第32話 シュレネコ


芹沢恭介 シュレネコ



 電車が京都、嵐山駅に近づくとゴトンゴトンと鈍い音を立てながら速度を落としていく。勢いに乗って走っている時には全く感じさせもしなかったのに、速度を落とした途端、自分の体が重かったことを思い出すかのように金属の塊の大きな車体は悲鳴を上げる。

 松木かおりと名乗った僕の元恋人の編集者は、僕の小説が最終選考に残ったことを告げ、一度担当編集者として会いたいと言ってきた。てっきり、東京の本社に出向かなければならないのかと思いきや、彼女が指定した場所は京都、嵐山だった。

「でも、何で京都?」

「うん、その日ね、わたし仕事でちょっと京都に行くのよ。で、そっちで一泊するつもり。いい場所よ。温泉もある宿なの」

「つまり……」

 つまり、編集者と作家が顔合わせに会うなんて言うのは口実に過ぎない。作家と編集者が合うのではなく、僕と、僕の昔の恋人が会うのだ。京都の温泉宿で。

「僕は結婚しているんだよ」

「わたしも結婚しているわ。前に言ったと思うけど」

「うん、それは確かに聞いた。で、僕は妻になんて言えばいいんだ」

「そんなの普通に編集者に会いに行くっていえばいいのよ。別に嘘をつけと言っているわけじゃないわ」

「いや、そもそも編集者と会うのに、何で京都に一泊二日で行かなければならないんだよ」

「そんなの、芹沢君が自分で考えればいいじゃない。嘘をつくのは得意なはずよ。作家なんだから」

「僕は作家じゃない、コックだよ。それに結局嘘をつけって言ってるんじゃないか」

「あら、どうしても嫌ならいいのよ別に……」

「いやじゃないよ、いやじゃないけど……」

「相変わらずはっきりしないのね。そんなだから……ううん、ごめん。なんでもない」


 ――そんなだから、あの時過ちを犯したんだ。


「そ、そのさ。応募した新人賞の編集者が一度会いたいって、それで、ちょっと京都まで行ってこようと思うんだ……」

 僕は妻に事情を打ち明けた。もちろん、厄介な部分はすべて隠したまま。上手く話が出来そうにないなら、一泊するのはあきらめて、早朝の電車で京都に向かうことにしようと思っていた。一作家と、一編集者として。

「あ、ちょうどよかったわ。あたしも旅行に行きたいと思っていたの」

 ――正直、その時は心臓が止まるかと思った。まさか京都に彼女がついてくるなんて言い出すとは思っていなかった。そんなことになればもう、何をどういいわけしたらいいのかわからない。しかし、それは僕の思い過ごしだった。

「友達に旅行にさそわれてて、ちょうどその日だったのよあんた一人を家に残していくのもどうかなって思ってしぶっていたんだけど、そういうことなら気にしなくていいわよね」

 妻はその日、四国の道後温泉に行くと言っていた。土曜日から月曜日の三日間。ゆっくり羽を伸ばすと言ってきた。それに対して僕は月曜日の朝一にこっちを出発するつもりだと言っておいたが、それは嘘だった。日曜日のランチが終了した時点で閉店して、夕方の新幹線で京都に向かって出発した。妻はすでに松山でゆっくり過ごしているし、そんな嘘がばれることもないだろう。

 久しぶりに袖を通したスーツは少しクローゼットの匂いがした。普段は職業柄スーツなんて着ることはほとんどない。普段着で出かけるつもりだった僕に対し妻は「あんたね、編集者に会いに行くのに普段着なんてちょっと失礼でしょ」と言いながら、クローゼットから引っ張り出してきた。それと妻と結婚した時に買ったオメガの腕時計も横に添えてあった。


 嵐山駅にに到着して腕時計を見たが、時間は点で関係のない時間を差していた。自動巻きの時計はしばらくクローゼットに眠ったまますっかり動くことをやめていたが、僕がこうしてはめているあいだにいつの間にか動き出したようだ。しかし時間を合わせていないので役には立たない。結局スマホで時間を確認した。九月の半ばはまだまだ夏だと思っていたが、嵐山の夕方八時は意外なまでに肌寒い。タクシーを止めて目的地を告げる。

 宿は思った以上に立派な旅館だった。もし、これが経費で落ちているというなら出版業界の不況だなんて信じられないことだ。おそらく彼女が自腹で宿をとったのではないだろうか。建物自体は京都らしい歴史を感じる、古い日本建築だった。しかし、あとで中に入ってからわかるのだが、中は意外とモダンな雰囲気で、どちらかと言えば明治時代を感じさせる和洋折衷な内装だった。松木編集者にはあらかじめ連絡を取っていたので、タクシーを降りた時にすでに彼女は旅館の入り口で待っていてくれていた。浴衣姿にショールを一枚はおった格好でタクシーから降りた僕にそっと笑顔を見せてくれた。随分しわも増え、いくぶんふくよかになったかもしれないが、彼女はまさしく僕の知っている平澤かおりに間違いなかった。

