第16話 非童貞のはじまり

武本誠人 非童貞の始まり



 〝高校二年生の夏休みが人生で一番素晴らしい〟と誰かが言っていたのを聞いたことがあるが、ぼくの高2の夏休みはロクなことがなかった。

とある夏休みの午後、ぼくが立ち寄った場所。そこはいつもと同じあの喫茶店、リリスだった。相変わらず店内はガラガラだ。お客さんはぼくしかいない。眼鏡の彼女も今日はいない。むしろそれは好都合だった。いつものようにアイスコーヒーを片手に読書を始める。アイスコーヒーを運んだあと、マスターはいつものようにカウンターの内側に廻り込み、なにやら難しそうな本を読んでいた。

しばらくして、深呼吸をした後残りのアイスコーヒーを飲み干し、本を鞄にしまい、もう一度深呼吸をする。他のお客さんが来てしまわないうちに行動に移したい。手にはA4サイズの封筒が握られている。手のひらの汗で封筒の端が少し湿っぽくなり、しわが出来てやわらかくなっていた。中には今朝、早起きして印刷をした自作の小説の原稿が入っている。鞄を肩にかけてレジに向かい、会計を済ませると、マスターは不愛想に「ありがとうございました」と、小さな声で呟く。

「あの……」ぼくの一言で、うつむき加減のマスターは視線を一度上にあげた。「お願いがあるんですが……」

「なんでしょう……」

 まったく。口数の少ない会話だ。

「これ、読んでもらえませんか」手に持った封筒を差し出す。マスターは一瞬、怪訝な顔をする。まさかラブレターだとでも思われただろうか。「ぼ、ぼくが書いた小説なんです。そ、その……ダメな作品だってことはわかっているんです。で、でも、何がいけないかもわからないんです。だ、誰かの意見が欲しくて…… そ、その、マスターがいつも難しそうな本を読んでいるの知ってて、マスターならと思って……」

「い、いや、でも……」

「ボロカスに言っていただいて結構です。そんなのわかってますから。でも、自分じゃあわからないんです。だから誰かの意見が聞きたくて……」

「ま、まいったなあ。そこまで覚悟を語られるとこっちも断りづらくなる……」

「お願いします」

 ぼくは頭を下げて頼んだ。なんとしても、もっと上手に小説を書けるようになりたいのだ。

「わかったよ」

 マスターは封筒を受け取った。


リリスを出た夏休みのぼくには何の予定もない。両親は実家に帰って来いと言っているが、出来るなら帰りたくなど無かったぼくは、部活が忙しくてなかなか帰れないと嘘をついた。

本当は部活なんかしているわけないけれども、実家に帰ったところで地元に友達がいるわけでもないし、一人でこのアパートにいる方が自由でいい。それにリリスに行けばあの文学乙女に出会えるかもしれない。

 数日後の夕方、ぼくはひとりで家の近くのショッピングモールをぶらついていた。ショッピングモールと言えば言い過ぎかもしれない。駐車場の大きなスーパーマーケットを中心に、本屋やレンタルビデオ店、美容室。それにアパレル関係のショップと雑貨屋などが連立しただけの小規模なものだが、郊外のこのあたりではそれが一番の集客力を持った場所だということは言うまでもない。

 特にやることもない夏休みの一日の午前中、家に引きこもっているのに飽き飽きして、特に何の予定もないまま一人でぶらついているだけだ。そこに明確な理由などはない。

「武本君」と、ロクに友達がいないぼくに声を掛けてくる人がいた。見ればレスリング部の部長にしてイケメン代表の須藤先輩だ。先日、アパートで部員の傷の手当てをしたことがきっかけでちょっとした知り合いになった。須藤先輩は小堀君という友達を連れていた。いかにもチャラそうな、はっきり言って苦手なタイプの人物だったが、腕力最強の須藤先輩の友人とあらばむげに扱うことなどできない。適当に合わせるように挨拶をしているところに、奇跡が起こった。

 その小堀君という人の友人(女子)が通りかかり、会話に参加してきたのだが、その友人の連れている友人二人が、遠目に見てもものすごく美人だったのだ。金髪ハーフのエレナという子ともうひとり、ライトブラウンのショートカットの子、サキという子だった。ぼくはそのサキ という人物の顔に、どこか見覚えがあると感じたのだ。

