第4話  トラタヌ 


芹沢恭介  トラタヌ



 『あの夏の出来事はなかったことにした』芹沢恭介


 一次選考通過者の中に自分の名前を見つけた時、自分は小説を書いてもいいのだと、初めて誰かに許可されたような気がした。

 誰にだって後悔していることの一つや二つくらいは持っているだろう。僕が書いたのはそんな物語だった。ある夏に犯した一つの過ち。過去に戻る方法を見つけた主人公はその過ちを犯さないように計略をはかる。しかし、現実は何も変わらない。それは、その世界に住む別の人間が、やはり同じように過去に戻り、過ちを修正しようとしていたからだった。どんなことをしてもやはり過去は変えることができないわけで、主人公はその未来を受け入れるしかないことを悟る。

 それはやはり、僕が犯した過去の過ちをどこかで浄化させたいという想いからだろう……


 〝夢を持っている〟ことが良いことだ。なんて、一体何歳までが対象の言葉なのだろうか。十代二十代ならともかく、三十、四十代になってもまだ「将来の夢は……」などと語りだせばきっと哀れにしか思われないだろう。

 今から二十年も前、小説家を目指しているとは言ったものの、ついぞ完結まで書いたことは一度もなかった。書いている途中、これは全然面白くないと自分できづいてしまうのだ。

 そのたびに筆を折り、いつしか自分が小説家になるだけの資質を備えていないということを自覚した。それなのに再び今、こうしてペンを持つことになったきっかけをつくった彼に対して、少しは感謝しなければならないのだろう。



 「もう、そろそろいいだろう」


 まるで自分自身に言い訳をするように小さな声で呟いた。

 レストラン〝リリス〟の営業時間はAM11:00~PM10:00だが、夜の九時を過ぎた時点でもうそろそろお客さんの入りは望めない。クリスマスと正月という何かと忙しく、出費もかさむ時期が終わったばかりの一月中旬、外は一年で最も寒さが身に染みる時期だから仕方がないというのが僕なりの言い訳。自分自身を騙すために必要な嘘だ。春や夏や秋にしたって、それぞれ別の言い訳もちゃんと用意してある。 

隠れ家的レストランというコンセプトで住宅街の中に隠れるように開業させたレストランは、立地の問題もあり、まるで単なる喫茶店としての扱いしか受けなかった。ランチタイムにはそれなりに食事の客も入るのだが、それ以降はほとんどコーヒーだけで何時間も粘る客ばかりになる。ヘタにコーヒーにこだわりすぎたのがいけなかったのか、インターネットの口コミサイトでも〝コーヒーのおいしい喫茶店〟として紹介されるありさまだ。

その日も夜九時の時点で店内に客の誰もいないというのだから、それも仕方ないことだろうと今一度自分に言い訳をしながらカウンターのテーブルの内側から客席側へと移動する。カウンター席の一番奥の席に腰をかけて横向きになり、壁を背もたれにして持っていた文庫本を開く。読書という趣味は学生時代、もう二十年以上も前に始まった習慣だ。コックになったばかりのころから一度読書の習慣はなくなり、日夜料理の修行にばかり打ち込んでいたが、また最近になって活字を手放せなくなってきた。

 学生時代、将来は小説家になりたいなんてことを言っていた気もするが、一体いつの間にその夢を失ってしまったのかはわからない。もっと現実的なことを考えてと選んだ職業が料理人だった。なんにせよ手に職をつけるのが重要なのだと。当時はバブル景気が崩壊した直後ではあったが、それでも世の中はまだまだ浮かれていた。飲食業界も不景気だ不景気だと言いながらもどこのレストランもどこも満席だった。修業は厳しかったが将来独立開業すれば未来は明るいと誰もが信じていた。僕は昔から何に対しても凝り性の性格もあって、幅広い知識と技術を身につけ、業界でも若くして一目置かれる存在となった。天狗になって二十代で独立開業したが、それが甘かった。不景気の波はバブル崩壊後よりもさらに悪化してとどまるところを知らない。ニュースでは一時期好景気などと言ってはいたが、それも首都圏に限った話でしかない。地方ともなれば好景気など微塵も感じられはしない。同世代でともに修行をしていた仲間たちのほとんどは皆別の仕事をしている。独立して開業したものも、そのほとんどは今どこで何をしているかもわからない人がほとんどだ。飲食店は開業後、三年後に閉店している店が九割だと言われるようになって久しいが、それでも尚、こうして十年以上もの間つぶれずにいることを幸運というべきかもしれないが、果たしてどうだろうか。支払いギリギリの売上で、生活費に回す金額はほとんど残らない。いっそのこと潰れてしまって何か別の仕事をした方がよほど生活は安定するだろう。人は皆口をそろえて『夢をかなえた』とか『好きな事をして生活しているのだからうらやましい』というが、実際はそんなに甘いものじゃない。

