第2話  小説家の始まり

武本誠人   小説家の始まり



 学校の帰り道、駅へと向かう道の途中の路地を一本入ったところであたりの景色はまるで変ってしまう。過疎化が進む地方の県立高校の周りはあたり一面田畑に囲まれ、商業施設らしきものもまばらにしか存在しない。それでも、駅の周辺となればそれなりににぎわったっ通りもあるが、路地を一本入ってしまえばすぐに古い住宅街になる。ほとんどが古くから立ち並ぶ日本家屋がほとんどで、まばらに立ち並ぶ洋風建築の家は築二十年を過ぎたような家でさえもどこかモダンに感じてしまえるような街並みだ。

 そんな中、なぜか一軒の喫茶店がある。いつ行ってもほとんどお客さんがいないし、よくこんなのでつぶれないなと心配してしまいそうだ。入口のやたらと重そうな印象を受ける木製の扉を開けると中からコーヒー豆の香りが漂ってくる。静かに流れるモダンジャズの響きと、少し効き過ぎのエアコンの冷たい空気が流れてくる。店内入って右側にカウンター席が四席とその向こう側にいつも少し眠そうな中年のマスターが立っている。何も言わずに頭を少しだけ下げ、客が来たことを伝えると視線を左へと向ける。四人掛けのボックス席が四つ、さいころの四の目の形に並び、右奥の席には眼鏡をかけたおとなしそうな制服姿の女子高生が一人座って文庫本を広げて読みふけっている。手元に置かれてあるコーヒーカップにはまだなみなみとコーヒーが注がれているが、湯気の一つだってたっていやしない。

 ぼくはひとり、隣のボックス席に座る。そんなぼくの姿に気付いた彼女は一度文庫本から視線を上げ、こちらに向かって頭を少しだけ下げて、また本へと視線を戻す。

 マスターにアイスコーヒーを注文して、それが届くとストローを差して口をつける。ミルクやシロップは入れない。と、いうより始めからマスターはアイスコーヒーと一緒に持って来てもいない。ぼくがこの喫茶店を気に入っていて足しげく通っているうちに好みを覚えてくれたらしい。冷たいコーヒーが脳内を覚醒させ、鼻の奥で薫る深く焙煎したコーヒーの香りがリラックスを生み出すと、ぼくは鞄から読みかけの文庫本を取り出し、スピンをゆっくりとつまみ上げてページを開く。本の世界に入り込む前に、隣のボックスに座っている文学乙女の姿を見る。彼女はぼくのそんな視線に気づく様子もない。本に視線を戻し、物語の世界へとダイブする。今一度確認した隣の文学乙女の印象を抱えたまま、本の登場人物のひとりにそのイメージを投影させて……

 言うまでのことでもないが、ぼくは彼女に恋をしている。

 彼女に初めて出会ったのは、もう半年も前のことだ。冷たい冬の風がシンとした張りつめる世界を形成しはじめるころ、まだこのあたりの地理に詳しくない頃に家の近所をうろつきなががら路地を曲がり、すっかり道に迷ってしまったぼくが道を尋ねようと、入ったのがこの喫茶店だった。

 ぼくはその日、はじめて知った。一目惚れというものがこの世に実在するということを。耳が千切れそうになるくらいに真っ赤に染まったのは、何も木枯らしだけのせいではなかった。

 彼女はやはり今日と同じ、あの右奥のボックス席で本を読んでいた。彼女の狐色の制服は駅を挟んで反対側にある芸文館高校のものだ。ぼくの通う東西大寺高校が共学とは名ばかりのほぼ男子校に比べ、比較的に女子の割合が多めという羨ましい学校の生徒。その、駅向こうの学校の生徒が駅のこちら側に来ること自体が珍しい。にもかかわらず彼女がわざわざこんなところに来ているのはおそらく、この喫茶店がそれだけ読書に適しているからだろう。分厚いメガネをかけて、周りを気にするでもなく本を読んでいた彼女は、少し目が疲れたのだろう。不意に外したその眼鏡の下、彼女の大きくて黒目がちな瞳があらわになった。ぼくはその瞳に吸い寄せられるように隣のボックス席に座った。なにをするでもなく、ただ、黒髪の文学乙女を見つめていた。彼女はそんなぼくの姿に気付くこともなく、本を読みふけっていた。ぼくはその日を境に文学に目覚めた。その日の帰り道に本屋に立ち寄り、名だたる名文学を買いあさり、毎夜寝る間も惜しんで読み漁るようになった。ゲーテ、チェーホフ、ヘッセ、尾崎紅葉。彼らはすぐにぼくの心の友となった……

 と、いうのは嘘だ。本当は彼女に会うための口実をつくるため、またこの喫茶店に立ち寄り、その時に偶然同じ趣味を持っている者同士だということで仲良くなれればいいという算段があったのだ。帰りの本屋で数冊のライトノベルを買い、家に帰ってベッドの上に寝転んで本を開く。そうするとなぜだろう。不思議なことにいつの間にか眠りに落ちているのだ。夕食の後も、風呂に入った後も、なぜか本を開いて読み始めるといつの間にか眠りに落ちてしまう。よもやこれほどまでに活字と相性の悪い人間がいるなんて思いもしなかったが、しばらく慣れてくると自然と読書ができるようになった。そしてぼくは時々、こうしてこの喫茶店に立ち寄り、彼女の隣で読書をする。ここに来ればいつも会えるというわけではなかったが、名前も知らない彼女と唯一で会うことができるかのせいがある場所もここしかなかった。

