第21話  リリス


 数日後、閉店間際の店の入り口を内側から眺めていた。木製の玄関扉の上部にはすりガラス状の窓があり、内側からだとリリスという店名のロゴが左右反転して見える。中央に描かれたりんごをぐるりと巻き込むヘビの描かれたロゴだ。リリスというのはそのヘビの名前で、アダムとイヴに知恵の実を食べるようにそそのかしたという。その事を考えてみれば、世界ではじめに人間を騙した動物はヘビということになるかもしれない。

一見、飲食店にはそぐわないヘビのイラストではあるが、〝一度おいしいものを食べてしまい、その味(知恵)を知ったものは、もう後へは戻れない〟という意味を込めた。それに、ヘビは水の神でもあり、商売繁盛の守り神でもあるからだ。

そして、商売繁盛を願うのならば今すぐこのドアを開けてお客さんが入ってくることを祈るべきなのだろうが、今からお客さんが入ってきてしまうと仕事が終わるのが遅くなってしまうだろうと考えてしまい、二律背反する気持ちが頭を巡る。……要するに、キツヨメ状態だ。

そして、そんな閉店間際の店内に訪問してきた男がある。その犯人はい変わらず福間だ。カウンター席に座った彼が開口一番口にしたのは、「二次選考通過おめでとう」だった。

 少しばかりの照れを抱えながらも、それを押し殺しながら黙ってコーヒーを注ぐ。福間にどんな言葉をかけていいのかわからない。前回彼がここに来たのは一次選考の結果発表の日。今年は曜日のせいか、通年より発表が早かったらしい。暇つぶしにスマホをいじっていた福間は一選考の結果が出ていることに気付き、ぽつりとつぶやいた後、まだ熱いコーヒーを一気に飲み干して店を出て行った。結果を一刻も早く知りたかっただろうが、それ以上に緊張もしていたのだろう。そういう時、一人になりたいという気持ちはよくわかる。

 その日の仕事が終わり、家に帰った僕もその結果を急いで確認した。そこに僕の名前はあったが、福間健吾の名前はなかった。それ以来会っていなかった僕は、そのことについてどう話していいのかがわからなかった。おそらく僕なんかよりも福間の方がずっと本気で小説家になりたいと思っていただろう。

 まだ湯気の立ち上るコーヒーカップを手に持った福間は、息を吹いて冷ますこともせず口に近づけ、「あっっつ!」と言って、そのままコーヒーカップをカウンターの上に置いた。

「さすがわいのライバルといったところやな。でも、今年の大賞はわいが頂くからな」

 と、自信ありげな表情で言う。

「落ちて……いなかったのか?」

「失礼なやつやな。わいがそう簡単に落ちるわけないやろ」

「い、いや、わるい。名前が、見当たらなかったのでつい……」

「おいおい、名前がなかったからて、そんなんペンネームつこてるからに決まってるやん。むしろ恭ちゃんみたいに本名で出してりるやつの方が珍しいで」

「いやさ、別にプロとしてデビューしてもいないのにペンネームつくるってのもなんだか恥ずかしいかなって」

「いや、プロとしてデビューしてないからこそや。少なくとも恭ちゃんの本名はこうしてネット上にさらされてるんや。ここまで残ってる数十の名前くらいやったら今頃間違いなく誰かがネットで検索してるで。そしたらその名前で過去にどの賞でどこまで残ったやつかなんてことも一発でばれてまうし、ネット小説書いてるやつやったら、それ経由で作品読みに来るやつかておる。中には応募作がそのままネットで公開されたままのやつかておるしな。そうなればどんなレベルの作品なんか気にって読みに来るやつかて多いに決まってるやん」

「そ、そう、なのか……」

「恭ちゃん、いくらなんでもワナビのことしらんすぎやで」

「ワナビ?」

「それも知らんのかいな、よう、ここまで残る作品書けたな。あんな、ワナビいうんは     

〝I wanna be〟の略で、作家になりたい言うて、それを目指している人のことや。ほとんどの人がほかの新人賞にチャレンジしてたり、過去にええとこまで行ってたりする人がほとんどやし、さっき言ったように、ネット小説書いてるやつかてかなりおるんや。わいかてネット小説を過去に書いてたことあるで。とにかくものすごい数の作品がネット上にあげられてるから、ただ書いてほおっておくだけやったら誰も読んでくれへんのやけどな。それでも、去年。わいこの新人賞で二次選考通過まで行ったんや。そしたらな、その発表の直後からものすごい数の人がネット上の作品読みに来たんやで。まあ、その大半が純粋な読者やなくて、ライバルワナビの敵状視察みたいなもんやけどな。ま、それもなんか歯がゆいカンジしたんで今年の新人賞には新しいペンネームで投稿してみた」

