第27話 破滅の始まり


武本誠人  破滅の始まり



「急で悪いんだけどさ、今日これから部屋が借りられないかな」

 僕の部屋のレンタルは完全予約制だ。本来ならば問答無用に断る所なのだが、相手が須藤先輩というのならば話は別だ。須藤先輩はぼくにとっての恩人でもあるし、憧れの先輩でもある。可能な限りはリクエストに応じたい。ちょうど今から借りてきた映画を見ようと思っていたが、レンタル期間は一週間あるし、今すぐ見ないといけないわけでもない。「OKです」というメールを送り、外出する準備をする。たびたび利用してくれる須藤先輩の相手はあの夜、二人で抜け出したという明日香という子だろうか。正直、ぼくはあの明日香という子が苦手だった。なにかにつけて見栄を張りたがるような子で、おそらく須藤先輩に言い寄っていたのも、きっとあんな恋人を横に置いておけばきっとみんなが羨むだろうと思ってのことだろう。相手の中身を見るではなく、うわべだけを見て自分のアクセサリーくらいにしか思っていないような女だ。  

……よくは知らないけれど。

 少なくとも須藤先輩にはきっともっと素敵な相手がいるのではないかとひそかに思っている。

二人の逢引中近くの喫茶店で読書をして時間をつぶすので、読みかけの文庫本を貴重品持ち出し袋に入れる。念のため、借りてきた映画も一緒に袋に入れておく。別にR18作品というわけではないが、ちょっとばかりマニアックなやつなので、誰かに見られるとちょっとだけ恥ずかしい。


 喫茶店リリスに到着し、いつものようにいつものテーブルに着く。十月になると日々が少し肌寒くなり、さすがにアイスコーヒーは無理、今日は暖かいコーヒーにしようかと思っていた。と、隣の席にふと視線をおくり、僕の胸は息がつまり時間が止まったかのような錯覚に陥った。

 となりの席に座るその女性客は、まだなみなみとコーヒーが注がれているにもかかわらず、いつ淹れたのかもわからないような完全に湯気の立たない冷めきったコーヒーがそのまま放置されているにもかかわらず、それを無視してすっかり読書にいそしんでいる。眼鏡をかけたその姿は最後にあったあの夜に比べると随分落ち着いた印象を受ける。学校が始まったので。ライトブラウンの髪を黒く染めたせいもあるだろう。本来の彼女に少し戻ったような気がするが、ナチュラルな薄いメイクは夏のころに比べると随分うまくなった。唇のグロスが以前にはなかった色香を感じさせる。

 なんということだろう。ぼくがフラれ、彼女のことをすっかりあきらめたのが約二か月前。あの日以来彼女はこの喫茶店に現れることもなく、どこで何をしていたのかしれなかったが、今こうして再会したと言うだけのことでこうも簡単に熱が再開するなんて思いもしなかった。

 相変わらず笹木さんは読書に夢中で隣に座るぼくのことになんてまるで気づかない。以前のぼくはいつもそんな彼女をただ見つめるだけだったが、あのころと違うこともある。あの夜以来、ぼくは彼女と顔見知りにになっているということだ。

「あ、あの…… 笹木さん、だよね」

 十分に落ち着いてから話しかけたつもりだったが、見事に声が裏返った。ぼくの声に反応した彼女は不意にこちらを振り向き、こちらの目を凝視した。

 眼鏡はかけていたが、おそらく視力の悪い彼女は文庫本から反らしたばかりでは上手く焦点が結べないのだろう。ぼくの顔を覚えていないということではない……と、思いたい。

 少しして、彼女の視線はぼくの眼球の握りこぶし一つ分向こうで定まった。声には出さないが、グロスで潤った唇が小さく「あ」の形で固定する。

「久しぶり……だよね」

 彼女は一瞬戸惑ったが、まばたきを一つして平常をとりもどした。

「そうよね、たしか武本君? ……の家はこのすぐ近くだったのよね」

「う、うん。それはまあ、そうなんだけどね。それにしても笹木さん、この店に来るのはずいぶん久しぶりだよね。どこかいい店でもみつけたの?」

「え?」

 彼女の『え?』の言葉で、ぼくはやらかしてしまったことに気が付いた。たぶん彼女の中では、あの夜、ぼくと初めて出会い、その一回きりしか面識がないものだと思っているのだ。ぼくはしばらく会っていない内にそんなことをすっかり忘れてしまっていた。今更うまい嘘をつくほどに器用な人間ではない。正直に打ち明けることにした。もちろん、ずっと笹木さんのことが好きだったなんてことは抜きにして。

