異界の花

青ちょびれ

巫女

 占星術師は言った、神がこの娘を見初めたと。

 当人は未だ幼児であったので、大人の腕に抱えられて泣くばかり。占星師が幼児を引き取るのを小国の王族と大臣は是とし、これを見守ることにした。

 国には予兆占いが現存しており、王城には占星術の一族が召し抱えられている。彼等は天体の軌道と地上の出来事の前後を結び合わせて大局を占う。

 幼児もまた星の定めを帯びるといい、王城内の一角で育てられた。名をルクスースという。

 ルクスースはさる小村に生まれた。両親と産婆は赤子の誕生を喜んだが、産声に重なって響くものに気付く。海鳴り、或いは遠雷に近い。聞く者の頭蓋に轟々と唸る渦巻きが展開され、荒れ狂う騒々しさに両親、産婆が苦しみはじめた。不可視の海鳴りは村中を呑み込み、得体の知れぬ力に晒された人々は苦悩と当惑に膝を折る。

 誰も知り得なかったが、これはルクスースが備えていた能力で、精神感応能力という。

 奇怪なる噂を聞きつけて首都より使者が派遣されると、両親は泣きついて子供を差し出した。この子は我々の手に負えない。きっと何か、巨大な力を持っている。

 子を捨てたのだろうか。それとも託したのだろうか。自らが王城へ至るまでの経緯をしったとき、ルクスースは解釈に迷った。

 持て余すことは理解出来る。だが、同じ国に生きているはずの親から便りの一つも得たことがない事実に気づくと、ルクスースは寝具のなかで丸まり、動揺が感能力として他者に及ばぬよう、注意をしながら静かに泣いた。

 ルクスースの立場は巫女であり、その役割は扇動。


「この闘いによって必ずや民の平穏は約束されましょう、巫女の加護を貴方方の剣に授けます」


 成長したルクスースの長髪は湖の最も清らかな流れを思わせる青色に澄み、王家の仕立てによる白の法衣が華奢な四肢を包む。淡く花色に染まった指先が天を示せば、兵は剣を掲げ、民は熱狂した。

 感能力は唇と舌を動かさずして、ルクスースの感情と情報とを他者に聞かせることが出来る。耳でなく頭に直接届くので、人の心を酔わせやすい。洗脳や催眠とは異なるため理性を奪うことはないが、王の政策と組み合わさって内乱を抑制し、兵士の士気をあげて戦争に勝利すると、事実として民の暮らしは潤い、ますますルクスースへの心酔は強まった。

 驚くべきは感能力の規模で、最大規模となれば国境付近にまで及ぶ。巫女の立つ王城のバルコニーを起点とし、森と川を超えた先、僻地の小村にまで巫女の声は届くのに、獣達は立ち耳を震わせない、人だけがこれを聞く。

 まさしく奇跡の御業。国に欠かせざる存在として、僅か数年で巫女の地位は確立された。

 巫女を得て国は豊かさを増すばかりだが、齢十九のルクスースが発声する機会は、王への嘆願時に限られた。手話と筆談を使い分け、側仕えさえ彼女の声というものを聞くことが殆ど無い。

 謁見の間にて、ルクスースは久方ぶりに喉を震わせる。


「……武力の証明をし、我が国の威光を内外にお示しになられましたら、何卒、講話と外交とに応じてください。疑心と緊張を和らげ、寛大さで以てご判断下さい」


 ルクスースがこう述べると、王は目を閉じた。陛下に感能力を差し向けることは許されていない、それ故に常人と同じく声で話す。王は巫女の忠告を留めると返した。民の支持は厚く、国王でさえルクスースを軽視することが難しい。

 巫女の価値はつり上がり、国運を左右する重大な会議や取引、機密情報のやりとりにまで同席する。王族がルクスースを手放すはずもない。手厚い保護を受けながらも政治利用され続け、王城の敷地内から出ることは許されぬまま、生涯を終えるだろう。

 養育者としてルクスースに読み書きを教え、貴族の子女と同等の教育を与えてくれた占星術師は、神秘を担うことで王城内の立場を維持してきた。

 奇跡を操るルクスースからすると、占星術は伝統と学問の一種で説明不能の力はない。感応力との競合を避け、城内での価値と地位が失墜するのを防ぐべく、占星術師は赤子のルクスースを取り込んだのだろう。

 情があれば逆らい難いもの。相手の全てが愛情ではなくても、占星師に涙を拭われ、優しい抱擁を受けた記憶がルクスースにはある。

 占星師が王家と共に生きていくための戦略としてルクスースに接することも、王族から政治利用されることも、不幸ではない。暖かな食事と安全な暮らしが確約されているし、身内の情もある。

 しかし、能力の正しい使い方は王族にも占星師にもわからないまま。参考にすべき指針を王城の書庫に求めて本を開いても、ルクスースの疑問は氷解しない。

 何故、ルクスースだけがこの前例の無い能力を得たのか? 自分が子を産めば感能力は引き継がれるのか?