「で、なんていうペンネームなんだ」

「……うーん。やっぱそれはいまんとこパスや。なんていうかな…… ちょっとばかし恥ずかしいペンネームなんや」

「はずかしい?」

「まあ、ちょっとばかしな。もし、その名前でデビューすることになったらバレてまうからしゃーないやろけど、さすがにいまん所は恥ずかしゅうて、よう言わん。勘弁してくれ」

「ま、まあ、そういうことなら仕方ないけど…… ようするに福間もまだ残ってるってことだな?」

「そうや、それはほんまにそう」

「で、福間はどんな話を書いたんだ」

「うーんそやな。わいはまさしくそんなワナビの話書いたんや」

「でもさ、そういうのって結構厳しんじゃないのか。なんていうか、あまりにも王道でおそらく似たような話を書いてるやつも随分と多そうだけどな。何せ小説新人賞に出そうっていうくらいだから、自分のことを書けばいいだけのことだ。ソースを集めるのも簡単でやりやすい」

「ま、奇をてらうっちゅうのは確かにええかもしれんけどな。王道は王道で、それなりに需要があるってことなんや。だから純粋に売れ行きにも影響してくる」

「もう、売れ行きのことなんて考えているのか、ほんとにトラタヌだな」

「はは、でもな、それはほんまそうなんやで。いまどき、小説新人賞なんてとったぐらいでそう簡単に本が売れるほど簡単な世の中やないやろ。なのにここの新人賞とったら無名作家のデビュー作でもしこたま売れんねん。なんでやと思う?」

「なんでだ?」

「ここ、新人賞の応募者だけでも数千人おるやろ。ええか、数千人やで。いまどき無名作家が本出したところで数千なんてなかなか売れん時代や。しゃあないやろ。小説なんで読んでるやつ、ホンマすくないねんから。でもな。小説家目指してるやつらは別や。そらそうやな。元々読書好きなやつでないと自分で書こうなんて思わへんやろし、なんやゆうても小説の一番の購買層はワナビなわけや。そしてそんなワナビ達は新人賞の受賞作はまあたいがい買うってわけや。恭ちゃんかて大学入試の時、過去の問題集こうたやろ。あれと同じや、まあ読んで楽しいというのもあるけど、傾向と対策を練ることかて大事なことや。つまり、ワナビ主人公の話や、小説家が主人公の話は何がどうあったって売れる。一番の購買者の最も気になるネタや」

「つまり、小説の世界は身内周りで書いては売る、マッチポンプ的な世界ってわけか」

「ま、そんなもんやろな。で……ところで聞くんやけど恭ちゃん。小説書いてるってこと、嫁はんには言うてるんか?」

「あ、ああ……まあ、いちおうな」

「なんて言うてる?」

「……『夢なんか見てるんじゃない。賞なんてとれるわけがない』って……」

「うわー、そりゃキツイなー。お前のヨメはん、マジでキツイわー」

「さすがにな。こうなりゃ何としてでも受賞して文句の一つでもいってやりたいとは思うけどな。まあ……どうなんだろうな」

「いや、でもな。ここまで来るとホンマ、受賞した場合のことも考えとかなあかんと思うで。その事でこれからの生活ががらりと変わるかもしれんのや」

「そうはいってもな、まだまだここから先が本当に大変なわけだろ。僕らの作品はとりあえずここまで、約一パーセントの中にまで残ったわけだが、ここから先に進むためのライバルはみんなその一パーセントに選ばれた作品ばかりなんだからさ。今から受賞した時の話なんてとんだトラタヌだよ」

「そりゃそうやけど……トラタヌ話って、楽しいやん」

「楽しいけどさ、泡と消えた時に余計に虚しいぜ」

「恭ちゃんはネガティブやなー。わいなんて、去年もそうやけど、最終選考に残ったら嫁はんに話しようと思ってんねんけど、その時のシュミレーション、何回もしたわ。結局去年はその話、する必要なかったんやけど、なんか、その話をせんで気が楽になったわっていう気持ちと、落ちてもうてその話をするまでもない切ない気持ちとが両立して、複雑やったわ。

 この二律背反が両立する気持ち、恭ちゃん風に言うとなんやったっけな…… ああ、そうや。キツヨメやったな」

「晴れているのに雨が降る天気の俗称、狐の嫁入りの略で〝キツヨメ〟だ」

「キツいヨメの略ではないんやな?」

「おいおい、僕の嫁が聞いたらなんていうか」

「うちかてそうやで、どこの家庭もヨメはんはキツイもんや。ましてわいなんて、受賞したら公務員辞めなあかんのや。その話ヨメにしたら、どんなキツイこと言われることか…… それを考えたらなんや、受賞なんてせんでもええわって思ってまうわ」

「でも、受賞はしたいだろ」

「そりゃ、当たり前や。だからキツヨメやねん」

「二人そろって受賞てのが一番の理想なのかな……」

「まあ、ありえんやろうけど、それが叶ったら最高やな。わいが大賞で、恭ちゃんが金賞や」

「逆だろ?」

「ははは、それはありえん」

「わからないぜ」

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