嘘だ。眼鏡を外したところで、そんな簡単に美少女になんてなれるわけがない。鏡の中に映る自分の姿は、醜いとまでは言わないが、とても美少女と言えるほどのものではない。むしろ、見る側の人間が色眼鏡を掛けるでもしない限りは。
左右が対象に写るその姿は本当の姿なんかではない。嘘の自分の姿なのだろう。
でも、どうしてだろう。鏡の中に映る自分は自分以上に自分を知っていると言わんばかりにわたしのことをじっと見つめてくるのだ。気負って目を反らしてはならないとこちらも睨み返すが、やはり相手もいっこうに引く気配を見せない。この鏡の中にいる女は何と強情な女なのだろう。これではまるで……
「――きさん? 笹木さん? どうしたんですか。そんなに睨み付けるように見なくても大丈夫ですよ。オレが保証します。笹木さんはとても魅力的ですよ。オレの腕を信じてください」
グリーンやらブルーやらのいろんな色がまじりあった毛先を思う存分に遊ばせたチャライ美容師は鏡越しになれなれしくわたしに笑いかけてくる。こんな男はまるで好みのタイプではないが、やはり〝魅力的〟と言われて悪い気はしない。一時間前の自分とどこがどう変わったのかいまいちよくわかりはしないのだが、その言葉ですっかり許してしまおうと思ってしまった。
お会計、四千八百円也――。嘘でしょう? 一センチ当たりを切るのにいったいくらかかった計算になるというのだ。
し、しかし、これで少しはかわいくなったというのならば仕方のないことかもしれない。
「笹木さん、もしかして恋をしているんですか?」
言われて、とたんに顔が真っ赤に染まってしまう。
「きれいになるにはお金がかかるものですよ。そしてその分、相手の男性はきっと笹木さんに惹かれますから」
――きっと美容師はわたしが金額が高いことを気にしたことに気付いたのだろう。そして咄嗟のフォローをした。そういうことなのだろう。なるほどエレナが彼のことをカリスマだという意味も少しはわかる。そういえばエレナとはあれからほとんど会話をしていない。わたしとしてはどうにか元のとおりに仲良くしたいとは思っているのだけれど……この美容師をうまく使って仲直りできないものか。そんなことを考えながら思索を巡らせてみる。
「そう言えばエレナは最近、ここに来ました?」
「英玲奈? そりゃあもう、しょっちゅう来てるよ。何せあの髪を維持するのは大変だからね」
「あの髪?」
「ほら、あいつ元々黒髪だろ? それを生まれつきブロンドだなんて言いふらしてしまうものだからそのメンテナンスに時間も金もかかるのさ。まあ、仕方がない。カワイイを作るにはお金がかかるのさ」
――元々黒髪? そんなことは聞いていない。わたしが見る限りいつだって彼女は根元から奇麗なブロンドの髪をしていたように思う。母親譲りのブロンドなのだと……
まったく。とんでもない嘘つきだ。
しかし、そのことを考えるとエレナのことがさらに愛らしくなる。そうだ。ちゃんと話をして仲直りをしよう……そう思い、気分も軽くなり目的地に向かう。
そしてその行きしなでふと思う。エレナの秘密をこうも簡単にバラしてしまう美容師などはカリスマでも何でもない、と。おそらく自分の腕がいいことをアピールするための言葉でそこまでのことが考えられてはいなかったのだろう。
いや、それも違うのかもしれない。もしかするとエレナは本当にブロンドなのかもしれない。それを地毛が黒だということで自らの腕がいいように見せかけるためのつまらない嘘なのかもしれない。
ともかくこの世の中には嘘つきがあふれている。まったく。いとおしい世界だとしか言いようがない。
待ち合わせの喫茶店、リリスの入り口の前に立ち、ふと見るとスタッフ募集の張り紙があった。なるほどこれは少しばかり考えものかもしれない。カワイイを作るにはお金がかかるのだ。
店内に入り、あたりを見回す。そこに待ち合わせの相手を見つけ、向かいの席に座る。すっかり空になったコーヒーカップを脇にどけて読書をしていたようだ。
「ゴメン。待った?」
「いや、ぜんぜん。今来たばかり」