 その人物が誰であるかを理解するまでにそれほどの時間は必要ではない。なぜならそのサキという子こそがぼくが恋焦がれてやまない、あの、眼鏡の文学乙女だったのだ。あまりにも自分の知っている彼女の姿とは違いすぎる。眼鏡だってかけてはいないため戸惑いはしたが、夏休みにイメージを変えてみたと言えばそれまでのことかもしれない。ぼくのことにはまるで気づく様子もないが、今まで言葉を交わしたことがあるでもなく、彼女はいつだって本に夢中だったし、眼鏡をかけていたくらいだから視力だってよくはないだろう…… だから仕方がないのだと自分自身を納得させた。

そして話は急展開をむかえる。なんとその六人でぼくの家に遊びに行こうというのだ。そこそこ広めの家に一人暮らしをしている家が近くのあるとなれば、お金を持っていない高校生からすればそれは格好の場所だ。本来なら知らない人たちを迎えたいとは思わないが、(元)黒髪の文学乙女が一緒だというのならば話は別だ。

かくしてぼくの部屋でちょっとしたパーティーが開かれる。お酒まで用意して、しかも少しいかがわしいゲームまで始まるという始末。ぼくはあまりその雰囲気に上手く馴染めなかった。そしておそらくそれはサキちゃんにしても同じことが言えたのではないだろうか。彼女は見事なまでのイメチェンをしているようだが、本来ならば静かに読書を愛するおとなしいタイプの女性。しかしながら、こうまで見事な美人に化けてしまったのでは他の男たちだって黙ってはいないだろう。そんな考えに、少しばかりの焦りがあったのかもしれない。

飲み物に入れる氷を用意するためにキッチンに立った時、ぼくのすぐ近くに小堀君がやってきた。そして耳元でそっと囁く。

「なあ、お前。あのショートの子、狙ってるだろ?」

「……」

「わるいようにしないからさ、俺の言うとおりにしろ」

 小堀君は王様ゲームで、自分が王様になった時、ぼくの番号をそっと教えるように指示を出した。ぼくは彼に言われるとおりに従った。それは、単に下心からの考えではなく、彼女をこの悪の巣窟から救い出すためだ…… と、言うのは嘘で、あとになってだからこそ言える、単なる後付の言い訳だ。

 しかし、王様小堀君の命令は少しばかり悪ふざけが過ぎた。高校生がゲームで行う罰ゲームとして、いくらなんでもそれはやりすぎだ。

「じゃあさ、3番と5番が…… となりの寝室で30分!」

 3番がぼくで、5番が笹木さんだった。

 笹木さんは少しばかり嫌がるかと思ったが、意外なことにそれをすんなりと受け入れた。自らが率先して寝室へと向かう。ぼくは、以前の笹木さんがおとなしい、黒髪の文学乙女だったことを知っている。こんな行動はいくらなんでも彼女らしくない。しかし、それも所詮ぼくが勝手に思い描いた想像上の彼女の姿でしかないわけで、希望的観測だ。彼女の本心は、もっと狡猾でしたたかな女性なのかもしれない。現に、よくよく考えてみればぼくは小堀君に3番であることを教えたわけではあるが、見事にこの組み合わせをつくるには、5番が笹木さんであることを知らなければならなかったはずだ。つまり、笹木さんもまた、小堀君に自分の数字を教えていたことになる。つまり、ぼくが笹木さんに好意を抱いていたのと同じように、笹木さんもぼくに好意を抱いていたということだろう。ならばこそ、ぼくは笹木さんに恥を掻かせるわけにはいかないのだ。


 笹木さんが先に寝室に入り、ぼくのベッドに横たわる。白々しく酔ったふりをしてぼくを誘う。今までこういったことに対する経験がないためよくわからないが、室内に入り、もう少し会話を弾ませてから雰囲気をつくって…… という流れだと思っていたが、有無を言わさずベッドの上で横になる彼女に対し、逆に面喰ってしまった。その潔さは彼女がそれなりの経験を経てきたという証拠なのだろう。人は見かけによらないものだ。

 ここまで来てしまうと、今更後へなんて引けない。度胸を据えていくところまで行くしかないだろう。寝室の照明を切り、ベッドの上に横たわる彼女の上に覆いかぶさるように四つ這いになる。彼女は目を瞑り、息をひそめてじっとしている。ぼくは生唾を呑む。素直に童貞だと告げた方がいいだろうか迷う。後でうまくできないことを指摘されてからよりも、先に言ってしまった方が潔いのかもしれない…… だが、もはやそんなことを言っている距離でもない。彼女のその張りのある厚ぼったい唇にぼくは近づいていく。もう、後には引けない。二人の間にぼくの吐息と彼女の吐息がぶつかり合って、熱く、湿り気のある小宇宙が出来上がる。彼女から、甘いかおりが漂ってくる……

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