第29話 須藤先輩の嘘
笹木紗輝 須藤先輩の嘘
「あん時さ、アンタすごい大きな声で喘いでいたよね」
夏休みが明けて、久しぶりに学校に来るなり友人のエレナは思い出したくもないあの夜の話を持ち出してきた。わたしは少しばかり嫌な心持で、夏休みが明ける前日になって慌てて黒く染めた髪の匂いが気になり、襟足をいじってばかりいた。黒くは染めたもののバッサリと短く切った髪がそう簡単に長くなるでもなく、そのことも気になっていたのだ。後でそんな自分の行動が周りから見ると少し気取っているように見えたことを聞かされた時には少し恥ずかし思いをしたが、その時はそんなことを気にしてなどいなかった。今までにないくらいに短いヘアスタイルで学校のみなに顔を合わせることは、なんだか服を脱がされた状態でさらし者になっている感覚に近い。コンタクトをやめていつもの眼鏡に戻したことがせめてもの救いだ。眼鏡をかけていると相手と視線を合わせなくても何となくそれで許されてしまうところがある。エレナから目をそらし、話半分で流していると、事もあろうか、エレナはわたしの喘ぎ声が大きいことをクラスのみんなに言いふらし始めた。
本当はあの喘ぎ声はわたしの声なんかじゃない。あの時武本君が勝手にアダルト映像を再生してボリュームを大きくしただけのことだ。わたしは即座に否定したかったが、そのことをあえて弁明するのもなんだか恥ずかしくなってしまい、あとであとでと思っているうちにすっかり言いそびれてしまった。
しかしエレナの暴挙は意外なまでの結果をもたらせてくれた。わたしの喘ぎ声が大きいとエレナが話しかけたクラスメイトはとても興味を示し、次から次へと集まってきた。しかも男子まで……少しは遠慮しろよ、恥ずかしい。
集ったクラスメイトは次々にわたしに話しかけてくる。短い髪型が似合うとか、雰囲気が大人になったとか、男子生徒の中にはあからさまにアプローチをかけてくるようなものまで現れた。今までは誰もわたしなんかに見向きもしなかったにもかかわらず、やたらと親切にしてくれるようになり、わたしはそのことで少しばかり悦に入った。
わたしは今まで、ヴァージンの方が価値があるものだと思っていた。にもかかわらず、わたしがセックスをしたことがあるということが周りに広がるごとに、男子生徒もわたしを一人の女として扱うようになってくれたし、女子生徒もわたしを一人前の友人として扱ってくれるようになった。
そしてわたしは次第に自分が処女ではないことを隠さなくなった。
いや、そういう言い方は単なる嘘だ。
わたしは、自分が処女ではないと嘘をつくようになった。
今から思えば、あの時の武本君の行動はこうなることを予想してのことだったのかもしれない。少なくともあの状態(エレナと小堀君が抱き合っていた)では、寝室に立わたしは武本君とあんなことをしていなければならない状態だったのかもしれない。しかし、そのことに思うところのあった武本君の気を利かした行動に対し、わたしはもう少し感謝するべきだったのだ。にもかかわらず、事の真相に気付いていなかったわたしは、つい武本君に対して失礼な行動をとってしまった。できることならちゃんと会って一度お礼を言っておきたかったが、あいにくわたしはあの日に一度会ったきりの彼の連絡先さえ聞いていなかった。はじめにエレナに相談したが、彼女はあの日、小堀君とやることはやったが、彼があまりのヘタクソだったのでその日以来連絡を取っていないらしい。しかしそのわりにはあの夜、本当にあえぎ声が大きかったのはエレナの方だったような気がする。だとしたらやはりエレナは嘘をついているのだろう。わたしに対してか、小堀君に対してかは知らないけれど。
次にわたしは明日香に相談した。明日香はイケメンの須藤先輩と付き合っているらしい。あの夜、二人は武本君の部屋を抜け出して、二人でホテルに向かった。互いの相性は抜群でその日以来、須藤先輩は明日香にべた惚れしたらしい。
「ねえ、明日香。武本君の連絡先って知ってる? もし知ってたら教えてほしいんだけど」
「はあ? なんで紗輝が知らないわけ? あんた達さ、付き合ってるわけじゃないの?」
「う、うん……実は、あの日以来一度も会っていない……」
「ふーん」明日香は腕組みをし、斜めからわたしを見る。わたしの表情を見ながらニヤニヤとする。「ははーん。さてはあの子とやってよかったからもう一度相手してほしいって、そういうわけね……」
いろいろ否定したいけれど、わたしはあの夜武本君とセックスをしたことになっているし、そのことから説明するわけもいかない。結局わたしは嘘を隠すために、またつまらない嘘を重ねなければならない。
「うん。別にね、そこまでのことはないんだけど、その……まあ、一応キープとして連絡先ぐらいは確保しておいてもいいかなって……」
「へー、アンタもなかなか言うようになったねえ。まあ、いいさ。アタシが大地(須藤先輩の下の名前だ)に聞いておいてあげるよ。今日もこれからデートだし」
「う、うん。ありがとう……」
そんな会話を交わしたあと、わたしは放課後に一人学校近くのショッピングモールに向かった。九月も終わり、そろそろ肌寒くなってくる頃だ。上着の一枚でもそろそろ新調しなければと思っていた。そこで、思いがけない人物に出会った。武本君の友人で、明日香の恋人の須藤先輩だ。須藤先輩はひとりの様子だった。わたしは須藤先輩のところに駆け寄り挨拶をした。そしてきょろきょろと周りを見回す。
「あの、今日は明日香と一緒じゃないんですか?」
