第22話 セックスは結婚するまでは……
着信があったのは夕方の六時くらいだった。その日は店の定休日で家にいた。夕方のニュースをつけて、家でインスタントのコーヒーを飲みながら仕事の伝票の整理をしている時だった。
覚えのない、03から始まる東京からの着信は大体が営業の電話だ。いったいどこでこの番号を知ったのかは知らないが、決まって不動産の購入を勧めてくる。こんな貧しい家庭のどこにそんな余裕があるというのだろうか。あるいはクレジットカードを作る際の申込書に〝自営業〟と書いてあるのがいけないのだろうか。世間一般では自営業は金を持っているイメージだとよく言われるが、実際身の回りにいるレストラン経営者は皆、決まって火の車だというのに。
その日の電話も大方そんなことだろうとタカをくくり、「はい」と、無愛想な返事で電話に出た。
『芹沢恭介さんのお電話でよろしいですか』
という、相変わらずの決まり文句。丁寧な言葉遣いのオペレーターの声にやはりなと思い、再び「はい」と、無愛想に答える。電話口のその相手が次に発した言葉で思わず息が詰まる。K出版社の編集と名乗るその女性は「まつきかおり」と名乗り、僕の作品が、最終選考の候補に挙がり、その作品について確認を取りたいということだった。その作品が、オリジナルのものであるかどうか、商業的な出版をしていないかどうか、また、今現在その作品をネット上に公開しているかどうか、さらにはツイッターなどSNSでの発言などに関する注意事項などの説明を受け、念を押して、編集部から連絡があったことを決して公にしてはいけないということだった。
その言葉を聞いて、まっさきにこのことを話したいと思った相手は妻ではなく、福間だった。しかし、彼も同じく編集部からの連絡を待ちわびている人物のひとりであり、公という言葉が当てはまる人物であり、決してこのことは言ってはいけないのだと思うと、正直淋しい想いがした。
では、妻に話すか。
その事に関してはどうするべき迷うところではあった。おそらくその話をして、素直に喜んでくれそうな気がしないのだ。それを考えれば、一体なぜ、あんな女性と結婚してしまったのだろうかという気持ちが起こる。もし、時間を巻き戻すことができたのならば、結婚しなかっただろうか……
そんな気持ちが起きる中、その編集者、まつきかおりは突然、思いもよらぬことを言い出した。
ひととおりの説明が終わり、また改めて連絡をするとの旨を述べ、そのまま電話を切ろうとしたその時だった。少しばかりの沈黙があり、そのまま静かに通話を終了するボタンを押そうとした時、「あの……」と、彼女は呟いた。耳から一度話していたスマホからの突然の声に、慌ててもういちど耳元に当てると「は、はいっ」とうわずった声で返事をした。編集者と名乗る彼女を言葉を、一字一句聞き逃すわけにはいかない。僕はスマホを耳に当て、次に発せられる言葉を待った。そして、次の言葉が得られるまでにしばらくの時間がかかったのは、電話口の向こう側にいるその女性の中で、いくつかの葛藤があったのだろうと思われる。
「芹沢君……だよね」
「は、はい。芹沢です」
「ううん、そうじゃないの」電話口の向こうでくすりと小さく笑う声が聞こえた。「芹沢、恭介君…… わたし、かおりです。平澤……かおり……」
初めのうちは、なにを言っているのかわからなかった。なぜ、彼女が平澤かおりのことを知っているのかがわからなかった。編集と名乗る彼女が僕の小説を読んだということは十分理解しているつもりだ。しかし、そこに登場している人物のモデルが平澤かおりだという表記はどこにもないはずだ。それにもし、彼女のことを知っている人物があの話を読んだところで、そのモデルが彼女であることに気付くのは、おそらく本人でもない限りありえない事だろう。と、そこまで考えて、ようやく〝まつきかおり〟が、結婚して姓の変わった、元、平澤かおりであることに気が付くまでにこれだけの時間がかかったことをどうか笑わないでほしい。それほどまでに僕は気が動転していたということだ。
中学三年生の夏に、僕は彼女と恋人同士になった。しばらくの間、青いながらも春の香りを抱きしめるような輝かしい毎日だった。
成績の優秀だった彼女と僕はそれぞれ別々の高校に進学することになったが、それでもしばらくの間、恋人同士という関係は続いた。
しかし、それがいつまでのことだったのかはよく覚えていない。あるいは初めから恋人同士などでさえなかったのかもしれない。周りの友人たちには、僕たちの関係に対し、そういう言葉を投げかけるものもいた。
「え、まだしてないの?」
高校二年の夏のことだった。僕たちは交際を開始して二年が過ぎようとしていたころ。