 ルクスースは内向的であったが、同時に聡明であった。答えがなくとも模索を続け、他者の打算に気づいても受けた親切を忘れない。

 取り留めなき思考は夜更けに響くノックで中断された。取次なくルクスースの私室の前に立てるのだ、訪問者は王子だろう。


「ルクスース。今回のことでお前も随分と憔悴したろう」


 ペンを取って答えようとしたルクスースを待たずに、王子は娘を抱擁する。


「いいんだ。筆談をしなくても俺にはお前の気持ちがわかる」


 彼等は幼馴染みである。巫女と関われるのは王族と大臣、一部の上級使用人のみ。王子が言う。


「お前の前で陛下が従臣を傷つけたときは、俺も肝が冷えたよ。まさか巫女を血で穢すなど、王といえども慎むべきだ」


 現国王は善政を敷いているといえたが、近頃は傲岸不遜な振る舞いが目立つようになった。謙虚さを失いつつあるのはルクスースの影響もあろう。何もかも首尾よく運び、気が大きくなっている。

 危惧したルクスースの諌言に頷いた王だが、謁見の間にて凶事が起こった。臣下が無礼を働いたと腹を立て、突然に剣を抜いて斬りつけたのだ。傍のルクスースはまともに血の飛沫を浴び、斬られた臣下の悲鳴を聞いた。とはいえ、些かの動揺も見せないことは巫女の果たすべき務めのひとつである。

 ルクスースがどうあれ、神聖さを語る巫女の体面として陰惨な場に長く留まるべきではない。手話により断りをいれて、一足早く部屋へと下がったが、血の赤はルクスースの目に焼き付き、巫女の殻の内側で眠っていた内気で臆病な性質が娘の心音を早めた。王子はこれを案じたのだろう。

 彼は二十代の若者で、ルクスースを囲む人々のなかでも年頃が近い。王城に咲き誇るバラ園の中を幼い彼と共にはしゃいで走り回った日の記憶を、ルクスースも朧に抱いている。だから彼のことは好きだ。けれど、男の手がルクスースの腰を抱くのは恐ろしい。

 彼はいずれは妻を娶り、王位を継ぐであろう。才覚に恵まれた青年で勇猛果敢。有能がためか、少し自惚れの強い節もあって、彼はルクスースの心が自分にあると疑わない。


「なあ、ルクスース。俺と二人きりなのだから、口を利いても構わんのだぞ」


 王子は時折に促すがルクスースは曖昧に笑む。一部とだけ口を利いてしまえば気が緩み、巫女として鍛えた自制心に隙を作るだけ。

 感能力を高める為に一切の発声を禁ずる、という訓練は、強要された初期にはルクスースを悲しませたが、今では習慣として受け入れられている。城内では手話と筆談が常態化しており、巫女の発声は特別な意味を持つ。ルクスースがただの娘として口の利ける事実を忘れず、当たり前に促してくれる王子の発言は嬉しい。しかし、睦言を話せと期待されているならば、口を噤んだままでいるほうがルクスースの心は軽い。


「この先、王位継承者として正妻を他に迎えることになるかもしれない、だが地位のある男はみな、内実を偽る必要がある。……俺が心に住まわせている娘はお前だけだ」

 

 王子はルクスースへと顔を伏せて、口付けた。

 彼がルクスースに懸想していると察していたが、これほどあからさまに語り、触れたのは初めてのこと。血の気が引き、ルクスースの指先は震えたが拳をつくって耐え忍ぶ。

 王城でしか暮らしたことのないルクスースは今の生活を疲れていると感じることは出来ても、辛いとまで認識することが難しい。他の選択肢を望むことが出来ず、より負荷のかかる希望を抱かないよう無意識の防衛本能が働き、以前より情動が鈍くなっていた。


「今日のことは恐ろしかったろう。だがルクスース、お前には俺がいる。君の味方だ……」


男の熱がこもる眼差しに晒され、自らの肉体を女として検分されていると察したルクスースは、羞恥に顔を赤くした。未通娘の純朴な当惑は、却って王子の情欲を滾らせる。彼はルクスースを掻き抱くと、寝台へと運び込み、敷布の上に小さな体を組み伏せた。再び唇が合わさり、ルクスースは喘ぐ。息が苦しく、男が恐ろしかったのだ。

