第23話 ビジネスの始まり
武本誠人 ビジネスの始まり
夏休みが明ける前日、再び実家を後にしたぼくが誰もいないアパートの外階段から二階に上がり、一番奥の部屋のドアの鍵穴にキーを差し込み、くるりと回転させると、金属ドアの内側でサムターンがカチャリとまわる。その瞬間、違和感を感じた。いつもと何かが違うと感じた。その理由はすぐにわかった。ドアノブをひねるが、ドアは開かない。そう、先程の違和感はサムターンがいつもとは逆方向に回転したからだ。鍵を開けたのではなく、閉めてしまったのだ。ゆっくりと朝のことを思い出してみるが、たしかに自分はドアに鍵をかけて家を出たという記憶がある。では、なぜ今こんなことになっているのか……
あまり、楽観的な想像には至ることができない。再び鍵を開け、恐る恐るドアノブを開きかけてはっと思う。もし、部屋の中に誰かがいたとすれば、たとえばそれが強盗であったりなどすれば鉢合せをするのは危険だ。あるいは顔を見てしまっただけでもあとで隠ぺいのために命を狙われるかもしれない。
幸いここは二階だ。もし、犯人が今、中にいたとして住人の帰宅を悟れば、二階のベランダから逃げることもできるだろう。そこでぼくは自分のアパートの中に向かって大きな声で言った。
「すいませーん。今帰りましたー。玄関からゆっくりと部屋に入りまーす」
そして、ゆっくりとドアを開け、部屋の中の様子を見る。その時、自分の犯した失敗に気付く。玄関に知らない靴が置いてあるのだ。それまでの間、部屋の中にいるのは須藤先輩なのではないかという考えもあった。その日も再びぼくの部屋をラブホ利用しているというのであれば気まずいところに遭遇してしまうかもしれない。その場合においても声を掛けてから入れば最悪の事態は避けられるはずと考えていたが、玄関に置かれている靴は男性のものが一足だけ。しかも須藤先輩の物にしては明らかに小さい。犯人は小柄な人物とみて間違いない。
ならばやはり、強盗が侵入していると考えた方がよさそうだ。しかも犯人は結構紳士的な相手で、強盗に入る際、丁寧に玄関で靴を脱いで入ったのだ。つまり、裸足の状態でベランダから飛び降りることは危険が伴い、場合によっては玄関に靴をとりに来て鉢合わせするかもしれない。あるいは裸足のままベランダから飛び降りたとしても、自分の靴が証拠として警察の手に渡ればつかまってしまうことを懸念して再び靴をとりに来ることも考えられる。今すぐここから逃げ出さなくては。そうは思うがあまりの恐怖のあまり足がすくんでしまい、思うように身動きが取れない。いったいどうすれば……
その時、部屋の奥の方から犯人の声が聞こえた。
「さっきから何言ってんのー、まーちゃん。自分の部屋なんだから遠慮なく入っておいでよ」
聞き覚えのある声だった。
「な、なんで良太がここにいるんだよ」
「いや、何でって、ここ、学校から近いし、いろいろ便利じゃん」
「そう言うことじゃなくってさ、何でぼくの部屋の鍵を良太が持ってるんだよ」
「いやいや、そんなの持ってないよ。別に鍵なんて持ってなくってもあんくらい簡単にピッキングできるだろ」
良太はこっちの学校に転校してきて初めてできた友達だ。寂しさのあまり、他の友達には教えないという条件でアパートの場所を教えて、何度かこの部屋に遊びに来たこともあるが、まさかピッキングして部屋に侵入する奴だとは思っていなかった。家から近いという理由で安直な考えで編入した東西大寺高校だったが、共学は名ばかりのほぼ男子校であるばかりか、まさかこれほどまでに変なやつぞろいの学校だとは思ってもみなかった。
ぼくの部屋の漫画を読みながらくつろいでいる良太は「あ、そういえばこれ」と、僕の前に手紙の山を差し出した。
「なんだこれ?」
「さあ、しらないよ。おれがこの部屋に来たときにはもうあったんだ。たぶん夏休みの間にこの部屋宛てに届いた手紙じゃないのかな。きっと誰かがポストからわざわざ取り出してここにおいていたんじゃないかな」
手紙の山のほとんどは大概いつものように送られてくる広告やDMの類だったが、その中に紛れて無記名の封筒がいくつか混ざっている。どこにでもある茶封筒で、封を糊付けしてあるでもなく、何も書かれていない。郵便局を介さずに、直接ポストに届けられていたものだと思われるものが全部で五通。そのそれぞれにきっちり三千円ずつ、合計で一万五千円入っていた。考えるまでもなく。それを入れたのは須藤先輩なのだろう。おそらく須藤先輩がぼくの部屋をラブホ利用した回数が五回。それぞれ一回につき三千円の料金を支払ったということなのだろう。宿泊したのか休憩したのかどうかは知らないが、決して安い金額ではないその料金を律儀に支払う須藤先輩には敬意を払える。まあ、たしかに無料というのも親切すぎるかもしれないのだ。誰と使ったかもわからないベッドを今夜からぼくが使うわけだし、現にリビングのソファーに座ってテレビを見ているときだって、ぼくは時々思い出す。あの日小堀君とエレナちゃんとが淫らに抱き合っていたことを考えると少し複雑な気持ちになるときだってある。その慰謝料だと考えればぼくにはこれを受け取るだけの権利は充分にあると考えられる。
そして、そのお金に対し、ぼくは感謝の気持ちと、これでどうにかなるのではないかという考えが巡った。
昨日の夜。実家を出て再びこっちへと帰ってくる準備をしている時、父親がぼくに向かって言った。
「なあ、まこと。あのアパートな、そろそろ引き上げたいんだが……」
「え、そんなこと言ってもさ、ぼくだって学校があるんだからさ。こっからじゃ通えないでしょ」
「学校ならまた編入してこっちの学校に戻ってくればいいだけのことじゃないか」
「そ、そんなこと言ってもさ、ぼくにだって友達がいるんだ」
「友達ならまたこっちに帰ってきてつくればいいだけの事だろ。ウチだって金に余裕があるというわけでもないんだ。いつまでもお前を独り暮らしさせるためにだな……」
「なんだよ、友達なんてまたつくればいいだなんて、そんな簡単に言わないでよ! そんな簡単に友達ができるくらいならぼくだって!
