第20話  キツヨメ


芹沢恭介   キツヨメ



 二次選考通過 『あの夏の出来事はなかったことにした』芹沢恭介


 数千いた応募者はすでに百人以下にまで絞られ、その中に自分の名前を見つけ出した時に、少しだけ身震いをした。

 

「ねえ、あなた。伏見稲荷って行ったことある?」

 三人掛けのソファーを独り占めすようにうつ伏せで寝転がった妻が旅行雑誌を片手に、これみよがしに話しかけてくる。仕事仕事でどこにも旅行につれて行かない僕に対する当てつけだろうか。別に僕だって旅行につれて行かないつもりじゃない。行きたいと言えばいつでも休みを取ることができるのは自営業の特権だ。ただし、営業を休めば休んだ分だけ生活が苦しくなるというのもまた、自営業が抱える責任でもある。行きたいと言わないのであればなるべく休まないように仕事をして、少しでも日銭を稼いでいかなければ生きてはゆけない。

 と、言えば単に言い訳をしているだけのように聞こえるかもしれないが、実際何度か旅行のために休みを取ろうと言い出したことも何度だってある。しかし、計画を立てていくうちにだんだん煩わしくなってきて、

「もう、いいわ、そんなことより生活だってままならないんだから、そんな休みなんてとっている暇なんてないでしょう? 旅行に行けば行くでまたお金がかかるわけだし」

 と言い出すのは決まって妻の方だ。だから別に僕がどこにも連れて行かないわけじゃあない。

 口には決して出さないが、心の中ではそう呟く。

「今じゃあ伏見稲荷は海外からの観光客が多くて、日本の伝統的な寺社仏閣にもかかわらず、まるで日本じゃないどこかみたいだって言うしなあ……」などとつい、言ってしまうのは、遠回しに旅行にいかないアピールなんかではない。相手が興味なくてもつい、自分が知っていることを話してしまうのは僕の悪いクセだ。「それにさ、みんな口をそろえて千本鳥居のことを言うけどさ、たしかにインパクトがあっていいと思うよ。でも、伏見稲荷で一番見ておかなきゃいけないのは五間社流造だよ。それをちゃんと見るためには正面からじゃなく……」

「ねえ、あたしが聞いてるのは、行ったことがあるのかってことなんだけど……」

「いや、まあ…… それは…… ないんだけど……」

 僕のそんな返答を聞いた妻は、「はあーーー」っと、うつむいたまま長い嘆息をした。

「あなたってホント昔からそう、言ったこともないくせに、まるで見てきたかのように言うのね。まるで何度も言ったことのあるような口ぶり。そんなだから別に旅行なんて行く必要なんてないって思っているんでしょうけど、違うのよ。旅行っていうのはそういうことだけじゃないの」

 妻が一体何を言いたいのかはわからない。おそらく何でもいいから僕に対して文句を言いたいのだろう。いったいいつからこんな風になったのだろうか。以前の彼女はこんな風ではなかった…… たぶん。もう、随分昔のことで思い出せないけれど、そうでなければ結婚なんてしなかったはずだから。

 そんな妻に対する不満からだろうか。言うつもりもなかったことをつい口走ってしまう。ちょうど彼女の言った言葉尻を拾い、なるべく自然な装いをして。

「『言ったこともないのにまるで見てきたように語る』か、いいじゃないか。僕は現にそういう職業を目指しているわけだから」

「そんな職業を目指している?」

「ああ、そうだよ。僕は昔から小説家になりたかったんだ。だから少し前に、実際に書いて、新人賞に出してみたんだよ。そしたらさ、今、二次選考まで通過したよ。数千の作品の中から、残り数十というところまで来た。あと少しだよ」

「ふーん……」少し興奮気味に話す僕に対し、妻はあまり無関心な様子で返す。「で、賞を獲ったらいくらもらえるわけ?」

本心ではお金なんてことはどうでもいい、自分の書いた作品が世に出ることができるのかどうかということの方が重要だ。しかし、現実主義的な女性である妻にそんな理屈は何の意味も持たない。

「え……えっと、大賞をとれば、さ、三百万だったけ、それよりも出版されてからの印税の方がもっと……」

「はあ……、夢ばっかり見てんじゃないわよ。せめて賞をとってから言ってよね。それよりさ、そんなもん書いてる暇があるなら、もう少しできることとかあるんじゃないの? もう、夢とか語っていい年でもないのよ、あなたは」

「あ、ああ……」

 素直に返事をしたが、心の中では腹が煮えるような思いだった。次から次へと脳裏に浮かぶ罵詈雑言を思いつくままに妻に対して口に……は、しない。できることと言えば、今はなるべく妻から離れた場所に移動するということくらいだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る