第37話 オナムジ

 芹沢恭介   オナムジ


 あわただしいランチタイムが終了し、あと片付けのめどが立ち始めるのは夕方頃の時間になる。この時間ともなると主婦の姿はほとんど見られなくなり、替わりにじっくりと時間をかけてコーヒーを飲みながらのんびりしようとする人や、近隣の学校に通う生徒の姿が目立つようになる。そのほとんどが顔なじみの客ばかりで、やたらと読書をたしなむ人が多いように思われる。おそらくそれはオナムジ――同じ穴の貉といったところなのだろう。ぼくという人間がそういう人ばかりを集めてしまうに違いない。

 ――あのお客さんにしてもそうだ。テーブル席で向かい合って座り、緊張と期待とを持ち合わせたような会話にぎこちなさを隠せない高校生のカップル。

 あの二人はかつてそれぞれ別々にこの店を訪れるお客さんだった。いつもそれぞれ一人で来ては読書をしているような二人だった。あるとき少年は僕のところへやってきて、自分の書いた小説を読んでみて欲しいと言った。決してうまいとは言い難い文章だったが、それでも胸高鳴る想いを溌剌と綴ったみずみずしい文章だった。そしてそこに描かれるのはいつも隣の席で読書にいそしむ少女の姿だった。どうやら少年は少女に恋をしているらしかった。僭越ながら中年の老婆心としてこの二人に何かきっかけを作ってやりたいと思ったのだ。僕はその少女に少年の書いた小説を読ませてみようと思った。あるいは少年はそのことを期待して僕にあの小説を渡したのかもしれない。

 それから二人の間に何があったのかは知らない。あるときは少女がこの喫茶店に訪れることを避けたり、ある時は二人向き合いいがみ合うこともあったようだ。しかし、どうやら今はこうして仲睦まじく会話を弾ませている姿を見れば、これはきっと自分の手柄なのだろうと悦に浸ることもある。そんな今のひと時を僕はいとおしいと思うようになれた。

 かつての僕は、いつも何者かになりたいとばかり願っていた。ここではないどこかで、今とは違う何者かになりたいと…… しかしまたこうして一つの夢破れて元の生活に戻った時、今までの生活も悪くないということに気付いた。いや、気付けるようになったようだ。何者かになる必要なんてどこにもなく、はじめから僕は僕でしかなかったし、なにがどうあっても僕でしかありえない。そんな自分も悪くないと思った。そうしてまた、今生きているこの場所をもう一度慈しみ、もう一度やり直してみようと思った。

 だが、決してこれは夢を見ないということではない。小説家になるという夢を決してあきらめたわけではなく、今いる場所もちゃんと愛そうと思っただけだ。


 カランカラン。とドアのチャイムが鳴り、また新たな客が入ってきた。

 ――オナムジ…… またもや読書家が一人追加されたようだ。男はカウンター席にドカッと座り、コーヒーを注文した。僕は少しだけ嫌がらせの意味も込めて熱々のコーヒーを差し出した。

「まだ、五時過ぎたばかりだ。定時退社とはさすがは公務員といったところだな」

「あいかわらずゆうてくれるやないか。でもな、今日は初めから仕事は休んどったんやけどな」

「有給が自由に使えるのも公務員の魅力だな」

「おいおい、そんなことよりもな、お前、もうわかってんねやろ? そこはふつう『公務員やめたんか』ってきくことちゃうんか」

「公務員、やめるのか?」

「あちゃー、ホンマ自分調子くるうわ。まあ、結果から言えば公務員はやめへんのやけどな…… いや、ホンマ知らんかったわ、きょーちゃん知ってたか? 公務員にとって小説家って、副業には当たらんらしいで。確かによう考えてみたら政治家が本出したり、現役警察官が推理小説書いてたりするもんなあ。そんなわけで、わい、公務員やめんでええらしいわ」

「なんだよ。またトラタヌ話してんのか?」

「ちょ、ちょいちょい、恭ちゃん。ホンマ気付いてなかったんか? 恭ちゃんならあの名前見て絶対ピンとくると思うてたんやけどなあ…… わい、K社の新人賞とったんやで」

「いや、たしか新人賞をとったのは十四歳の少女じゃなかったか?」

「そやで、平澤かおり……わかるやろ? わいの、わいらの初恋の相手の名前や。それがわいのペンネーム……」

「マ、マジか……京都在住の十四歳っていうのは……」

「京都は嫁の実家やねん。十四歳ってのは娘のこと。あの小説、娘が書いたことにして応募してんねん……ほら、もし、新人賞とって公務員辞めることになったらエグイなあておもてたから……」

「ま、あとで編集の人に謝ったら、まあ、覆面作家ということにしてこのままいこうってことになったんや。ほら、十四歳の美少女が新人賞とったてなったらそれなりに話題性もあるやろ?」