も、もういいよ。ぼくはこんな家なんて出て行くから! アパートの家賃だって払ってくれなくっていい。アルバイトをしてお金を稼ぐから、ぼくはあのアパートで暮らしていくよ!」
そんなつまらない喧嘩のような言い争いをして家を出てきた。思えば家を出てきたとはいえ、学校の授業料だって払ってもらっているわけだし、生活費だってかかる。アパートの家賃をアルバイトで稼いだからと言ってすべてがどうとなるものでもないのだが、家を飛び出してきたからにはこちらにだって意地というものがある。とりあえず当面の生活をどうにかするためにはこの一万五千円は貴重であると同時に、これはまたとないビジネスだと感じたのだ。
人生で一番楽しい。といわれた高二の夏休みは、何一つ良い結果を残さないままに終わりを告げた。その夏に起きたいくつかの出来事は、今となっては跡形もなかったように元の生活が始まる。結局のところ、唯一の友人良太がいるだけのもとの生活だ。しかし、彼女の生活はがらりと変わってしまっているようだった。
「ねえ、まーちゃん。この間の眼鏡の地味子なんだけどさ」
「うん? あ、ああ……」
思い出したくもない過去があるが、そういえば良太はぼくがまだ、彼女に片思いを続けていると思っているらしい。
「最近、すっかり様子が変わったよね。ねえ、知ってる? すっかりイメージチェンジして、まるで別人だよ。この間ちょっとすれ違った時、一瞬誰だかわからなかったよ」
「あ、ああ……」
「なんだ。あんまり興味なさそうだね。せっかくおれが気を利かせていろいろ調べてみたっていうのに…… 名前は笹木紗輝。おれらと同じ芸文館高校の二年生」
「あ、ああ。知ってる……」
「なんだ。知ってるのか。ちょっと前まで名前も知らないみたいだったけど……」
「あ、ああ…… 夏休みに知りあいになった……」
「ふーん。やっぱりそうか…… まあ、とりあえずはおめでとう。といったところなのかな」
「おめでとう? いったい何のことだよ」
「またまたとぼけちゃって。おれの情報網を甘く見ないでほしいな。おれが手に入れた情報では、ずっと地味で通ってたはずの笹木紗輝は、夏休みのある日を境に急にあかぬけたっていう話さ。なんでも友達と一緒に乱交パーティーに参加して、それからというもの、すっかりビッチになったっていううわさだよ。よほどその乱交パーティーが楽しかったらしい。……で、その乱交パーティーの会場っていうのがさ、ま、いろいろと都市伝説みたいにささやかれているんだけどさ。……もう、わかるよね?」
「つ、つまり、ぼくのアパートってこと?」
「またまた、とぼけちゃって。どう考えたってそこにはまーちゃんだっていたってことでしょ?」
「え……」
――思い当たる節は確かにある。たしかにあの夜、エレナちゃんと小堀君とがぼくの部屋でやっていたということはまぎれもない事実だ。そして二人で部屋を抜け出した須藤先輩と明日香ちゃんとがどこかで何かをしたということは考えてみればわかりそうなことだ。しかし、あの時、寝室にいたぼくと笹木さんは何もしてはいない。してはいないが、咄嗟とはいえぼくがあの時の起こした行動は、寝室の外にいた小堀君たちにあたかもエッチなことをしていると勘違いさせる行動だった。〝乱交パーティー〟と言えば語弊があるかもしれないが、それに似たこと、あるいは噂の背びれ尾びれがついてそう言われるようになったことは充分すぎる考えだ。もしかするとぼくの部屋を借りたいと言っていた須藤先輩は夏休みの間、ぼく以外の誰かを加えて本当に乱交パーティーをしていたのかもしれない。
「でもまあよかったじゃないか、結局のところ思いを寄せる笹木紗輝とは一発ヤレたわけだね」
「え、あ、ま、まあ……」
――嘘をついた。
ぼくは相変わらず童貞のままで、笹木さんにはあっさりとフラれてしまったわけだが、周りがそう思っているというのならば、そう信じさせておくことに何ら問題はないだろう。ぼくだっていつまでも童貞だとバカにされるのは癪に障るし、笹木さんをかばう必要さえ失ってしまったようだし……
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