第17話  嫌われる勇気


坂田忍  嫌われる勇気



 初めのうちは何と汚らしい仕事をしているのだと自分を責めていたこともある。しかしそれも慣れてしまえばどうということはなくなった。元来、自分自身を欺くことには慣れていたつもりだ。あともう少し――。いつまでとはわからないが、その時がくるまではひたすらに自分自身を騙し続ける覚悟はできている。

 自分自身にそう言い聞かせ、その汚れた仕事を終えた松永莉那のもとへ風俗店オーナーが怪訝な面持ちで歩み寄ってくる。表には何も書かれていない分厚い封筒を彼女のもとへ差し出す。

「知らない男がやってきて、それを君に渡してほしいって頼まれたんだが…… 中を開けるのは用心した方がいいかもな。もしかするとストーカーか何かかもしれない」

 オーナーは心配しているのかバカにしているのかわからない。しかし、何にせよ大したものではないとタカをくくって中を確認せず彼女に手渡したのはラッキーだったのかもしれない。中を確認していれば、狡猾かオーナーのことだ。その中身を少しばかり誤魔化すようなことをしたかもしれない。

 封筒の中には松永が今まで見たこともないような大金が入っていた。そしてその、いくらとも数えきれない札束とともに一冊の本が入っている。真新しいその新刊の表紙にはどこかで見覚えのあるような女性のイラストが入っている。しかし彼女は、それが今となってはもう過去のものとなってしまった、希望にあふれていたころの自分の姿だと気づくには少し汚れすぎてしまったのかもしれない。


 大賞受賞作 『吝嗇家の薔薇』ナイス坂田

 そして、受賞作であることを表す金色の帯には一言、こう添えられてあった。

『たとえ路地裏に咲くうす汚れた野薔薇であっても、俺にとってそれは薔薇であることには変わりない』

 

「坂田君……」

 松永莉那は一言そう呟いた。半年ほど前、お客として現れたその人物が、同級生の坂田忍であることを彼女は気づいていた。本人は否定したが、見間違えることなどあるわけがない。なぜなら坂田忍は彼女にとって……

 封筒の中に入っていた現金を掴み、彼女の頬は涙にぬれていた。これで、ようやくこの牢獄から出られる……。しかし、彼女にとってそれはひとつの始まりでしかなかった。彼を捜さなければならない。たとえどこへ行こうとも、かならず見つけ出して見せる。それが私の新しい物語。もう、わたしは自由なのだから……


 完璧なシナリオだった。

 この新人賞で大賞をとって、デビュー作が十万部を突破。その賞金と印税で彼女を救い出して見せるという計画は儚く散った。

 二次選考通過者のリストの中に『ナイス坂田』の名前はどこにもなかった。


 新人賞をとれなかったという事実より、彼女を救うすべを失ったショックの方が大きい。オレはヒーローになんてなれない。それどころかいまだに内定の一つさえもらっていない。八月もいよいよ中盤に差し掛かり、未だに内定の一つもらっていないオレに人のことを心配している余裕なんてない。このままでは来年の今頃はニートだ。

そんな時、渉からラインのメッセージが届いた。どこかに遊びに行こうという誘いだ。まったく。就活を終えた奴は気楽でいい。これから卒業までの半年間、思う存分遊べばいいだけのことなのだから。


安い居酒屋で落ち合ったオレたちは酒を飲みながら話をする。どうにも渉の様子が芳しくない。内定を取り消されでもしたのか、それなら手をたたいて喜んでやるところだが、そういうことではなかった。

「実は、頼みがあるんだよ」

「なんだよ、頼みって。そういうのお前らしくないな」

「ああ、実はな、K出版の編集部に内定が決まったっていうのは言っただろ。それでさ、あの会社、来年の入社時までに宿題出してきやがんだよ」

「宿題?」

「ああ、会社の指定した本、百冊を読んで、その百冊の要点をまとめたうえで自分の感想を書いたものを提出しなきゃいけないんだよ。百冊だぜ、百冊。今から四月まで約二〇〇日あるとして二日に一冊だ。どう考えたって読めるわけないだろう。そんなの!」

「いや、読めなくはないと思うけどな。お前どうせヒマだろ」

「いや、ヒマっつったってさ……」

「で、どんな本を読めって?」

「ああ、これがリストだよ」

 まるでこうなることをはじめから予測していたかのように、渉は手早くその印刷されたリストを取り出した。見れば大半が読んだことのあるような名著ばかりだ。中にはごく短い小説も混じっていて、この百冊くらいならそれほどでもないという印象だ。

「大体は読んだことある本だな」

「だろ!」

 話の流れからして〝だろ〟とはおかしなものいいだ。要するに渉はこれらのほんの大半をオレが読んだことがあるという前提で話を持ちかけてきたのだ。したたかなやつとしか言いようがない。

