第11話 松永芹那
そして、オレと写真に写っている彼女はかつて恋人同士でもなければ童貞をささげたわけでもない。オレは今でも童貞というものをまるで家宝とでもいわんばかりに後生大事に守り続けている。この写真は偶然の産物ともいえる奇跡の一枚。高校生当時、写真部に所属していた友人が考えた撮影方法で、教室で笑って話をしている彼女の隣を通り過ぎるだけのオレ。それを写真部の友人が狙いをすまして撮影しているだけに過ぎない。そんな写真をオレは四年たった今も大事にデータ化し、携帯を買い替える時、もうみる事のない他の画像はほったらかしのままなのに、その画像データだけは新しいスマホに保存している。まさかこんな形で役に立つとは思っていなかった。
「なんにせよさ」渉は言った。「これって結構前の事だろ? 最近はどうなんだ? 定期的にヤレる子は確保してんのかよ?」
「……」
「ま、それに関しちゃ俺もそうなんだけどな。だからこうしてお前を誘ってるわけだし」
「で、でもさ。オレとしてはなんていうのかな。風俗って結局のところ嘘の関係だろ? お金を払って、嘘の愛と嘘の肉体関係を結ぶ……」
「だからなんだっていうんだよ。嘘でも気持ちがいいことには変わりないぜ。いや、むしろ嘘だからこそ、余計なことに気を遣わなくていい分気持ちがいい。それでいいじゃないか。気持ちの良さはホンモノだ! それだけが真実なんだよ!」
また、渉の声がだんだんと大きくなる。隣の眼鏡女子高生の鋭い視線を感じるが、もう恐ろしくてそちらの方を見ることはできない。
「おほん」
小さな咳払いで渉はまた声のボリュームを小さく絞る。
「なんにせよ、作家を目指す立場ならそんなきれいごとばかり言ってても仕方ないだろ。何事も経験して、それを自分の肥やしとして作品に活かすつもりじゃないとな。そこで得られる経験がお前を作家として一歩上へのステージへ押し上げてくれるんじゃないのか?」
「え……」
「頭だけで考えてちゃだめだよ。よりリアリティーな文章を書くためにはフィールドワークは絶対必要だ。風俗の世界を知りもしないお前の哲学に誰が好んで金を払うんだ」
――と、たしかにそういわれてしまえばそれにも一理あるのかもしれない。たしかにできることなら一度、そういう人たちに取材をしてみたいと思っていたことは事実だ。だがしかし、そういった人に取材を申し込む方法を、オレはひとつしか思い浮かばないでいたというのも事実だ。
渉は見事にオレの作家心を手玉に取り、その気にさせた。悔しいが確かに渉るには編集者としての才能があるのかもしれない。
正当ないいわけが出来上がった。
本心を言ってしまえば風俗に興味がないなんてとんでもない話だ。ただ、今まで大事にしてきた童貞を、風俗という場で捨ててしまうということに対する自分自身への劣等感というものがどうにも払うことができなかったにすぎないのだ。
〝作家として成長するための取材〟
なんと聞こえのいい言葉だろう。これならば自分自身の虚栄心にだって嘘をつきとおす事が出来そうだ。
安い居酒屋で勢いをつけるために一杯ひっかけながら夕食を済ませ、ネオン街へと向かう。きらびやかなネオン街は、どこも派手で金のかかっていそうな電飾掲示板が並ぶ。年間一、二冊のビジネス書と、週刊雑誌のゴシップ記事にしか金を払っていないのような、いかにもあたまの悪そうなサラリーマンたちが膨らませた財布を片手に、肩で風を切りながら偉そうに歩く姿がそこいらじゅうにあふれている。まあ、無理もない。彼らは今から一晩で何万、何十万という金を使うのだ。一冊の本が出来上がるまでにどれほどの労力があるか計り知れないというのに、出版業界、特に小説の業界は不況で、わずか数百円の文庫本ですらろくに売れないというのに、この世界ではいともやすやすと大金が消費されていることにいくばくかの憤りさえ感じる。この二つの業界にどれほどの違いがあるというのだろうか。どちらも〝嘘〟を売りあるているということには変わりないというのに。
