第33話 止まってしまった時計は

 食事を終えた僕たちは平澤……、松木さんの用意した部屋に移動した。部屋の中央には布団が二組、ぴったりとくっつけられた状態で並べてある。まるで質の悪いラブホテルみたいだ。小さな和室だが縁側にはアンティークなソファーがある。そこから見える窓の外に大きな丸い月がぽっかりと浮かんでいる。脇には大きなノッポの古時計、単なるアンティークな飾りなのだろう。もう、動いてはいない。

「ねえ、この時計。すごく立派じゃない?」松木さんは少しはしゃいでいる。少し、飲みすぎだ。「ねえ、これ、もう動かないのかな?」

「どれどれ」

 僕は彼女に促されるまま時計を調べた。壊れているわけでも何でもない。ちゃんとねじを巻けばきっと動くだろう。

「ねえ、ねじを巻かないの?」

「もし、無理に動かして壊れでもしたらどうするんだよ。こういうものは、時間が止まっているからこそいいんだよ」

「ふーん、そんなものかしら。男の人のそういうロマンチスト感って、よく解らないのよね。ねえ、そんなことより、お風呂入ってきたら? 露天風呂があるのよ。24時間入れるらしいから行って来たら?」

「そうか、それはありがたいな。実を言うと慣れないスーツなんか着てずっと息苦しかったんだ。早く脱いでしまいたい」

「そうね、それがいいわ。それにそのネクタイ、奥さんの趣味でしょう? 芹沢君だったら絶対に選ばないよね、そんな柄」

「……あ、ああ」

「見ていてあんまりいいぶんじゃないわ、正直言って。なんだか自分の飼い犬に首輪をつけているみたい」

 その言葉を聞いて、急に首のあたりが息苦しくなった。左手の人差し指を首とネクタイとの間に入れてそっとネクタイを緩めた。「ふう」とため息をついて「行ってくる」と言い残して風呂へと向かった。


 風呂は露天風呂になっていた。さすがに夜も遅い時間で僕のほかには誰もいなかった。風もなく静かで涼しい夜だった。岩で囲われた露天風呂には風もなく、空のまん丸な月がそのまま水鏡に写りこんでいる。湯船に体を浸けると、すぐそこにあって手の届きそうな月は波紋でぐちゃぐちゃに崩れてしまった。もう、月ははるか遠く空の上にしかない。

 さっきは彼女の手前、ずっと大したことではないという素振りを見せていたが、本心はさすがに悔しかった。いっそのこと一次選考で落選しておいた方が楽だったかもしれない。変に期待させられた分、ショックも大きい。いっそのこと泣けば楽になるのかもしれないが、大人になってしまうとそんなことでは簡単に泣けないようになっていく。


 部屋に帰ると、松木さんはソファーの上で眠っていた。調子に乗って飲みすぎだ。ソファーの脇のテーブルに置いてあるブランケットを手にとり、彼女にそっとかけてやる。家ではしょっちゅう妻がソファーで寝る癖があるので、こういうことには慣れている……って、何でこんな時に妻のことを思い出してしまうんだろう……

 その時不意に、僕は手首を掴まれた。松木さんはいつの間にか目を覚ましていた。あるいは狸寝入りだったのかもしれない。手首を引っ張られ、僕は彼女の上にのしかかるように倒れ込んだ。僕たちはそのまま、何かを考える暇もなく唇を重ね合せた。そして当然のように舌を絡ませ合う。互いにキスは上手くなった。月に姿を見られないようにブランケットに体を包み、月明かりの下で抱きしめあい、温めあった。彼女の甘い香りはあの頃と変わりなく、僕の気持ちをタイムスリップさせる。

 でも、それまでだった。最後まではしなかった。

 僕は決して彼女とセックスしたかったわけじゃない。今日だって、あのときだって……

 僕はただ何者かになりたかっただけなのだ。あの時、恋人だった彼女とセックスすることによって、単なる恋人から、もっと違う何かになれると思っていただけに過ぎない。今とは違う何かになりたかっただけ…… でも、それは今手にしている大事な何かを犠牲にしてまで手に入れたいものだったのかはわからない。今も、あの頃も……