「久しぶりね。待ってたのよ」と言ってそっと僕の手を握り、「寒いでしょ。早く中に入りましょう」と言った。しかし彼女の手は僕なんかよりずっと冷たかった。もうしばらく外で待っていてくれたのかもしれない。相変わらず彼女はとてもずるい女性だった。だから、僕は何度でも騙されてしまうんだ。


 僕たちは部屋に向かうよりも先に食堂へと向かった。僕の荷物は大したことなかったし、もうお腹はぺこぺこだった。それに九時に近い時間とあってはこれ以上食事の時間を遅らせるのはあまりいいことだとは思えない。食道の給仕係にとっても、中年を迎えてしまった彼女のお腹まわりにしても。

 テーブルは座敷かと思いきや、黒い漆塗りのテーブルだった。椅子の座面だけが畳になっていて、そこが妙に和洋折衷な雰囲気を醸し出している。料理は純粋な日本料理だったが、彼女の進めるシャンパンを二人で開けることにした。

「ねえ、ここの料理、とてもおいしいでしょ」

 そこの料理ははっきり言って、十分すぎるほどにおいしかった。しかし、あえて目の前でこういう質問されれば、そこは自分も料理の仕事をしているからなのだろう。つい、余計なことを言ってしまう。

「でもさ、これ」と、ゆでた京野菜の胡麻和えをぱりぱりと音を立てながら喋る。「おそらくゆでた野菜を一度氷水にとって冷やしているんだ。もちろん、そうすることによって身はしまるし、色合いも鮮やかになる。でも、それと同時にせっかくの野菜が水っぽくなってしまって……」と、そこまで言ったところで彼女は右手に箸を持ったまま、両手の人差し指を口の前で交差させる。まさか、いきなりこんなところでミッフィーちゃん物まねを始めたわけではないだろう。

「余計なことは言わないの。減点一」

 そんな物言いは、昔の彼女そのままだった。昔付き合っていたころもしょっちゅう、なにかにつけて減点されていた。そして決まって僕は同じ質問をする。

「僕の点数、あとどれくらいあるの?」

「残り八点よ。女の子を外で待たせたから減点一」

「ずるいな。外で待っていたのは僕のせいじゃない。それに君はもう、〝女の子〟ではない」

「あ、それってヒドイ。減点一。そんなことはちゃんとわかってるけど、今日ぐらいは昔みたいに女の子でありたいと思っているの、わからないかな」

「ところで、それが〇点になった時、どうなるのかな」

「怖いことが起こるわ。とても怖いこと」

「だったら、それが知りたいかもな」

「どうなっても知らないわよ」

「どうなっても知らないさ。そう思ってなきゃ、今日、ここには来なかった」

「奥さんにはなんて言ったの?」

「特に何も。妻も同じ日に旅行に行きたかったらしくて、今頃道後温泉にでも浸かっている。それより君は? 旦那さんにはなんて?」

「別に、わたしは仕事だしね。それに、旦那とはうまくいってないの。もう、ロクに口もきいていないわ」

「わるいことを聞いたね。まあ、ともかく。僕は妻に余計な嘘はつかなくて済んだ」

「そう、でも芹沢君ももう少し上手に嘘がつけるようになった方がいいかもね。女なんてものはまるで呼吸するくらい簡単に嘘がつけるものなのだから。もしかすると芹沢君の奥さんも友達と旅行なんて嘘かもしれないでしょ」

「ちょ、ちょっとやめてくれよ」

「あら、なに? 自分がやっていることを棚に上げてそんなこと言うなんてちょっと卑怯よ」

「そ、それは確かに……卑怯かもしれない」

「奥さんのこと、愛しているのね。羨ましいわ」

「愛してなんかいないよ。ただ、妻にばれた時が怖いだけさ」

「ふふ、嘘が下手ね」

「それは……編集者として言っている? 〝嘘〟とは、小説に対する比喩として」

「そんな皮肉で言ったんじゃないわ。わたし、好きよ。あなたの小説。だからあなたの担当編集として立候補したわけだし」

 食事をしながら、一本目のシャンパンはあっという間に飲み干した。続いて日本酒を注文する。彼女は勢い止まることもなく一定のペースで飲み続ける。顔がすっかり赤らんでいる。この後の出来事を考えると、彼女も少し勢いが必要なのかもしれない。別に大人になって結婚したからカトリック教徒でなくなったわけではないだろう。罪の意識はあるはずだ。