あれから一年間。幾度ともなくこうして彼女の隣で読書をしてきたぼくだが、未だに彼女の名前すら知らない。互いに顔は見知っているはずだが、声を掛ける勇気ひとつないぼくにできることは小説の物語の登場人物に彼女の姿を重ね、妄想を巡らせることぐらいだ。


 喫茶店で読書を始めて二時間くらいはたっていただろうか。ゆっくり時間を過ごしてもらおうとする気持ちなのか、基本的に喫茶店には時計がない。さらに日の長い夏ともなれば時間のことなどつい忘れてしまう。隣の席の文学乙女が本を閉じた音でようやくぼくもこっちの世界へ帰って来た。文学乙女は冷め切って冷たくなってしまった紅茶を一気に飲み干し、席を立った。会計を済ませて店を出て行く彼女を背中で見つめ、ぼくもそろそろ帰ろうと思ったが、さすがに今の今、このタイミングで帰ろうとすればぼくの計らいがあまりにも見え透いていて恥ずかしいので、まだもうしばらく時間をつぶさなくてはならない。

いつの間にかカウンター席には中年男性の客が一人、マスターと会話をしていた。ここからだと距離があるが、静かな店内では耳をそばだてれば何の話をしているのか聞こえないでもない。どうやら本の話をしているらしい。ここのマスターが読書好きだということはもう知っている。暇そうな店内の片隅で、スツールに腰かけて本を読んでいる姿を見かけたことは何度もある。類は友を呼ぶ、とでもいえばいいのだろうか。自然とこの店に読書好きが集まってくるようになっているらしい。ぼくは席を立ちあがり、会計を済ませようとレジに向かった。カウンター席でマスターと話をしていた中年の男性がスマホを片手に「あ、もう一次の結果が出てる」とつぶやいた。どうとでも聞き取れるその言葉だったが、読書好きだとわかっているその客が発した言葉なら、タイミングを考えてみても思い当たるものはひとつしかなかった。

某有名小説新人賞の一次選考の発表だ。その応募数は数千を超えて、その業界でも一目置かれている。

心臓をわしづかみにされるかのように息が詰まった。会計を終わらせ、急いで家に帰ったぼくはパソコンの前に座わり、webに接続する。

すっかり油断していた。予定では来週の月曜日に発表だとばかりに思っていたが、土日を挟んだ前日の今日、金曜日に一次選考の結果が発表されていた。

マイページにアクセスれば一瞬でわかることなのだが、ぼくはあえてそのネット上に書きだされた数百にわたる作品名と著者名とをチェックする。

全てを確認するのに十分以上もかかった。そしてもう一度頭から、取りこぼしのないようにひとつずつしっかりとチェックしていく。落ちているなどという考えは全くない。特に今日は喫茶店で彼女にも会えたし、ラッキーデーだと思っていた。

――そんなはずはない。

しかし、何度捜してみてもそこに自分のペンネーム、『tamayan』は存在しなかった。念のためにマイページにアクセスするが、そこには応募作品名の隣に、虚しく『一次選考落選』というグレーのはかない文字があるだけだった。

考えてみればおこがましいが、なにか作品を書いて応募すれば一次選考くらいは通るものだと考えていた。しかし、実に九割の人間がこの一次選考で落とされてしまうのだ。その中のほぼ全員が切磋琢磨して書き上げた小説を投稿し、そのほとんどがふるい落とされているというのに、初挑戦の自分がそうやすやすと一次を通過するなんてありえないことなのだ。

自らが小説をかきあげ、受賞し、出版されたその本を読書好きな彼女に読んでもらう。そしてそのことをきっかけに二人の仲は…… と言うぼくの壮大なその夢は儚く散った。


翌朝、いつもよりも少しだけ早く目覚めた。カーテンを引いて窓を開けると、そこにもいつもと変わらない、ぼくにとっては眩しすぎる朝日が差し込んでくる。

――なぜだろう。いつもと変わらない朝日がこんなにもまぶしく、虚しい気持ちにさせるのは…… 胸の奥から熱いものがこみあげてくる。

昨日までと違うこと。それはぼくにとっての挑戦がひとつ終わっただけのことだ。いや、ちがうかな。昨日までのぼくは、いつもいつも自作の小説のことばかり考えていた。本を読んでも、テレビを見ていても、友達と他愛もない会話をしている時も、今のこの瞬間、使えるんじゃないかとか、自分だったらこうするだろうかとか、そういうことをいつも考えていたんだ。ぼくはきっとそんな毎日がいつのまにか好きになっていた。

それが終わったのだ。これからぼくは、なにを心の支えに生きていけばいいというのだろう……


なんて、そんなのは簡単なことだ。次に向けて頑張ればいいことだ。

ぼくはまだ若い。未来はこれから待っている。一つの終わりは新しいひとつのスタートでしかありえない。

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