 家に帰れば妻もいるわけで、彼女からすれば夢を見るよりも食べていくことの方が大事だと言うだろう。「客が来ないから店を閉めて帰って来た」ではおそらくすまされない。だからこうして客がいない時間に読書をするようになった。そして、一、二時間ほどしてからさも、今の今まで仕事をしていましたというフリをして家に帰るのだ。妻に対しては嘘をついているわけだが、これはあくまで優しい嘘だ。こうすることで妻に余計な心配をかけずに済む。そう思っているのだ。

 従業員は無く、現在はひとりで切り盛りをしている。以前は人を雇って仕事をしていたが、雇われの社員というのはどうしても経営者とは温度差がある。こっちは毎日の営業が死活問題であるにもかかわらず、月給をもらう社員からしてみれば楽して給料をもらえることが理想的だ。なるべく仕事の手を抜いて、言われたことだけをしぶしぶこなそうとする人間だって少なくはない。昨今、ブラック企業だという言葉がもてはやされるが、経営者側からしてみればブラック社員が増えすぎていることの方がより問題だ。

 もちろん、すべての人がそういうわけではないだろう。しかし、飲食業界ではやる気のある人間に限って若いうちに独立開業してしまうので、せっかく育てても一人前になると独立して居なくなってしまう。そんな状態が続いていくうちに、すっかり仕事に対する情熱が覚めてしまい、人を雇うことをやめてしまった。

 ひとりで切り盛りをすれば出来ないことも増え、業務内容もだんだんと淡くなり、それが原因で仕事に対する情熱もまた失われてしまう。しかしそれでも、人を雇うことの煩わしさを考えるならばその方がいいのではないかと考えることがある。


 しばらく本を読みふけり、いよいよ閉店時間の夜十時が迫ってきたころ、不意に店舗入り口のドアが開く。内心、「まいったなあ」と思う。今から入店して、そのお客が帰るころというのは一体何時になるだろう。しかしながら背に腹は代えられないので、「もう閉店です」と断るわけにもいかない。そんなことを考えながら本を閉じ、立ち上がって入口の方に視線をおくる。

「なんだ、おまえか」

「なんだとはなんや。せっかくこうしてひさしぶりに訪ねてきてやったゆうのに」

「コーヒーでいいか?」

「ああ、どうせ今から飯を食わせろやなんてゆうたら、恭ちゃんはあからさまに嫌な顔をするにきまってるやん?」

「しないよ」

「ぜったいするわ、しらんけど」

 〝ぜったい〟で話はじめているのに、最後に〝しらんけど〟をつけるのはフェアじゃない。どちらかの言葉が嘘に決まっているが、そんなことはいちいち気にしない。

「じゃあ、するだろうな」と、何事もなかったように切り返す。

「せやからコーヒーでええんねん」

「わかったよ」 

 カウンターの裏手にまわり、コーヒーを淹れる。それを待っているあいだその客、福間隼人は僕がカウンター席に置きっぱなしにしていた文庫本を手にとり、パラパラと興味がなさそうにめくって、そのままカウンター席に置いた。

「相変わらず難しそうなん読んでるな、恭ちゃんは」

「お前が言うことか、福間の方がもっと難しいのを読んでいただろう、昔は。最近じゃあ読まなくなったのか」

「読書は相変わらずするけどな。最近はもっと簡単なんを読むようになった。最近はそうゆん流行らんからな」

「流行とか、別に気にすることなんてないだろう?」

「それが気にする必要があるねん、わいは」

「ふーん」

 まるで興味のないような返事をしながらカウンターに淹れたてのコーヒーを二つ置く。小学校からの幼馴染が関西方面の大学に進学し、卒業して地元に帰ってくるなりエセ関西弁になっていた。それから何年も経つが未だに聞きなれないのはやはり彼の関西弁がニセモノだからだろう。四十年の人生のうち、たったの四年間だけ関西方面で過ごし、こちらに帰ってきて早、二十年近くがたつというのにいまだに言葉が元に戻らないなんて絶対にありえないことだ。しらんけど……