「なるほどな、たしかにあの編集者ならそんなことを言い出しそうだな……」

「え……ちょっとまってや、恭ちゃんなんでわいの編集者のこと知ってんねん?」

「い、いや……知らない、知らないよ。ただ何となく、あの出版社の編集者ならそんなことを言い出すかもしれないと思っただけだよ……」

「な、なんやそうか。せっかくおどかしてやろと思うて黙ってたのに知ってたんかって思うたわ…… あんな、おどろくなや。いや、おどろけや。わいはな、わいの担当編集な、わいらの知ってる人やねん…… 誰やと思う?」

「そ、そんなこと言われても……わ、わかるわけないだろ……」

 ――当然そんなことは嘘だ。まさかあの日、あの後彼女が会いに行ったのが福間だったとは思わなかった。

「あんな、実はな……平澤、かおりやねん…… まあ、もっとも今は結婚して平澤ではないらしいねんけどな。……ってあれ? あんま驚いてへん?」

「い、いや、驚いたよ。驚きすぎて何も考えられなくなただけだ」

「せやろ。恭ちゃんのこと話したら、彼女も逢いたがってたでー。もっとも、恭ちゃんは本名で応募してたから、彼女ももしかしてと思ってたみたいねんけどな。……で、どや? いっぺんまたみんなであわへんか?」

「……」

「どや?」

「いや、やめておくよ」

「なんでや? また二人再会したら燃え上がる何かがあったりするかもしれへんやろ?」

「ないよ。そんなもん…… でもね、平澤さんがそこにいるというんなら僕はまた実力で彼女に会いに行くことにするよ」

「それは要するに来年もまたチャレンジする。と言うことでええんやな?」

「ああ、それで構わない」

「よっしゃ、ほなわいかてそれまでには人気作家になって待っといてやるわ。ほんでお前のデビュー作に偉そうに帯書いたるわ」

「はは、楽しみにしているよ。それにしてもさ……なんだかもったいないよな。あの小説……そりゃあお前の書いた小説はめでたく受賞して出版されるだろうからいいけれど、下手にいいところまで行ったあの小説ってさ、結局のところ日の目を見ることはないわけだろ?」

「ほな、またちょっと改稿して再応募してみるか?」

「まあ、それも悪くはないだろうけれど、出来れば来年は新しい作品で挑戦したいかな」

「ほな、ネットにでも公開してみたらどや」

「ネット?」

「わいかて今まで新人賞落ちた作品公開してたしな。ま、あれはあれでいろいろ問題あるねんけどな」

「そう……なのか」

「ああ、まあ、いろいろとな。ほんでもわいもデビュー決まったから、とりあえずネット小説からは卒業や。ペンネームも新しいのに変わったことやし、ネットでつこうてたペンネームともおさらばや。まあ、そんなわけで、最後にそのペンネームつこうてひと掃除したんやけどな。それがどれだけの効力を持ったかは定かではないな」

「そうか、ペンネームか……いい加減僕もペンネームくらいつくっておかないとなあ。ところで福間、〝平澤かおり〟は別にしておいてさ、そのネット小説を書いていたころのペンネームって、どうやって決めたんだ?」

「いや、まあそんな難しいことではあらへんよ。わいが元々好きだった作家のペンネームくっつけて作っただけや」

「その作家っていうのは?」

「寺山修二と坂口安吾。二つ合体させて『寺山安吾』どや?」

「どや、って言われてもな」

「なんやったらつこうてもええで。ま、きっと嫌われるやろけどな」

「なにしたんだよ」

「それは秘密や」

「なら、しょうがないか。隠そうとしていることを無理に聞き出すことはよくないな。すべての嘘や秘密が暴かれなければならないなんて言うのはミステリー小説の中だけだ」

「そやな。で、どんなペンネームにするつもりや」

「そうだな。福間にならってつくるとしたら、僕が好きな作家は〝高野聖〟の作者、泉鏡花だからな……」

「ああ、きれいなペンネームやもんな。泉の鏡面に写る花は決して触れることができない……」

「まあ、ゆっくり考えてみるさ」

 

 カランカラン――。

 再びドアの入り口が開き、新たなお客さんが来たようだ。眼鏡をかけたおとなしそうな若い男性。たびたびこの店に来るお客さんなので、当然記憶にある人物だ。本を持ち込んで読書をしている姿もときどき見かける。おそらく読書家であるとみて間違いはないだろう。

 どういうわけか、この店にやってくるお客さんというのは読書家が多いように思う。類は友を呼ぶとでもいうのだろうか。

 ――いや、違うな。ここで使う言葉は――オナムジ。

 同じ穴の貉といったところだろう。


「すいません。表の求人広告を見たのですが――」


「なあ、恭ちゃん。ええんちゃう? なんか、カンジの良さそうな子やないか」

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