渉は歩きなれた足取りで、人ごみにあふれたネオン街を器用に歩いていく。オレはその後ろを追いかけるだけでも一苦労だ。そして次の瞬間、数メートル前を歩いていた渉の姿を見失った。そのあたりまで行ったオレは当たりを見渡す。どうやら路地に入った様子だった。恐る恐る路地に入り、その奥で渉がオレを見つけて手招きをしている。この場所に、彼の行きつけの店があるらしい。なんでもとてもかわいい子が在籍しているらしいのだ。
店内に入り、アルバムを渡される。その中から好みの相手を選ぶというのだ。ページをめくり、オレはひとりの人物が目に留まった。金髪で化粧がキツイ女性ではあるが、オレ的には充分にストライクゾーンだと言える。本来ならば黒髪の清純派が好みなのだが、やはりこう言った店での在籍は少ない。その写真の子につい、見とれていたオレの様子に隣の渉は気付いた様子だった。
「マジか、まさかお前もセリカちゃん狙いだとは」
「セリカちゃん……」
見開いたページのその彼女の源氏名がセリカだということにはすぐ気付いた。そしてそのセリカこそが渉がいつも指名している〝かわいい子〟だと理解するまでに時間はかからない。
「まあ、仕方がないか。お前は今日が風俗デビューなんだろ? 今日のところはセリカちゃんは譲ってやるよ。彼女はテクニックもすごいからお前も絶対気に入るだろう。俺は他の子にするよ」
そして、個室に通される。個室と言っても安い間仕切りボードのようなもので無理やりに仕切られただけの部屋だ。どこの部屋ともわからない複数の声がいたるところから聞こえてくる。それに無駄にピンク色に着色している電灯がやけに安っぽく、みるみるうちに気分を盛り下げてくれる。
「セリカです」
登場したその子は、明らかにアルバムの写真よりワンランク落ちるものだった。アルバム用の写真はたくさんの照明を受けてとられたもので、肌はまるで白い雪のように輝いていたが、実物の彼女の肌は随分と荒れている。この無駄なピンクの照明も、そんな彼女の肌を隠すためのものかもしれないが、近くで見れば見るほどに、どうにも誤魔化しきれなどはしない。染められた金髪の生え際は黒い地毛が隠れる様子もなく一つの層をつくっているし、繰り返しかけられたパーマで髪質は痛んでごわごわしている。暑すぎる化粧も、長すぎる金のつけまつげも品がない。おまけに明らかに整形だとわかる鼻が許せない。日本人離れした、高くとがった鼻は少し上を向いていて、縦に長く伸びた鼻の穴がコンセントの穴を連想させる。嘘に塗り固められたセリカの顔を、オレはどうしても好きになれなかったが、それでもたしかに、一つだけホンモノが存在した。彼女の目、その大きくて黒目がちな目は、金の髪と眉とまつ毛、そのどれともまるで噛み合っていないが、大きな希望を抱いた、きらきらと輝く目をしていた。その瞳はかつての想い人、松永さんを思い出させてくれた。
特に、ほとんど会話をするでもなく彼女は自分の仕事を始めた。言葉は使わない代わりに、別の意味でのリップサービスが始まり。そしてオレの分身を口に含み上下に動かした。
正直。これほどまでに気持ちがいいものだとは思っていなかった。オレは自分自身を制御するのに必死だった。にもかかわらず、いったん口からそれを離したセリカが不意にオレの方を見上げ、こう言った。
「ねえ、もしかして坂田君?」
不意に自分の名を呼ばれ、焦ってオレは否定した。
「ちがうよ」
「そう……」
そして彼女は自分の仕事に戻る。その彼女の顔を改めて見下ろした時、オレは気づいてしまった。どんなに髪型と色を変えようとも、どんなに肌が荒れようとも、どれだけ鼻を整形しようとも、セリカは間違いなくかつての想い人、〝松永莉那〟だった。
それに気づいた瞬間。オレの緩んだ意識が自制心を失わせ、オレはセリカの口の中で果てた。
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