「ぼくはずっと前からこの店の常連客だったんだけどな。家だってこの近くだし、しょっちゅうここに来て、笹木さんの横で読書をしていたんだけど……それこそ笹木さんがまだ長い黒髪だったころのことなんだけど……やっぱり憶えていなよね。いつだってずっと本に夢中だったから……」

 ぼくの話を聞いた笹木さんは思わず顔を真っ赤に染めた。耳まで真っ赤に染まり、ぼくは思わずマスターに暖房を切ってもらおうかと思ったくらいだ。――嘘だけど。

「な、何で、あの時言ってくれなかったの?」

「だってさ、あの時の笹木さんはまるで新しく生まれ変わったというような雰囲気で、きっと過去の話なんて聞きたくないだろうと思ったから……その……言い出せなかった。

 嘘だった。単にぼくの存在に気付いてなくて、恥ずかしくて言い出せなかっただけだけど。

「そ、そう……気、気を遣ってくれていたのね……そ、その……ありがとう……」そして笹木さんは目を反らした。その続きの言葉はきっとありがとうと言う言葉よりもいっそう恥ずかしい言葉だったのだろう。彼女にとっては。「そ、それから……ごめんなさい」

「ごめん?」

「あ、あの時は……あなたとは友達になれないなんて言ってしまって…… そ、その……

あの時は、と、友達を選んだ方がいいって言われてつい、かっとなってしまって……

 たしかに武本君の言う通りなのかもしれないけれど、それでもわたしにとってはたった二人の大切な友達だったから…… おかしいでしょ、わたし、友達がいないので……」

「あ、ああ……ぼくの方こそごめん。実は、ぼくも同じような境遇で…… あの時の言葉は……自分自身に言ったようなもので…… ぼくも友達が少ないんだ……実はそれで……」

 ここまでくれば、あとはもう簡単なことだった。お互いに少しばかりのすれちがいこそあったけれど、「友達にになろう」と、それさえいえばいいだけのことだった。

 しかし、そのタイミングで運悪く彼女のスマホがなにかのメッセージを着信したようだった。それを見た彼女は顔を赤らめ、緊張した面持ちで冷め切ったコーヒーカップを手につかみ、冷めたコーヒーを一気に胃の中へと流し込んだ。

「ご、ごめんなさい。武本君。わ、わたし今からちょっと用事があるので……」

 それだけ言い残して彼女は足早に出て行ってしまった。まあ、今日のところは仕方がない。今日のところは互いの誤解が解けただけでも十分な収穫だ。未だ連絡先すら聞いていないが、あの様子だときっと彼女はまたこの店に来るだろう。その時にまた話の続きをすればいいだろう。その時はそう考えていた。


 三時間後、予定通り持ち出した文庫本を読み終わった時、ちょうど須藤先輩からメールが入る。

《部屋を出た。もう帰ってきてだいじょうぶです。いつもサンキュな》

 定型文ではあるが、それでも先輩、しかも憧れの先輩から敬語交じりのメッセージが届くというのは悪い気分ではない。メッセージを受け取り、すぐにアパートへと戻った。部屋はきれいに片づけられている。テーブルの上の封筒が置いてあり、いつもの通り3000円が中に入っている。少しばかり眠かったのでちょっとだけ休もうと思い、ベッドの上に横になる。まだ、少しばかり暖かい。この温かみは須藤先輩の物だろうか、それとも明日香とかいう子の物だろうか。匂いを嗅ぐと、甘い香りが漂う。おそらく少し前までの時間、全裸でこの上にいたのかと思うと少しムラムラした。やることをやってからとっとと眠りに落ちた。

 

 どこからともなく目覚ましのアラームが聞こえてくる。目をさまし、枕元のスマホをタップする。毎日の慣れた行動なので、目を瞑ったままでもそのくらいはできる。……しかし、音は鳴りやまない。それどころか、よくよく聞いてみればいつもとはアラームの音が違うようだ。

 起き上がり、自分のスマホを確認するがまったくの無反応だった。鳴っているのはぼくのスマホじゃない。時間はまだ午前六時だ。学校近くに住んでいるぼくがこんな早い時間にアラームをセットするはずがない。しかし、昨夜は風呂にも入らずに眠りに落ちてしまったことを考えると、この時間に起きれたことはむしろありがたい。

