第31話 鎌野良太
その日半日を一人ぼっちで過ごしたわたしは昼休みに学校の校舎を抜け出して、喫茶店リリスに向かったのは、忘れていたスマホを須藤先輩が届けてくれるということになっているから。どうせ学校の学食に行ってもひとりぼっちだろうし、いっそのことそこで昼食をとってもいいかもしれないなんて思っていたが……
リリスの入り口には行列ができていた。二、三十代の女性を中心としたグループは列を作り、小さな喫茶店に所狭しと入っていく。よくよく考えてみれば平日のランチタイムにここに訪れたことなんてなかったので知らなかっただけで、リリスのランチタイムはそれなりに繁盛していたのだ。どおりでいつもお客さんがいないのに潰れないわけだ。窓から内側を覗くと、マスターはひとりきりで店を切り盛りしていた。
「笹木さんですよね」
不意にかけられた声に振り返ってみると、見覚えのない男子生徒が立っていた。制服を見る限り東西大寺の生徒らしい。線が細く、中性的で内気な印象を受ける。須藤先輩とはまるで対照的だ。
「おれ、須藤先輩の代理で笹木さんのスマホを持ってきたんですけど……」
なるほどそういうことかと納得した。それならそれでスマホを渡してくれればそれだけでいい話なのだけれど、その代理人は行列のうしろから店内をちょっとだけ覗く。
「中に入るのはちょっと無理そうですね。できればゆっくりお話がしたかったんですが……仕方ありませんね。また改めて連絡します」
そう言ってポケットから取り出したスマホを手渡し、そのまま逃げるように去って行った。連絡先さえ聞いていないが、どうやって連絡を取るつもりだろうかとその時は思った。
放課後になり、予想通り明日香たちにシカトをされたわたしはひとりで教室を後にしようとした時、わたしのスマホが着信をした。友達の少ないわたしにとっては珍しいことだ。
《鎌野良太》という知らない名前とその電話番号が表示されている。わたしには当然こんなものを登録した覚えはない。
《急で申し訳ないんですが、今から少し会えませんか》
名前を名乗りもしない通話口の向こうの相手の名が鎌野良太ということは知っていた。そしてその人物が一体誰なのかということについても、その声を聞いた瞬間にわかる。男性にしてはややキーの高い中性的な声に覚えがある。昼休み、須藤先輩の代わりにわたしのスマホを持って来てくれた人だ。その事で一つ納得した。鎌野良太は須藤先輩から受け取り、わたしに渡すまでの間に自分の名前をわたしのスマホに登録しておいたのだ。4桁のナンバーロックのかかっているわたしにスマホに。自然と警戒心は高まる。
「あ、あの……い、一体どういうご用件で……」
《あ、なんか棘のある言い方ですよね。せっかくスマホを届けてあげたというのに、その対応はないですよ。ちゃんとお礼だってしてもらっていない》
「あ、す、すいません。ありがとうござ……」
《あー、ちがうちがう。おれはそういうこと言ってるわけじゃないの。もっと具体的なお礼がしてもらいたいなって……》
「ど、どういう……」
《うん、なんかあれだよね。笹木さんて、随分とビッチなんだって噂を聞いてね》
「な……」何と失礼な人だろう。たしかに周りのそう思われるような言動をとってきたことは認めるが、いくら何でもよく知らない人にそこまで言われる筋合いはない。
《で、いくら払ったらやらしてくれるのかな》
「い、いい加減にしてください! わたし、そんなんじゃありませんから!」
頭に血が上り、思わず誰もいない教室で叫んでしまったが、
《うん、だろうね。それも知ってるよ》
と、……なんだかこのすかし方、以前誰かに、されたことがあるような気がする。
《つまり……笹木さんはそういうフリをするのが得意なわけでしょ》
「得意?」
《そう。武本君や、須藤先輩にしたように……》
――この鎌野という人物は、すべてを知っている様子だ。須藤先輩の代理できたということはそのあたりの事情を彼から聞いたのか……ともかく、油断のできない相手だ。
《つまりね。おれが言いたいのはそういうことだよ。おれともセックスをしたことがあるっていうフリをしてほしいわけだ。もちろん、それなりの謝礼はするつもりだ》
「ちょ、ちょっと待ってよ。わたし、別にそんなことで……」
《あ、勘違いしないでよね。別に笹木さんに断る権利なんてないんだからさ。もし、断れば真実を、いや、真実だけでなく、あることないことみんなに言いふらしちゃうかもしれないよ。おれは…… 幸い、君のスマホに入っていたすべての連絡先のコピーもとっているからね》
なんと非道なやつだろう。しかし、ばらすならばらせ、あることないこと言いふらしたいというのならば言いふらせと言うのが本当に気持ちだ。すでにわたしには失うものは何もない。
それでもわたしは鎌野の要求を受け入れることにした。なぜなら……
なぜならそうした方が自分に嘘がつけるから…… いまのような状況を産んだのはすべてわたし自身のせい。
……だけど、わたしはここで鎌野の要求を受け入れることで、すべての責任は鎌野良太という男のせいなのだと、自分自身を騙したかったからだと思う……
《……じゃあ、今からしばらくリリスで待っていてくれないかな。準備が出来たら連絡するよ》
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