 少なくともあの頃の僕は何かを手に入れようと焦りすぎて、大切なものを失ってしまった。

 松木さんは最後までしようとしない僕のことをとがめた。おそらくそうすることが彼女にとっての贖罪だと思っているのだろうが、そうはさせない。

「女に恥を掻かすつもりなのね。いやな男」

「君こそいやな女だ。もう、これっきり僕とは会えないと思っているんだろう? だからこうして今日、僕と会う場所を無理につくった…… でも、それはとても失礼な事じゃないか。

 だって、来年こそは僕は堂々と君に会いに行けるようになっているかもしれない。あるいは再来年かもしれない。いつかはきっと……」

「ふふふ、そうよね。せめてわたしがおばあちゃんになる前にはやってきてよね」

「まったく。いやな女だな」

「芹沢君こそいやな男。今夜はわたしに恥をかかせたから減点6」

「あれ、あとのこり何点だっけ?」

「ええっと……」彼女は指を降りながら数える。うん、そうね、マイナス1点ってとこかしら?」

「じゃあ、怖いことが起きる?」

「ううん、だいじょうぶ。今日は楽しかったから、プラス2点」

「ああ、それでも残り1点しかないんだな」



 翌朝目覚めた時、松木さんはすでにスーツを着こなしていた。どこから見てもベテランのキャリアウーマンといった雰囲気だ髪留めのゴムを口に咥えて、両手で髪を後ろでまとめるしぐさはあのころと変わらない。ちょっとばかり僕たちは大人になりすぎてしまただけだ。ただの何物でもない大人になってしまっただけ。

「ちょっと顔合わせをするだけだけだから昼には帰ってくるわ。部屋は今日一日とってあるから芹沢君はゆっくりしていて。帰ったら一緒にお昼を食べて、それから伏見稲荷に行きましょう」午前中にとある作家と会い、打ち合わせをするだけと言っていた彼女はうれしそうにそう語った。

「平澤かおりっていうのよ。その作家。これって運命だと思わない?」

 彼女は自分の旧姓と同じ作家と会うことに少しばかり興奮していたが、その時には完膚なきまでに完全な敗北を感じた。シュレディンガーの猫は箱の中でとっくに死んでいる。まだ、確認していないだけだ。『平澤かおり』というペンネームは最終選考の一覧に乗っていた名前のひとりだ。その名前に気付いたのはもう、随分前のことだ。僕は一次選考通過者数百人の中にでさえ、その名前を見つけることができた。そこに初恋の人の名前があったなら誰だって気づいたに違いないだろう。僕はその時、もしかすると彼女はこの世界のどこかで結婚もせず、小説を書きつづけているのではないかと想像もした。もしかすると二人は再び新人賞の授賞式で再会するのではないかという妄想さえした。恥ずかしいことだけれど。

でも、それはある日、編集者松木かおりとして僕の目の前に現れたことによって幻と消えた。そして今日、わざわざ京都くんだりしてやってきたのは、おそらくその平澤かおりが今年の大賞受賞者ということなのだろう。

僕は彼女を見送った後、ひとりで列車に飛び乗った。部屋には『またいずれ』という書置きだけを残して京都の町を後にした。


夕方に帰って来た妻は、自分より早く帰ってきている僕に少し驚いた様子だった。

「早かったのね」

「大した用事でもなかったからね」

「で、どうなの? 受賞できそうなの?」

「うん、どうだろうね。まだわからないや」

――嘘だった。今更そんなことに罪の意識なんて覚えないけど。

「ゆっくり京都観光でもして来ればよかったのに、そう、たとえば伏見稲荷とか?」

「僕一人で行ったんじゃあ、きっと君は怒るだろう?」

「あら、そんなことないわよ。全く嫌な男」

――まったく。僕は誰から見てもいやな男らしい。仕方ないけど。大体とんでもない嘘つきなわけだし…… まあ、もののついでに嘘のもうひとつでも追加しておこうか。

「折角だからお前と行きたかったんだよ。ほら、伏見稲荷は紅葉だって人気なスポットだ。こんな中途半端な時期に行ってもね」

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