第12話 吝嗇の華

 90分、一万八千円のサービスタイムは実質十分もかからない時間で終了した。「まだ時間は充分あるから」と、もう一回戦のサービスを提供しようとするセリカだったが、あいにくオレの方が彼女のサービスを受けたいとは思っていなかったし、今夜はおそらくどう足掻いたってオレの分身がいきり立つことなんてなかっただろう。たぶん。オレは何年もの間ずっと神聖視してきたセリカを、いや、松永莉那を汚してしまったことに罪悪感を覚えていたし、それ以上怪我したくはないと強く願っていたからだ。しかし、オレが一人でどう考えていようが、松永さんは日々汚れていくのであろう。オレ以外の客たちによって…… そしてその中のひとりが渉であるということをどうにか忘れてしまいたいが、あいにく人間の記憶というのはそう簡単にどうなるものでもない。そして今日の昼についたちょっとした嘘、オレの初めての性体験の相手が松永さんであるということはもっとも皮肉な形の事実となった。

「よかったら肩でも揉みましょうか?」

 サービス終了までまだ一時間以上ある。時間をもてあました彼女が気を利かせたのだろう。ここで断ったとして、時間が終了するまでの間の気まずさをどうすればいいのかもわからないオレはとりあえずそれに同意した。ベッドの淵に腰かけたオレの後に廻ったセリカはそっとオレの両肩に手を置いた。

「わー、すごいかたいよー」わざとらしくもあきらかに大きな声でそんなこと言う。おそらくほかの部屋でサービスを受けている者たちに聞こえるようにするためだろう。そして今度は耳元で、小さな声でささやく「若いのに、苦労しているんだね」

日ごろから読書とパソコンの前に立っての執筆の繰り返しの毎日だ。それを苦労というのかどうかは知らないが、肩が凝っているということには違いないだろう。

ぜんぜん力の入っていないマッサージは気持ちよくとも何ともない。それどころか無駄に装飾されたネイルが肩に食い込んでいたいだけだ。ときどきわざと背中に胸を押し付ける。サービスのつもりだろうが迷惑でしかない。そのたびに背中をのけぞらせ、当たらないようにする。

しかし、そのマッサージこそが一番オレを幸福にしてくれたのかもしれない。元来オレは、松永さんとこうやってマッサージをやり合うような関係を夢見ていたのではなかっただろうか。そう思うと胸の奥がつかえて、目がしらに熱いものがこみあげてきた。

『男は人前で泣いたりなんかしない』それはオレの中の哲学の一つでもあるが、まさか風俗に行って泣いただなんて恥の上塗りだ。

「ありがとう。マッサージはもういいよ」

 そう言ったオレは、本来ここに来た目的の一つを思い出していた。

「よかったら話を聞かせてくれないか」

 オレはセリカに自らが小説家を目指していることを語り、彼女に風俗店で働く女性についていろいろ聞いてみた。

 セリカは色々なことを、聞いていないことでさえも正直に答えてくれた。それはあまりに生々しく、衝撃的な内容で、たとえ知ったとしても小説のネタとして扱えるかどうかもきわどい話の数々だった。

 そして勢いづいた彼女はこれまでの自分の身の上話まで聞かせてくれた。オレの知っている話、貧しい家庭で育ったにもかかわらず、お金を持っているふりをして、アルバイトと節約を繰り返してブランドものを買いあさっていた事。そして大学にはいって派手なグループとつるむようになり、その症状はさらにエスカレートしていったこと。派手に遊ぶためにアルバイトをする暇もなくなり、方々でお金を借りるようになったこと。借金が膨らみ、それを返すためには仕事を選べなくなってしまったということ。たとえ仕事を選ばなくなったとしても、膨らんでいく利息分しか返せやしないということ。そのすべてを話してくれた。そして、最後にこう付け加えた。

「あたしね、それでもまだあきらめたわけじゃないのよ。いつか絶対幸せになってやるから。たとえどんな手段を使ってでもね」

すべてを話した彼女はすっきりとした表情で、その相変わらず大きくて黒い瞳に涙を蓄えていた。

もし彼女がオレのことを坂田忍だと認識していて、同時にオレが彼女のことを松永莉那として扱っていたのならば、絶対こんな会話は存在しなかっただろう。オレも小説家を目指しているなんて言わなかっただろうし、彼女だって聞かれてもいないことまで喋りはしなかったはずだ。互いに無関係の、そしてきっともう会うこともないであろう人間同士だからこそ、腹を割って正直に打ち明けられることだってある。

サービス時間の終了十分前になった。最後にひとつ、オレは意地悪な質問をしてみた。

「そう言えばさっき、オレのことを誰かと勘違いしてなかった? たしか、坂田とかなんとか。もしかして昔の恋人? あるいは好きな人だったりするのかな」

 彼女はにじむ涙をぬぐいながら、それでもなお、少しだけ笑いながら言った。

「ううん、ぜんぜんそんなんじゃないのよ。好きでも何でもない人。話だってろくにしたことないし、今どこで何をしてるかなんてことも全然興味がない人……」

「そうか……」

 オレはそれを聞いて少しだけ安心した。これでもう、二度と彼女と会う必要なんてない。そう思ったはずだった……

「でもね、ふしぎなのよ」彼女はチカチカする天井を仰いだ「少し前のことなんだけどその人が出てくる夢を見たの。突然大成功をおさめた彼がわたしの目の前に現れて、わたしに大金を差し出すのよ。そしてわたしをこの地獄の毎日から救い出してくれるの。ね、不思議な夢でしょ? ある晴れた、四月の朝の駅前のロータリーの前のベンチでの出来事だったわ」

 その言葉を聞いて、オレの全身は一瞬にして粟立った。運命は存在するのだと本気で思った。

 ついさっき、彼女の抱えている借金の金額を聞いた時、とんでもない金額だと思った。どうやったらそれだけの借金がつくれるのかも不思議なくらいの金額だ。だが、オレの応募した小説が大賞をとり、10万部の売り上げを記録すれば、その賞金と印税で十分払えるはずの金額だ。

90分間のサービス終了の時間になった。当然時間の延長なんてありえない。しかし、オレと彼女の物語はまだ続く。今ははっきりそのことが言える。

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