 時が来れば彼の側室となることは予見できた話で、王子がこれほどルクスースに情熱を傾けていることの方が周囲の誤算であろう。

 いつか側室になるならば時期が早まったに過ぎず、ここで操を明け渡しても構うまい。ルクスースは自らを宥めにかかる。私は恥ずかしいだけ、殿下は優しい御方。私心を殺すルクスースの目尻から涙が流れた。王子を受け入れようとするほど指が震える。

 男はルクスースのネグリジェに手をかけ、胸元を寛げた。乳房が他人の視線と外気に晒されたとわかり、ルクスースは胃に圧迫を感じた。抑圧を重ねた弊害か、感情が胃を押し上げて吐き気がこみあげる。

 王子は考えてくれたことがあるだろうか。巫女の自分が孕み、子を産めば同じ力の持ち主が現れると王や周囲に期待されていることを。

 ルクスースひとりなら、この人生も悪くない。だが王子と子を成し、その子が星の巫女たる力を持っていたら。

 嗚呼、とルクスースは呻く。周囲に諾々と従えば、搾取と消費の系譜がルクスースの腹を起点として始まるだろう。必死に維持した巫女の殻が罅割れるのを彼女は感じた。王子は女の細く弱々しい声は嬌声なのだと聞き違って、乳房を筋張った手で包み込み、柔らかさを堪能する。

何もかもちぐはぐではないか、端から誤りだった――私の意気地の無さのせいだ。


「やめて! 嫌、嫌ッ」


ルクスースは縺れる舌で絶叫すると、王子を突き飛ばして寝台を降りる。着乱れたネグリジェもそのまま、胸部を晒して裸足で裾を蹴りあげながら、寝室を出て廊下を走った。目的地などない。逃げ場も。だが自らの人生は全て間違いだったと彼女は気づいたのだ。

 私が軟弱だから、能力の運用を他人任せにしてしまった。城にいればきっと孕ませられる。


「私のせいで、私が上手くやれないから……!」


ごめんなさいと謝りたいが、許しを乞う先がない。ルクスースは内側より現れた恐怖の津波に追われて夜を逃げ惑う。城の敷地内、絨毯から階段、石畳、下草の上。知らぬ間に庭まで出てしまっていた。

 自責の念に泣きじゃくりながら、かくなる上は舌を噛み切ってこの世を去るしかないと思われた。その時、幸か不幸か娘は足を滑らせた。

 王城の広い敷地を闇雲に走り、森へと通ずる川に落下したのである。娘は意識を失い、水に飲まれて橋を超え、城を離れ、更に遠く遠くへ運ばれる。

 この世界、この国に前例はなく、唯一無二の能力を授かった娘にひとつ明らかなのは強運だということ。

 朝陽が地平線に現れ、差し伸べられた光が森の茂みを貫通し、流れの穏やかになった川面を照らしていた。煌めきがぶつかりあい、また混ざり合う水の戯れのなかに、ルクスースの纏うネグリジェが空気を孕んで漂う。浮草や小枝が絡みつき、或いは支えとなって彼女を仰向けにしたまま、水の流れが娘を運ぶ。

 茂みを揺らす音に続き、何者かが川へはいった。浮草や花を巻き付けたルクスースを腕に抱き留めると、彼女の額に手を翳す。娘は青ざめた死相を表していたが、かろうじて心音を止めておらず、途端に咳き込み、誤飲した水を激しく吐き出した。常人ならざる奇跡がルクスースに備わるがゆえか、或いは娘の額に手を翳した何者かの作用によるものか。

 死の淵より蘇ったルクスースは目を瞬かせ、頭上を見上げる。彼女を抱き留めているのは見知らぬ男だ。

 川のせせらぎが轟と音を立て、飛沫がルクスースの顔と肩を叩き、下半身はまだ水の流れに晒されているのに、男の低い声は阻害されることなく聞き分けられた。


「間違いない、お前だ」


 男は白髪で、肌は張りがあり青年の齢と知れる。ルクスースが目を凝らしても彼に見覚えはない。鼻梁が通り、彫りが深く、睫毛は髪と同じに白い。薄い唇までは人の美貌だが、瞳が違う。白目が黒く、双眸は金に輝いている。

 ルクスースは呆然として、自分を水の流れから留めている男を見上げるしかできない。というよりは、見惚れた。それほどに男の造形は美しく、疲弊しきった娘には救いだった。

 川から拾われたことではない。乳房を露出したまま、噎せたが為に鼻と口から水を垂れ流し、無様に顔を汚した有様で、自分が巫女であったことさえも忘れ、魂以外に何の持ち合わせもない、忘我の域で不思議な男に見入る。その瞬間の、無に等しい心の軽さが救いだったのだ。


「会いたかったよ、私の宿命」

 

 宿命。意味を問い返すことが出来ず、ルクスースは男の手元で再び意識を失った。

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