今日これからデートと言っていたので、明日香も近くにいるのではないかと思ったからだ。しかし、須藤先輩の口から出てきた言葉は、おおよその予想すらしていなかった言葉だ。
「明日香? えっと……誰だっけ?」
きょとんとしてしまったわたしの目を覗き込むような形で、須藤先輩も同じくきょとんとしている。何と言ってよいのかわからず困っていたところで、須藤先輩は何かを思い出したように口を開いた。
「ああ、そうそう。たしかあの日、笹木さんたちと一緒にいた子だよね?」
「は、はい。そうです……」
それ以上の言葉は思い浮かばない。私の名前さえ覚えていてくれた須藤先輩がまさか恋人の名前を忘れるはずもない。しかもこの様子ではあの日以来一度もあったこともないという様子だった。まして今日、デートの約束なんてしているはずもないのだ。
「あ、いえ、なんでもないです」
「なんでもないってことはないよな。もしかして、武本の連絡先が知りたいのか?」
「え、あ、はい…… で、でも、何でわかったんですか?」
「うん、いやね。さっき小堀……ほら、あの日武本と俺ともう一人いた奴、憶えてるよね?」
「は、はい」
「実はさ、さっきまでその小堀と一緒にいたんだけどな。そしたらあいつの携帯に着信があって、その相手に武本の連絡先を教えていたんだよ。俺はてっきり新しいメンバーが部屋を借りたいのかと思って特に気にもしていなかったんだが、あの電話の相手ってのはきっとその明日香ちゃんって子だな」
「え、ちょ、ちょっといいですか? その、部屋を借りるってどういうことですか?」
「う、あ、ああ……なんていうか、まあ、そのだな…… まあいいさ。それより笹木さん、何で武本の連絡先知りたいわけ? なんか、小堀の話じゃ二人はそれなりに仲のいい関係だとかなんとか言っていたんだけど……」
わたしは必死に何かいい言い訳がないかと戸惑っていた。しかし、そんなわたしを姿を須藤さんはすべてを見抜いていると言わんばかりの表情でこちらにニコニコときれいな笑顔で微笑んでくる。
「ねえ、笹木さん。今からちょっと時間大丈夫? 実はさ、お願いしたいことがあるんだけど……」
ショッピングモール内のチェーン店のコーヒーショップに入ったわたしたちは熱いコーヒーを片手に隅の方の席に座る。実はわたしはこの手のコーヒーショップは苦手だ。蓋のついた紙のコーヒーカップはなかなか冷めないし、周りにはたくさんの人がいる。こんなところではとても落ち着けない。しかもこんなイケメンの須藤先輩ともあれば周りの目をいやでも惹きつけてしまう。そしてそれに釣り合わないわたしのことを周りがどう思って見ているのかを考えると気が気でない。気まずさを紛らわせるため、なにか会話をしなくてはいけない。
「あ、あの……今日は先輩、部活はお休みですか?」
「ああ、俺はもう三年だからな、引退したんだよ。でも、時々部には顔を出すけどね。進学先ももう決まってるんだよ。レスリングの強化選手ってことで大学の推薦がもらえたから、これからもレスリングを続けて行かなくちゃならないからな。それなのに体がなまっちゃいけないだろ」
「そ、そう、ですか……」
話は終わった。わたしは会話を続けるのが得意ではない。そしてモジモジしてしまうわたしに須藤先輩が話しかけてくる。
「で、笹木さん。聞いておきたかったんだけど、」
「は、はい」
「あの日、武本とはセックスしてないよね?」
「えっ、あっ、はわあっ、わわわわ……」
「ああ、ごめん、こんなところでいきなり話す内容でもなかったかな。でもさ、小堀に聞いた話があまり信じられなくてね。その様子じゃ図星のようだね」
「ああ、えっと、そのう……」
「なにをそんなに慌ててるんだよ。さては、あまり知られてはいけない内容だったかな?」
「……ああ、は、はい……すいません、どうかこのことは皆さんには内密に……」
「まあ、願ったりかなったりだな。さっき、お願いしたいことがあるって言っていただろう? もし、そのお願いを聞いてくれたならそのことは秘密にしておこう。それに、武本君のメアドも教えてあげるよ」
「な、何をすれば……」
「笹木さんには俺の秘密を知ってもらおうかと思ってね。これで互いに秘密があるわけだ。絶対に裏切りっこなしってことで……」
わたしは須藤先輩の申し出を受けることにした。
翌日放課後、わたしは喫茶店リリスに向かった。以前は足しげく通っていたこのお店だが、マスターに手渡たされた小説を読んで以来、気まずくなって足が遠のいていたのだが、約束していた須藤先輩に近くで待つように言われ、行くあてのないわたしはつい、この場所を選んでしまった。
運命っていうやつは本当にあるのかもしれない。須藤先輩からの連絡を待っているあいだ、以前と同じように読書をしながら待っていたところ、そこに武本君が現れた。互いにあの夜の非礼を詫び、お互いに少し理解しあえた気がした。今なら、わたしはきっと武本君と友達になれるかもしれない。それもきっとかけがえのないような……
しかし、その時須藤先輩からメールが来た。わたしがその内容を確認して、急ぐようにその場を後にしたのはきっと、今からわたしのしようとしている行為が武本君にとって、とても後ろめたい行為だったから。
その日、そのタイミングで武本君がそこに現れたのも、武本君と会話を交わしている途中に須藤先輩からメールが来たのも特別偶然というわけではない。わたしと須藤先輩はその日、武本君の部屋で、武本君がいない間に密会する約束をしていたのだ。
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