「本当に、武本君は嘘つきね」
「待つ間も楽しいのさ。楽しい時間はあっという間に過ぎる」
「どこでそんな気障な言葉を覚えたのかしら。童貞のくせに……」
「処女でビッチな笹木さんに言われたくはないね」
先日わたしは武本君を平手打ちした。悪いのはわたしだった。
なのに、そのことが原因で武本君に誤解されてしまい、つい思わず平手打ちをしてしまったのは、おそらく自分自身に対しての怒りのせいだと思う。自分を殴ることはできないから、つい思わず目の前にいる武本君を殴ってしまったようなものだ。
喫茶店を飛び出したわたしの右手のひらはじんじんとしびれ、木枯らしが吹くの冷たい風の中で熱く火照っていた。
喫茶店リリスを出たところで、まるでわたしを待ち伏せしていたかのように姿を現したのは生徒指導課長という肩書でいつも偉そうにしている、武骨で嫌われ者の男だった。
「なにをしていたんだ? こんなところで」
「ち、ちがうんです! こ、これは」
「俺が何も知らないとでも思っているのか?」
生徒指導課の教師はポケットから数枚の写真を取り出した。そこには某アパートの入り口が写っている。それぞれ違うカップルがそのアパートの入口へと入っていく写真がほとんどだが、中にはそのアパートの寝室のベッドの上、カップルで仲睦まじく肩を寄せ合って写っている写真までもがある。男子生徒の姿こそさまざまだが、隣に写っている姿は決まってわたしだ。
「先生、ちがうんです。これは……」
「このアパートが、どういう理由でどう扱われているのかっていうことを俺が知らないとでも思っているのか? これでも生徒指導課長だ。そのくらいの情報は持っている。それに俺が言っているのはそういうことじゃないんだ。事実関係がどうだろうそんなことは関係ない。こういう写真が今ここにあるという事実だ。お前がどこで何をしようが関係ない。この写真を見た人間が、お前をどう思うかということが肝心なんだ」
「は、はい……」
「はいって、お前。これがどういう状況なのかわかっているのか? こんなことが公になれば、お前はこの学校にいられなくなるということくらいはわかっているんだろうな?」
「は、はい……」
「まったく…… しかしだな、今のところまだ、この写真のことを知っている教師は俺だけだ。これがどういうことだかわかるか? つまりは俺のさじ加減ひとつでお前の今後が決まるっていうことだ……」
「は、はい……」
「よし、だったら……今から家に来い。その……わかってるな?」
「は、はい……」
生徒指導課の教師の家は喫茶店からすぐ近くだった。少し古い家だがそれなりに大きな一戸建ての家だ。まだ三十を過ぎたばかりの独身教師はこの家に一人で住んでいた。両親を早くに亡くして、それからずっと一人暮らしらしい。
家の中に入ると、男のひとり暮らしという割にはきれいに整頓されていた。これも生徒指導課という堅苦しい肩書の人間のなせる技みたいなものだろうか。
「外、寒かっただろう。まずは風呂にでも入ったらどうだ?」
学校ではいつも無骨な物言いしかできないその教師は、家に入った途端、急に優しそうな声を出す。どっちが本当でどっちが嘘の彼の姿なのかはわからない。
ここまでくれば今更逃げるわけにもいかない。その事は肝に銘じてある。わたしは覚悟を決めて、先にお風呂に入らせてもらうことにした。
無情にも……お風呂のお湯というものは誰にでも分け隔てなく暖かく包み込んでくれるのだ。わたしはお湯の中で泣いた。今の自分の置かれた状況をかんがみて思い切り泣いた。ここでならいくら泣いてもお湯が涙を隠してくれるだろう……
そしてお風呂から出たわたしはあらかじめ用意しておいた新しい下着を身につけ、用意していたラフな家着に袖を通す。今日は初めから家に帰るつもりなかった。だからそれなりの準備をしていたし、武本君の家に泊めてもらうことを考えていたのだ。
しかし、結果としてこんなことになってしまったのはやはり自分のせいだ。ここまでくればもうあとになど戻れないだろう。覚悟を決めて、浴室を出る。