こうして話していても僕の知っている旧友とは別人なのではないかと思うこともあるが、淹れたての白い湯気がもうもうと立ち上がっているにもかかわらず福間はいっこう手をつける様子はない、そこに少しだけ安心できる。昔から猫舌なのだ。猫舌だからと言って僕がコーヒーをぬるめに入れるなんてことはありえないし、福間自身そんなことも期待などしていないだろう。僕はコーヒーカップの一つを手にとり、福間を横目に熱いコーヒーをゆっくりすすった。

「で、どういうことなんだ。福間」

「なにが」

「さっき言っただろう。流行を気にする必要があるって」

「ああ、そのことか……」呟きながら、まだ湯気の立つコーヒーカップを手にとり、ふうふうと息を吹きかける。カップを持つ手が少し震えている。彼なりに緊張しているのだろう。特に大した話ではないが、そんなに聞きたいのなら話してやってもいいという雰囲気を作り出したいのだろうが、長い付き合いのせいで、本当は話したくて話したくて仕方がないという空気が手に取るようにわかる。クールを装って、コーヒーカップに口をつけるが、「あっっつ!」と言って、またコーヒーカップをテーブルの上に置いた。

「商業作家を目指してるねん。読者にウケる話を書く必要がある。だからある程度は流行にも目、向けておかなあかん」

「……本気で言っているのか?」

「本気やで」

「そう言えばお前、昔小説家になりたいって言ってたよなあ」

「わいが、じゃない。わいらは、やろ? 恭ちゃんとわいと、あと平澤さん」

「平澤さんか…… あ、お前昔、平澤さんのこと、好きだったんだろ」

「わいが、じゃない。わいらは、やろ?」

「昔の話さ」

「随分昔の話やな。でも、普通に結婚して、子供を育てて。そういう普通の生活を望むなら、どっかで区切りをつける必要があった……」

「本当はそんなの、どこにもなかったんだろうけどな」

「要するにそういうことや。わいらはあん時、ていよく逃げただけなんや。夢をあきらめるて言い出すんが怖くて、世間体を気にしたような言い訳で逃げただけ。せやからわいは今、また改めてその夢を追いかけよう思うてな。そろそろ子供も親の手を離れてくるようになったし」

「そろそろ高校生だったか?」

「せや、来年高校に入る。もし、わいが小説家になったとしても、もうどうにかひとりで生きていける年や。小説家ってのは、ロクに食っていけるかもわからん職業やからな」

「おい、まさか新人賞とったら仕事辞めるつもりか?」

「知らんのか? 公務員ってのは副業禁止なんやで」

「ああ、そういえばそんな話聞いたことがあるな。だからって、本気で辞めるつもりか? 公務員なんて皆が憧れる職業だ。知ってるか? 今の十代の若者の将来なりたい夢の一位は公務員だ」

「そんなんは夢とは言わん。大体市役所職員なんてつまらん仕事や。誰にかてできる仕事や」

「でも、誰にでもなれる仕事でもない。競争倍率がすごいんだからな。大体お前はつまらんとか言いながら、何で公務員なんかなったんだよ」

「しゃあなかったんやて、わいな、大学時代に付き合ってた子、孕ませてもうたんや。そら、責任とって結婚ってなるやろ? でもな、こっちかて大学生や。彼女の両親に娘さんくださいて言える立場やないからな。ほんで、公務員の内定とったら堂々と挨拶いけるやろて……」

「そんな理由で?」

「大体みんなそんなもんやで。さすがに大阪や京都の公務員試験はムズそうやから、こうして田舎に帰って来たんや。しっかし、日本人の将来の夢、第一位が公務員やなんて、日本の未来は暗いな」

「ああ、その事なら心配しなくていい。一位は公務員だが、二位はユーチューバーらしい。夢があっていいことだ」

「いや、ますます不安になるわ」

「だったら公務員続けて日本の未来を守ればいい」

「公務員が日本の未来を守るかいな。自分の生活だけや。それに世の中を変えたいと思んならペンを握った方がまだましや」

「たしかにそうかもしれないな…… ペンで世界を変える。壮大な夢だな」

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