しばらく捜した末、ベッドの下の隙間から自分のものではないスマホが発見された。液晶の画面にひびが入っているのは別にベッドの下に落としたからロいうわけではないだろう。ひびが入っているうえに応急処置で保護フィルムを張っている。プリクラなどのいっさいの装飾が施されていないスマホは一見すると男の物のように見えるが、かろうじてかわいらしいストラップがついていることから須藤先輩のものではないということはわかる。立派な鼻髭を生やした招き猫のキャラクターはたしか〝吾輩は夏目せんせい〟というマニアックなキャラクターだ、一部の文学乙女の間で人気を博している。須藤先輩の連れの持ち物だろう。無くしたというのであればきっと困っているはずだ。女子であればなおさらと言えるだろう。須藤先輩に早く連絡を取って、なるべく早く手元に戻るようにしてあげた方がいいだろう……が、しかし、思えば昨日からこのスマホ宛てに着信の一つあったわけではない気がする。眠っていたのだからはっきりとは言えないが、就寝中、鳴ったような形跡は見られない。だとすればその女性は何と友達の少ないやつなのであろうかと思い、少しだけ同情した。


 朝の内に須藤先輩に連絡をとりスマホを渡した。教室に戻り、一人窓の外をぼんやり眺めていたところに写真部の友人、鎌野良太が駆け寄ってきた。

「ねえ、まーちゃんとやったあの子さ……」

「え?」

 良太がだしぬけに言ったその言葉に一瞬。上手く反応できないでいた。

「ほら、おれが前に写真を撮った、あの、眼鏡の地味子さん……」

 ――そうだった。ぼくはあの夜、笹木さんと二人で寝室に入り、そこでセックスをした。だからぼくはもう、童貞ではない。

 ――嘘だけど。ぼくはまだ童貞だし、キスだってしたことない。しかしなぜかそういう設定になっているのだ。どこからどう噂が廻ったのか、それはすでに周知の事実となっている。まあ、ぼくとしては童貞であることをごまかすのにちょうどいい噂ではあるのだけれど……

「で、笹木さんがどうかしたのか?」

「う、うん。まあね。あの一件以来、随分とビッチになったっていううわさだよ」

「ビッチ?」

「そう。なんでもちょっとお金を払うだけで誰とでもやるんだってさ」

「へ、へえ、そうなんだ…… まあ、ぼくには関係ないけど」

「ひょっとしてまーちゃんとしたのがすごい気持ちよくって、すっかりはまっちゃったのかもね」

「ま、まあ、それはあるかもしれないけどね」

「うん? どうしたのまーちゃん。なんか動揺してる? ひょっとして元憧れの彼女がビッチになったことにショックを受けてる?」

「そ、そんなことないさ。別にぼくとあいつに大した接点なんてないんだからさ。ただ、一回やったってだけだよ。あいつが今、どうなっていようと関係ないよ」

「ふーん。なーんだ。そうならいいんだけどね。

 でもさ、あの子、地味だ地味だと思っていたらさ、最近急にあかぬけちゃってさ。せっかくだからぼくも相手してもらおうかなーって…… あ、別にまーちゃんの許可なんて得る必要ないか」

「あ、ああ。別に関係な、ないな…… す、好きにすればいい……」


 ――人の心というものは、こうももろく簡単なものなのだろうか。いくら、どう足掻いたって自分の心には嘘がつけないのだ。いくら強がってみようとも、動揺の色は隠せない。あの夜以来、二カ月ぶりに彼女との擦れ違いが修復できそうだと思ったのがつい、昨日の夜のことだ。  

しかしながら、元々ぼくとは何の関係もない彼女だ。なのにその彼女がビッチになってるって聞いただけで、胸が苦しくてしょうがない。この胸の内を誰かに聞いてもらいたいが、あいにくぼくには友達が少なく、良太にはつまらない見栄を張ってしまっばかりで相談なんてとてもできない状態だ。

 しかし、こんな時に役に立つのがネット上の友達だ。ぼくの素性を知らない相手だからこそ見栄を張る必要が無く、本音で話し合うことができる。しかしよくよく考えてみると、本当のぼくを一番知っているのは彼女(?)かもしれない。

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