その時だった。ゴーンという激しい音が家じゅうに鳴り響いた。
思いもよらぬ出来事…… 家の玄関の戸が激しい音を立てて吹き飛んだ。そしてそこに須藤先輩をはじめとする、体格のいい男子生徒がなだれ込んできた。慌てた様子の教師が駆け寄ってくる。
玄関に倒れ込んだ須藤先輩たちを飛び越えて、外から飛び込んできたのは何と武本君だった。
「さ、笹木さん!」
駆け付けた教師は武本君の前に仁王立ちになった。
「な、なんなんだお前たちは! とんでもない入り方をしやがって、それに俺の名前を気安く呼ぶんじゃない。俺はおまえ等なんて知らないぞ!」
「ち、違うんです。先生。そ、その人、た、武本君は……」
まさかあの時、武本君が生徒指導の教師に連れ去られたと勘違いして助けに来てくれるなんて考えもしなかった。
わたしの家は現在改装中だ。母方の祖父が病気で、一緒に住むために田舎からこちらへ呼び寄せることになり、それに合わせて家の一部を改装工事をしている。両親は休みを取って田舎の祖父の家に泊まり、現在引っ越しの準備をしているところだ。しかし両親は、学校があるわたしはその改装工事中、父の実家に泊まるように言われていた。しかし、父の両親は早くに亡くなっており、現在は父の実家には歳の離れた弟が一人で暮らしている。しかもその弟はわたしの通う芸文館高校の教師をしているのだ。
わたしは、『同じ学校の生徒と教師がひとつ屋根の下で暮らすのは変な噂が立つと困る』と言った。しかし、その実、わたしは幼いころ、その父の弟である教師にほのかな恋心を抱いていたことがあるのだ。その事もあり、わたし一人で父の実家に泊まるということはどうしてもできないと感じていたのだ。
『友達のところに泊めてもらうから大丈夫』と言ったわたしだったが、実のところ、家に泊めてもらうほどの友達はわたしにはいない。そこで、武本君の家に泊めて欲しいだなんて言い出したのだ。
武本君にはすべての事情を打ち明け。和解することになった。
「で、でもさ、笹木さん。それはあんまりじゃないかな」
「なにが?」
「だ、だってさ。笹木先生のところに泊まるのは照れくさいなんて言っておきながらぼくの部屋に泊まろうとするなんて、それじゃああまりにもぼくを男として見ていないってことじゃないか」
「そんなことないわよ。だけどさ、武本君って大丈夫そうじゃない?」
「な、なにが……」
「だって武本君は童貞でしょ。だからどうせわたしを襲う度胸なんてないだろうし……そういえばあの夜だって、寝ているわたしに指一本触れなかった」
「それは詭弁……だよね。でもさ、笹木さんはぼくがあの夜、寝ている笹木さんに対して、本当に何もしなかっただなんて思っているの? 僕は笹木さんがきづいていないと思ってあんなことやこんなことを……」
「う、嘘でしょう!」
「嘘だよ。ぼくは嘘つきだからね…… あ、いやちょっと待てよ。笹木さん、何でぼくが童貞だってこと知ってたんだ?」
「武本君はどこからどうみても童貞っぽいでしょ。だから何も言わなくてもわかるのよ」
「な、なんだよ。自分だって処女でビッチのくせに、偉そうだな……」
「うるさいわね。少なくとも武本君よりは先に捨ててやるわよ。そんなもん!」
「よし、じゃあ勝負しようぜ。どっちが先に童貞処女を捨てるか勝負だ!」
「あなたバカね。わたしが負けるわけないじゃない」
「ぼくだって負けないさ。でも、勝つもりもないけどね。ぼくは引き分け狙いだから……」
「なによ、それ……」
「わからなければそれでいい…… それよりさ、笹木さん。ぼくの……友達になってくれないかな…… いや、違うな。友達から……はじめてくれませんか……」
「……もう、なにをいまさら言ってるのよ。わたしたちはもうとっくに、友達ですよ。タマやんさん」
「い、いや、その呼び方はやめてよ。なんか照れくさい……っれ? ぼく、その名前を笹木さんに教えたこと、あったっけかな……」
「わからなければそれでいいのよ……」
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