「ねえ、芹沢君が書いたあの小説のヒロイン。あれ、わたしだよね?」

「どうかな」

「わかるわよ。そんなこと…… でも、うれしかったよ。芹沢君の本音が聞けて、あの時、芹沢君のことを好きになっていてよかったって、そう思ったわ」

「どうかな。あれに書いていたことが僕の本音だなんてどうして言い切れる? 作家ていうのは嘘つきなんだよ」

「わかるわよ。わたしが一体どれだけの作家と接してきていると思っているの? それに、今夜の芹沢君は作家じゃない」

「僕はコックだ」

「違うわ。わたしの恋人よ。今夜だけは……」

「……」

「ねえ、知ってる?」

「なに?」

「あの時、あの時芹沢君はわたしのことを捨ててほかの女と寝たでしょう?」

「……ごめん」

「あやまらなくていいわ。もう、過去のことだから。あの後……あの話を聞いた後、わたしは悔しくて、自分で何をしていいのかもわからなくなってほかの男と寝たの…… 後悔したわ。こんなことなら初めからあなたと寝ていれば良かったのよ」

「……ごめん」

「だから、謝らなくていいのよ。減点一。……過ぎた時間はもう取り返せないのよ」

 すっかり酔いが回り始めた彼女はさすがに猪口を持つ手を止めた。僕はそこで一番聞きたかったことを聞いてみた。

「ねえ、もうそろそろ。最終選考の結果って決まっているんだろう?」

「ふふふ。そんなこと、言えるわけないでしょう。守秘義務があるのよ」

「でも、もうそろそろ時期的に結果が出ている頃だと思うんだけど。まだ発表されていないしても、内輪でそれはもう決まっていて、そろそろ作家と編集者は出版に向けて打ち合わせを始める頃なんじゃないかな。それでも僕にそのことが言えないってことは、つまり……」

「言いにくいことは聞かないものよ。減点一」

「そもそも、僕が受賞できるならこうして無理に会う必要もないよね。どうせこれから嫌でも付き合っていかなきゃいけないわけだから……」

「でも、結果が発表されない限り、受賞しているかもしれないし、受賞していないかもしれない」

「シュレネコ状態ってわけか」

「ふふふ。まだそれつかってるの。なつかしい。シュレディンガーの猫の実験ね。変わらないわね」

「変わったよ。変わってしまった。もう、すっかりなりたくもない大人になってしまって、あきらめるべきことはあきらめるなんて言うくだらない知恵もついた」

「え、あきらめちゃうの?」

「今回だって、ここまで来られたのはたまたま運が良かっただけだよ」

「本当にそう思っている? 運だけで最終選考まで来られたって? それはあんまりじゃないかな。わたしたち、そんないい加減な仕事はしていない」

「そうか、ごめん……」

 ふと壁に目を向けると、そこにはへんてこな絵がかけられていた。モダンなアートなんだろうが気に入らない。翼の生えた魚が大空をはばたいている。

「なあ、あの絵、何で魚が空を飛ばなきゃならないんだ? 魚なら、水の中を泳いだ方が早いだろ?」

「トビウオは空を飛ぶわ。たぶん空がそれほどまでに魅力的だったから。ペンギンなんてトリなのに魚よりも早く泳げるのよ」

「ペンギンは特別だよ」

「あら、芹沢君は自分のことを特別だとは思っていないの?」

「自分のことを特別だと思えるほどの自信はないな」

「自信はなくてもいいのよ。うぬぼれさえあれば」

「うぬぼれ?」

「うぬぼれ。他人がいい評価をしてくれるという自信はなくとも、自分自身が納得のいくものだけは作り続けられるというひと。芹沢君はもっと自惚れを持ってもいいかも。プロの作家なんてね、みんなうぬぼれの塊みたいな人間ばかりよ」

「周囲からは嫌われそうだな」

「嫌われたっていいじゃない。トビウオが空を飛ぶのは外敵から身を守るため。海の中じゃマグロやカツオには勝てないから、食べられてしまうのよ。でも、空を飛ぶために体を軽くしなくちゃいけないから、胃を無くしちゃったの。消化器官だって驚くほど短い」

「魚のくせに空を飛ぼうとするから犠牲を払わなくちゃならなくなる」

「そしてペンギンは鳥のくせに海を泳ぐことを選んで、飛ぶことを捨てたのよ。その逆なんじゃない?」

「人間ってのはダメだな。空も飛べないし泳いだってそんなに早くない」

「でも、知恵があるのよ。機械を発明して、鳥よりも早く飛べるようになったし、魚よりも早く海を移動できるようになった。もう少しうぬぼれてもいいんじゃないかな。知ってる? 京都の山には天狗がいるらしいのよ」

「天狗……ね」

「それに、たぬきだってきつねだっているわ。化け猫は……どうかな。この際いてもいいんじゃない? 人を化かす奴らもうぬぼれやも勢揃いの街なのよ」

「……狐はどうかな。いるのは伏見稲荷くらいじゃないのか」

「ふふ、ねえ、明日わたし、昼から仕事で会わなくちゃいけない人がいるんだけど、それが終わったらもう、京都での予定は終わりだから、よかったら明日一緒に伏見稲荷にでも行かない?」

「……わるくないかもしれない」

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