「つまりさ。お前が俺の替わりにこの宿題をやってくんないかなっていうことだよ」

「はあ? なんでそんなことになるんだよ。大体オレはまだ就活が終わっていないんだ。暇なお前の宿題を何でオレがやらなきゃならん」

「だってさあ。お前なら別に読まなくたってそれ、書けるわけだろ。無駄がないじゃん」

「そう言う問題じゃないだろ。それこそお前の得意なネットからのコピペでもして補えよ」

「お前バカかよ。相手は超大手の出版社だぜ。そんなことしたって簡単に見破られるに決まってるだろ。それで内定取り消されたらどうするんだよ」

 ――手をたたいて喜んでやる。と、口には出さないが心の中で呟く。

「それこそ超大手の出版社に就職するんだぜ。それくらい今のうちにちゃんと読んでおけよ」

「おいおい、友達だろ。つれないこと言うなよな。それにさ、なにも別にタダでやってくれって言ってるわけじゃないんだぜ」

「と、いうと?」

「どうせまだもらってないんだろ。内定」

「どうせとはなんだ。それにオレはそれほど就職したいとは……」

「残念だったな。新人賞」

「……知ってたのか」

「まあ、別に来年だってあるしな。それほど気に病むことはない」

「気に病んでなどいないさ。むしろお前の方が気の毒だ。来年就職する会社が、むざむざと未来のメガヒット作を拾い損ねたという事実がね」

「まあ、なんにせよ受賞するまでは食いつながないといけないだろ。それに作家なんて仕事はいまどき兼業でなきゃやっていかれんさ。そこでだ――」

 渉は狡猾な目をした。これが切り札だと言わんばかりにテーブルの上に束ねたレポート用紙を置く。

「それは?」

「これが俺の就活の切り札さ。面接時に提出する資料の中に、可能な場合、これを同封してきた。俺はこのレポートのおかげで実に八か所からの内定をもらったわけだ」

「八か所!」

「ああ、まだ選考結果が出てないところもあるからもっと増えるかもしれないけどな。まあ、どのみち本命が通っているからあとは大した価値など無いんだけどな」

「み、見てもいいか」

 レポートに手を伸ばしながら、仰ぐように渉の目を見た。正直、こんなことは悔しかったが、今更手段がどうのと言っていられる状況でもない。

 渉はそれを了承するかのようにレポートに手を添え、スッと三センチばかりこちらに押し出した。


『わたしが筋ジストロフィー患者と向き合い、感じてきた記録』と題されたそのレポートをぱらぱらとめくる。おおよそそこに書かれている内容としては。大学生活四年間の間、ずっと続けてきたボランティア活動で知り合った筋ジストロフィー患者のケア記録だった。そこには生々しいまでの筋ジストロフィー患者の性生活と、処理について描かれてある。そしてその結びとして、彼らがそれほどまでに性にこだわることと、どんなことをしてでも生きたいと願う、〝生〟についての執着心について結ばれていた。

 それにひととおり目を通し終えたオレを自信ありげに胸を張った渉が見ている。

「こ、これ……」

「どうだ?」

「……まったくの嘘じゃないか。お前、ボランティアなんてしたことないよな?」

「ああ、そんな面倒なことやるわけがない」

「やるわけがないって……」

「なにか問題でもあるか?」

「あ、あるだろ……」

「ないよ。ばれなけりゃあね。まあ、そんなことがばれるわけもないけど。その筋ジス患者は最後に死んだことになっているし、どのみち初めから存在しない架空の人物だしね。大体みんなやってる事じゃないか。人によりその大小はあるけれど、みんな就活の際は少しでも自分をよく見られようと不利な点をかくし、嘘を盛って有利に進めようとしているじゃないか。お前だってそれがまったくないというわけでもないだろ」

「そ、そりゃあそうだが……」

「考え方を変えてみろよ。就職してからも嘘をつきつづけなけりゃならないのが世の中だ。顧客を騙し、ライバルを蹴落として勝ち残っていくのが企業ってもんだよ。つまりこれは自分がいかにして状況に合わせ、上手に嘘をつきながら生きていくことができる人間であるかを証明するものだ。大体企業の面接官だって、多かれ少なかれ就職希望者が嘘をついている事なんて考えていないわけでもないだろう。その上で〝嘘をつく〟という社会適合能力をはかっているとは考えられないか?」

「詭弁だよ。それは」

「その詭弁こそが能力だよ。大体お前だって作家を目指しているんだろ? いいか、作家なんてものはいかにして本当らしく嘘をつくのかっていう職業なんだぜ」

「……」

「手段を選ぶなよ……」

 オレはそのレポートを手に取った。

「交渉成立だな。ああ、そのレポート。俺はもう使うつもりもないから、そのまま使っても問題ないぜ」


 ――もう、手段は選ばない。


 オレは自分自身にそう言い聞かせた。なんとしても残りわずかな時間で内定を取らなくてはならない。オレは渉から受け取ったレポートを手にパソコンを開き、次の面接に向けて吟味しながら企業リストに目を通した。

 しかし、新たな武器を手にしたことによって少しばかり高望みな就職口を見つけたとして、それでも松永さんをあの借金地獄から抜け出させることができるほどに稼げる仕事など見つからなかった。逃げるようにネットサーフィンを始めたオレはそこにある記事を見つけた。


〝ネット小説投稿サイト『マルヨミ』 ネット小説大賞原稿募集中〟

 

 そういったサイトがあるのは知っていたが、今まで新人賞にしか目を向けていなかったオレにとっては未知の存在だった。ネット小説の大きなコンテストがあるらしく、そこで賞をとればプロの作家としてデビューできる。賞金も出るし、バックも大きな企業だ。当たれば期待できるかもしれない。

 そのコンテストの募集要項を読み、大方のことは理解できた。どうやら読者からの評価によって受賞作が決まるというシステムらしい。つまり、たくさんの票を得るためにはより多くの人に読んでもらうことが一番大事なわけで、一編集者の独断で落選されるという心配はないわけだ。このシステムをちゃんと理解したうえであれば充分に勝機はあるかもしれない。

 オレはそう考えた。もう、今更手段なんか選んでいられる状況ではなかったのだ。


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