付き合い始めの中学生時代、まだ周りには彼氏、彼女のいない人がほとんどだった。そして二人は互いにプラトニックな関係で、そのことに対して自分たちも当たり前のことだと考えていたし、まわりにも異を唱えるものはいなかった。そしてその関係は二年が経過した今だって変わらない。
しかし、高校二年ともなると恋人がいるという状態もごく当たり前のことになり、そしてそのほとんどがプラトニックな関係ではなかった。いや、むしろその行為こそが前提で、皆はセックスする相手を見つけるために恋人という関係を築いた。
そして、そういう人たちからすれば二年もの間恋人同士であるにもかかわらず、一度もセックスをしたことがないなんて、信じられない事だったらしい。
僕だって、初めのうちはそのことに不満なんて持っていなかった。自分たちはそれでもかまわないのだと。
かといって、男である以上、興味がないわけでもない。周りの友人たちの話す経験談に対し、いつまでも冷静でいられるはずもなかった。僕は平澤さんに対し、何度か交渉をしたこともある。しかしいつだって答えは決まっていた。
「わたしの家はね、カトリックなのよ。だから、セックスは結婚するまで絶対にしない」
僕は宗教などには全く興味もないし、カトリックがなんなのかもよくわかってなどいなかった。実際にカトリックの信者のどれほどの割合の人が結婚するまで貞操を守り抜くのか知りもしなかったし、興味もなかった。でも、それなりには彼女に対して理解をしているつもりではあったし、彼女がそういうからにはそれ以上強く要請するわけにもいかなかった。
つまり、僕は決定的に彼女とセックスすることはあきらめるしかなかった。
「結婚したらその時は思う存分しましょう。わたしだって、本当のことを言えば芹沢君と、そういうことしたいのよ」
彼女のその言葉だけを心の頼りに、僕はいつまでも自分の心に鍵をかけることにしていた。
しかし、高校二年のぎらぎらとした夏は、思春期の若者たちにとってそれほど優しものでもなかった。薄いシャツに透ける下着や汗の匂い、それらのすべてが人の理性という理性を奪っていくのだ。そんな時、例えばかわいい後輩の女子生徒にでも話しかけられたらどうだろう?
彼女はわかってやっているのか、僕にふくよかな胸を押し付け、耳元に湿った吐息を漏らしながら囁くのだ。
「――わたし、先輩のことが好きなんです」
僕は、正直に言えばその子のことがそれほどに好きなわけではなかった。しかし、彼女の体つきのことと言えばそれは別の話だ。高校二年生で、しかも童貞の男のすぐ近くに、すぐにでもヤレそうな子がいるとしたら、その子に流れてしまうことを誰がとがめることができるだろうか。
夏の間。僕はその後輩のことを恋人と呼び、夏が終わるころには元の先輩、後輩に戻っていた。そして平澤さんとも、ずっと昔にそうであったように、二人の関係は単なる同級生になっていた。
もし、あの時。あんな間違いを犯していなければ、僕たちは今頃夫婦になっていたのだろうか。もし、そうであったなら、きっとあんなに簡単に小説家になることをあきらめてなどいなかっただろうし、小説を書いていることを妻に馬鹿にされることもなかっただろう……
が、しかし、今更そんなことを考えるのはおろかなことなのだろう。それにそもそも、あの夏、後輩と間違いを犯さなかったとしても、やはり僕はどこかで誰かと間違いを犯しただろう。
それでも、あれから二十年。あの時の出来事を後悔しなかったことはない。そして今、受話器の向こう側で編集者という立場になった彼女もまた、それに似た感情を抱いているらしかった。
「芹沢君。あの時はゴメンね。わたし、もう少しあなたの気持ちをちゃんと考えてあげるべきだったわ」
いまさらそんなこと言ったところでいったいなんになるのだろう。もしあの時、彼女が僕の気持ちをもっと考えていれば、彼女は僕とセックスするつもりにでもなったというのだろうか。いや、そんなことはないと思う。彼女は当時、そのカトリックの掟のようなものを守ることに対し、一種の崇高な自尊心を持っていたし、僕もそんな彼女の自尊心を愛していた。もし、彼女が僕とセックスすると言い出したら、僕は彼女のことを好きではなくなってしまったかもしれないし、あるいは喜んでそれを受け入れたかもしれない。ともあれ、二人はその道を選ばなかった。だから二人は道を分かち、それぞれの今がある。そしておそらく……今でも互いのことを好きでいられるのだ……
「ねえ、芹沢君。あの頃のやくそく、今でも覚えている?」
「約束?」
「やくそく…… 結婚したら、セックスしようっていう話……」
「ああ、もちろん憶えている……」
「わたし…… 結婚したよ……」
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