第8話 一人暮らしの部屋では
あたりを警戒しながらアパートへと帰る。木造二階建ての安くてボロイアパートは決して我が家が貧乏だということではない。一時的な仮の住まいのつもりで借りたからに過ぎない。現にぼくは高校二年生という立場で2LDKのこのアパートに一人で暮らしているからだ。
ぼくの家族は元々が首都圏に隣接するとある県に住んでいた。しかし去年、父が単身赴任で四、五年くらいの予定で今の田舎の街へと来ることが決まった。時を同じくして高校入学とともに友達作りに失敗したぼくは校内でいじめの対象になってしまい。次第に学校へは行かなくなり引きこもり始めていたころだった。ぼくは父の転勤を機に自分も地方へと連れて行ってほしいと言ったのだ。結果的に今年の正月から家族三人で今のアパートへと引っ越してきたのだ。首都圏近郊で育ったぼくに対し、皆は優しくぼくを迎え入れてくれた。仲の良い友達だって出来た。しかし、本社の意向で父は再び首都圏へと舞い戻ることになったのだ。母も当然それについて帰るわけだが、ぼくは断固としてここにとどまることを主張した。もう、あんな地獄へ戻りたいとは思わない。結果として高校を卒業するまでを条件に、このひとり暮らしにはあまりにも広すぎるアパートで自由気ままに暮らしている。初めのころはついに手に入れた自由な我が城を堪能した。だらしなく暮らしても誰も咎める者はいないし、エッチな動画も誰に気を遣うこともなく大音量で見ることができる。しかしそんな毎日にもすぐに飽きてしまい、今度は一人でいることがだんだん辛くなってしまった。その淋しさを紛らわせるために、ぼくはすぐに家には帰らず、リリスに通うようになったのだ。
家に帰ったぼくは、すぐに財布(学校へは持って行くものとは別の)から現金を取り出し、リリスに向かった。「マスターは次回で構わない」とはいってくれたものの、やはりすぐに支払っておかなければ気持ちの収まりが悪い。
支払いを済ませ、気分も落ち着いて再び家に帰ろうとした時、運悪く再びレスリング部のランニングの一行に出くわしてしまった。しかし、彼らは走る様子でもなく何やらトラブルがあったという様子だ。うずくまった一人の部員の周りを部長の須藤先輩をはじめ、他の部員がとり囲っている。その人だかりとは無関係のぼくはその道路のわきの方を離れて歩く、通りすがりにそっと様子をうかがうと、真ん中でうずくまった部員の膝からはかなりの出血をしているようだった。どうやらランニングの途中で転んでしまったのだろう。レスリング部のユニフォームは露出が多いのでダメージもデカい。出血の量からすると、転んだ先にガラスか何かが落ちていて、それが刺さってしまったのかもしれない。ぼくは血を見るのが苦手なのですぐさま目を反らし、そそくさとその場を立ち去ろうとした。
しかし、数歩歩いたところで後ろからぼくを呼び止める声がした。
「おい、君!」
ビクッ! っと体を硬直させてしまったが、すぐには振り返らない。面倒には巻き込まれたくない。
「君、さっきもこのあたりを歩いていたけど、もしかして家がこの近くなのかい?」
部長の須藤先輩がぼくに声を掛けてきた。〝さっきもこのあたりを歩いていたけど〟という言葉から、完全に面も割れてしまっているようだ。面倒に巻き込まれるのは不本意だが、この状況で須藤先輩とレスリング部の面々を無視するというわけにはいかないだろう。恐る恐る振り返り、無言のまま頭をこくりと下げてしまった。
「そうか、それはちょうどよかった。うちの部員がちょっと怪我をしてしまってね。すぐに洗って消毒をした方がよさそうなんだ。悪いんだが君の家で傷口を洗わせてもらえないだろうか」
誰がそんな申し出を断ることができるだろうか。強面のレスリング部を相手に、というわけではなく、人間としてそれを断るほどにはぼくの根性は腐っちゃあいない。ぼくの神聖な居城を汗臭いレスリング部の面々が次々に上がり込んでもぼくは嫌な顔一つしなかった。というかできなかった。それどころかぼく専用のマキロンやばんそうこう、包帯までも提供するという親切ぶりだった。そして、部長の須藤先輩は、後輩であるぼくに対して何度も何度もお礼を言った。悔しいけれど、〝強くてイケメン〟は、心までもがきれいで優しい人間だった。ぼくが太刀打ちできる要素は何一つない。
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